紫式部追跡(8)

2024-03-26 00:00:44 | 歴史
滋賀県にある三井寺でも「紫式部」関連行事が進んでいるようだ。実は、紫式部と三井寺の直接的関連を示すものはないのだが、しかし関連があるようにも感じている。

実は、紫式部の母親の兄弟(つまり母方のおじ)、藤原康延は三井寺の僧侶でそれなりの住職だった。さらにNHKドラマ『光る君へ』では登場していないが、父為時の妾の子(つまり異母兄弟)定暹も三井寺の僧侶なのだ。

一説では、紫式部は1014年に40代の初めに亡くなり、当時越後守だった為時が世をはかなんで2年後に任期一年を残して三井寺で出家したともいわれる。

しかし、それでは納得できないことも多い。まず、1014年には手塩にかけていた一人娘の大弐三位はまだ15歳。彼女はその後も順調に藤原一門の中で活躍し、百人一首の中でも紫式部の次(58番目)に登場している。紫式部が早世して為時も出家していたら、そういうプッシュができないはず。また、紫式部の墓が、為時の家とかなり異なる場所(雲林院付近)にあり、その近くに住んでいたという説もある。為時が出家したため、紫式部が家を売却し雲林院方面に新たに自宅を構えたのではないだろうか。

そして紫式部ではなく彼女の弟は父と同行して越後にいたのだが、その期間中に亡くなっている。為時がむなしい気持ちになり出家したのは、そのせいではないだろうか。

また、紫式部があまり三井寺のことを書かなかったのは、おじや異母兄弟が所属していたからなのだろう。筆は災いの元ということを彼女は知っていたと思う。



京都に住んでいた紫式部は石山寺に行く時は逢坂の関を通り琵琶湖に到達したあとは舟を使って石山寺に行っていたはず。その行き帰りには三井寺の親戚に会っていたのではないだろうか。さらに父と一緒に越前に赴任した時は三井寺付近を通るため、その時も逗留したのではないかと想像する。

ところで、三井寺の歴史も相当古く、用明天皇(585年~587年)の頃というので紫式部の頃には既に400年以上経っていた。同じ天台宗でも延暦寺とは犬猿の仲で大規模な抗争を続けていて、紫式部の時代でも993年には焼き討ちにあっていた。おちおちと観光気分で出かけて、焼き討ちにあったりしたら目も当てられない。


ということで、国宝だらけの三井寺だが仁王門。山門というのは延暦寺で三井寺は寺門と言われていた。


釈迦堂は現在は弥勒菩薩が祀られているが、もともとは僧侶たちの食堂だった。いわゆる社員食堂。研究者にはうれしい建物だそうだ。


三井の晩鐘という鐘がある。由緒はそれほどではないが、日本三大釣鐘といわれ、声の鐘といわれている。実は寄進をすると鐘を撞くことができる。


そして、金堂。


弁慶の釣鐘。紫式部の時代から150年ほど後でも延暦寺と争っていて、当時延暦寺の暴力僧が怪力僧の弁慶で、三井寺の釣鐘を戦利品で持ち帰ったが、鐘から怒られてしまい、谷に捨てたと言われる。


紫式部の話はこれでおしまい。本来は、特急サンダーバードで福井県にある紫式部公園に向かうべきだったが、思いつかず、京都の別の場所をめざす。

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