イスラーム思想と国際社会(講演会)

2006-03-14 07:32:04 | 市民A
8955f124.jpg国際日本文化研究センター助教授の池内恵氏の講演会へ行く。と書きたいが、昨年11月18日に行なわれたこの講演、直前に所用ができてキャンセル。普通はそれで終わりだが、主催者のご配慮で、当日の出席予定者には講演録がCD-ROMで送られてきた。約1時間の講演を聴く。

しかし、本当は、後で聞くと不都合がある。まず、本人の姿もなく声だけ聞くので眠くなる。さらに、手元の配布資料での説明の部分は、想像の世界になる。ちょっとしたジョークも、面白くない。場の雰囲気がないからだ。また、後でDISKを見ても斜め読みするわけにもいかないから、聞きながらメモをとらなければならない。そして、最大の問題は、講演の時には最新の話であっても、それがCDにプレスされ、自宅に届くまでに時間が経過し、話題が古くなっていった場合だ。あるいは、当日、大胆な予言で沸かせたとしても、数ヵ月後には逆の答えがでている時もある。

実は、この講演の内容にも同じようなことがあった。昨年11月の段階で、この講演で取り上げられたイスラム関係の事件として、ロンドン地下鉄テロがあった。そしてその模倣犯。さらにフランスで、若いムスリムによる暴動(クルマの焼討)がおきた。それらの事件について、コーランに基づく事件の解釈が行なわれてのだが、最近は、さらにデンマークでの預言者ムハンマドの風刺画事件があったが、これは講演より後のこと。彼の説明で、この事件も解釈できるのだろうか。

まず、池内氏は欧州の主要国の異文化に対する態度を論調する。まず、欧州といっても国によって、ずいぶん制度は異なる。もちろん文化も異なる。日本人から見ると、欧米人は全部同じように見えるかもしれないが、実はずいぶん違う。「似て非なるもの」という言い方をするとさらに怒られる。「似てもいないし、非なるもの」である、という。各国の特にイスラム社会からの移民との関係について、池内氏の論拠ならびに私の感想は以下のとおり。

まず、ドイツは伝統的に「隔離主義」だそうだ。その裏には、自国の「血統主義」があって、ムスリムに限らずゲルマン民族以外は、「ドイツ」の枠の外に置くという考え方。トルコ移民の問題が深刻だが、トルコ人がトルコ人としてドイツで生活するのは構わないが、同化するなどとんでもない、という。したがって、トルコ人が増えてきたら人数枠で管理するわけだ。なんだか60年前と大差ない。

次に、フランスだが、これが大変な大国家であって、「理念主義」である。フランスの存在するための理念を共有する人間ならば、フランス人だが、反対するならフランス人とは認めない、出て行けということだ。要するに「国家の品格」を強要するわけだ。普段、おとなしいフランス人も、ことフランスの理念の話になると、頑固親父になるらしい。後述するが、極端に言えばムスリムともっとも衝突する可能性がある国だ。

そして、英国、米国、オランダ。要するに、国家はコミューンの集合体と考えている。個別の集団の中で、個人の信仰がいかにあっても構わないが、全体として国益とか国家の目的、目標といったところで価値観を共有するべき、という考え方である。そのため、個人の信仰までは国家が突っ込まないが、反面、多くの宗派が混在することになる。誰が、宗教的指導者かといっても判然としない。

そういった意味で、ロンドンの地下鉄テロは、ムスリムの中の一集団の起こした事件であるが、他のグループと連帯しているというより個別事件という認識が正しいそうだ。

逆に、フランスの暴動は、宗教的対立を考える糸口を与えてくれる、という。その前に、学校でのベール着用問題があったわけで、小、中、高の学校内でムスリムの若い女性がベールをつけることを禁止された事件があった。その件は暴動化したわけではないが、フランス政府は、公共の場では宗教活動を禁止することによって、宗教の自由を国民に保障する、という思想なのに対し、ムスリム側は、女性のベールは外敵からの精神的な迫害を守るための防御ネットなのだから、着用しないというのは宗教の自由に反するということになる。そして、イスラムの考え方によれば、同じイスラム教の信者を守るために、ベールをしていない女性にはベールをつけさせなければならないし、それに反対する勢力とは戦わなければならなくなる。本質的には、男性の頬ひげも宗教的行為なのだが、幸いなことにあまり高校生までではヒゲは濃くならず、またヒゲが体に付随したものなので、ちょっとやめろとは言いにくいのかもしれない。

ということで、むしろイギリスよりもフランスでの暴動の方が、西欧文明とムスリムの対立が深く影響しているということなのだろう。デンマークの風刺画も同様なのだろう。

次にテーマはコーランに移る。コーランに内在する問題を解説する。まず、イスラムは勝者の宗教であり、コーランはムハンマドの成功体験が元になっているということだそうだ。ジハードによって宗教を拡大していった。一方、ユダヤ教は無論、キリスト教も迫害された歴史を持ち、聖書にもその影響は残っている。キリスト教は、やたらと戦ってはいけないわけだ。平和主義が駄目なら戦うことになる。一方、イスラム教では、無神論者や邪教はやっつけてしまうか、改宗させ喜捨をさせなければならない。

ところが、コーランの中にも政治と宗教は分離して考えてもいい、というくだりがある。特に米国人はそこを強調して、宗教の自由は大いに結構だが、非イスラムの国の宗教や政治のことは口を出さなければいいじゃないか、ということをいうわけだ。実はイスラム学者の中にもそのような説があるのだが、そのまま認めると、コーランの中の自己矛盾を認めることになる。正統的イスラム学者の説では、平和主義と武闘主義について、ムハンマドが後で語った武闘主義の方をファイナルアンサーとして捉えている、ということだそうだ。

実は、私は以前アラビア語を勉強していたことがあるのだが、正統アラビア語というのはコーランが書かれた文法のことで、欧州のラテン語のようなもの。実用で使われるアラビア語は英語やフランス語のようにアラブ各国で異なる。識字率がきわめて低く、本や新聞を読んで自分の意見を形成するにも困難が伴う。だからといって正統アラビア語を捨てるということは、コーランへの侮辱になる。なにしろ、アラーの神がコーランに登場すると、アッラー・ラフマーン・ラヒームといつもラフマーン(偉大)、ラヒーム(偉大)と二つもグレートという意味の単語をつけなければならない。例えば、私は岩波文庫版(井筒訳)でコーランを読んだが、それも実際のところ、コーランの翻訳は禁止されているので、コーラン解説本ということになる。

かくして、ジハードは、この先も続くということなのかもしれない。

ところで、仏教は、「迫害された」宗教なのか、「勝組」宗教なのか、いくら考えてもよくわからない。また日本が他文化と接触するとき、ドイツ式なのかフランス式なのか、英米式なのか、こちらもさっぱりわからない。