教育委員長に愛人?

2007-12-24 00:00:42 | 歴史
0d252e55.jpg幕末の江戸というのも、ずいぶんと面白い。私見だが、日本史のハイライトを3つ挙げれば、戦国時代のトーナメント戦で家康が優勝したこと、そして、幕末のペリーの黒船(1853年)から明治政府誕生まで。そして、大正デモクラシーだったのに、いつの間にか方向転換して第二次大戦に連座したこと。いずれも、当時の人々の誰も想像していなかった方向に社会が変わってしまった。

渋谷の「たばこと塩の博物館」で「幕末ニッポン、ハリスと黄昏の大君の都」を観る。この博物館はJTが運営している。たばこという、合法的な統制価格商品は値崩れしないということを最大の理由として、大儲けの図だ。入場料は100円と安い。たばこ7本分だ。

実は、今回の展示の一つの中心は、米国の初代日本公使、タウンゼント・ハリスの特集ということになっている。歴史の教科書では、ペリーとハリスと並べてあり、同じぐらいの身分のように書かれているが、方やペリーは大統領の椅子も狙っていたように大物である。しかし、ハリスは一介の商人だった。

0d252e55.jpg今回、はじめて、ハリスの略歴を見て、色々と思うことがあったのは、1804年、ニューヨーク州の貧しい家に生まれたハリスは、商人としての才を伸ばし、突如、42歳の時、ニューヨーク州の教育委員会委員長を務める。そのあたりの事情はよくわからないが、別途、彼は現在のニューヨーク市立大学の前身である授業料不要の「フリー・アカデミー」の設立に尽力している。つまり、商売で稼いだお金を無料大学につぎこんで、その結果、教育委員会の委員長になったのだろうか。

その後、たまたま東アジア地区への海外旅行をしているうちに、外交官になりたくなって、民主党員だったこともあり、ペリーによって開国が決まった日本での初代総領事となる。そして1856年から3年を伊豆下田の総領事館で過ごし、その後、江戸に出府し、麻布の善福寺を公使館とする。

実は、何年か前、下田に行き、総領事館であった玉泉寺に行ったことがある。ハリスは相当量の遺物を残している。その中でも、日本側があてがった現地妻である「お吉」について、多く展示を行っていた。さすがご当地だ。実際には、お吉は、1週間ほどで解雇されているようだ。なにしろ、ハリスは70年以上の一生の間、独身だったそうだ。元教育委員長が「愛人とか現地妻」ではまずいと思ったのだろうか。一方、日本側は地元の女性をあてがうことによって、江戸進出をあきらめさせようという魂胆があったのだろう。ハリスについては作戦失敗だった。女嫌いだったのだろうか。

これにひきかえ、通訳のヒュースケンは、複数の愛人をかかえ、特に「お鶴」という女性には、こども(男)まで生ませている。お鶴が20歳の時、29歳のヒュースケンは暗殺されるのだが、そのとき20歳だった鶴とその子については歴史には登場しない。ちょっと調べてみたいが手がかりがわからない。

0d252e55.jpgハリスはオランダにいたヒュースケンの母親には十分の償いをするように米国政府に要請し、それは適えられている。おそらく、お鶴とその男児にも何らかの配慮をしたのではないかと思う。一方、ヒュースケンは、英、仏など他国の公使や幕吏からも慕われていて、ハリスの手に負えない部分もあったと思う。治外法権をいいことに、目黒や品川の方で猟銃をやたらに撃ち、流れ弾で農民を殺したりしている。(この段落のすべての記述は博物館に行っても、書かれていない)

そして、民主党員だったハリスは、その後、大統領が共和党のリンカーンになった後、米国へ帰国。おりしも南北戦争である。日本外交の中心だった米国の力が弱まり、欧州大陸型のフランス・プロイセンといった国が日本外交で力を発揮するようになったことが、その後の日本の針路に影響しているとも思える。1878年、ニューヨークで亡くなる。


ところで、これも博物館には関係なく、当時の米国人の日本人観についてだが、豆州下田郷土資料館が編集した「ペリー日本遠征記図譜」の中に、ぺリーの日記が紹介されていて、「日本人は、寝るときに、浴衣を身に着けるが、それはすぐに下半身がはだけてしまう。日本人が子沢山なのは、この浴衣のせいだ。」というような内容の、いかにも米国人らしい勝手な暴論を展開している。しかし、案外、それは真実かもしれない。

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