赤い靴を追いかけて(6)

2006-06-17 00:00:54 | 赤い靴を追いかけて
明治末期のヒュエット師の激しい動静について、もう少し考えてみようと思った。そして、この頃、メソジストの組織の中がどう動いていたのか。「日本キリスト教大辞典(教文館)」は、本としては最大級の重さがあるだろう巨書であるが、メソジストを調べると、1729年に英国で誕生した後、新大陸にわたり、19世紀中は分裂を繰り返していたことがわかった。

 1784年 アメリカメソジスト監督教会
 1828年 アメリカメソジスト教会

 1843年には奴隷制度に対する考えの違いから南北分裂にいたる。

 1843年 ウェスレアン・メソジスト教会
 1845年 南メソジスト教会
 1872年 アメリカメソジスト監督教会
 1873年 カナダメソジスト教会
 1880年 メソジストプロテスタント
 1881年 アメリカ南メソジスト教会
 1895年 自由メソジスト教会

きみちゃんの生まれた明治35年(1902年)当時は、主に、カナダの教会派とアメリカの二つの教会派の三派が勢力争いをしていた。元々ヒューエット師がどの派に属するのかは確認できなかったが、そういった勢力争いと無縁だったとは思えない。

そして、アメリカでは1939年に大合同が行われ、合同メソジスト教会となったのだが、日本では一足先に1907年に各派合同され、日本メソヂスト教会となっている。ヒューエット師が一時、欧州経由で米国に渡ったのが1905年秋。デンヴァー大学から再来日したのが1906年である。そして1908年に再び米国にわたり、以後日本には戻っていない。

次に、「ヒューエット師」を辞典で調べる。


Huett,Charles Wesley(1864-1935)。宣教師。米国コロラド州に生まれる。デンヴァー大学を出て、1897年(明治30年)来日。仙台・函館・札幌で働き、日本美似教会札幌教会の長老司を務める。三派が合同し、日本メソヂスト教会となった時、初代北海道部長に就任。この頃、旭川教会の会堂建築計画が進められており、部長として協力。
一時、デンヴァー大学の修士課程をとるため帰国。旭川教会のために、募金活動をし、礼拝堂建築費の約半額に当たるというオルガンを寄贈。これは製作後100年近くなる現在も用いられている。明治の終わりに帰国。晩年はロサンゼルス近いパサディナに住み、フォレストローン墓地に眠る。

野口雨情の童謡「赤い靴」の女の子はヒューエットに引き取られ9歳で死んだ子供であったという。

さらに、辞典にでてくる旭川(豊岡)教会のオルガンの件だが、2002年8月に教会で行われた100周年コンサートに出演された方のホームページから、教会ができた1902年の4年後(1906)年にオルガンが設置されたとの記載があった。礼拝堂が完成したのだろう。

それらをあわせて考えると、巨額資金が北米メソジストのいずれかの団体から日本につぎこまれたことが見えてくる。鳥居坂周辺の土地にしても安くはないだろう。そして、なにより日本のメソジスト統一の時に、自派に有利になるように考えたのではないだろうか。幹部候補として短い期間で修士課程を取得したのは39歳のヒューエットの選択ではなく、突然の教会命令だったのだろうと思う。あるいは、再度日本に戻る予定ではなかったものの、慌しい日本国内の動きに対応する政治的人事異動だったのかもしれない。

米国に行く前に欧州へ行った理由なのだが、私の仮説なのだが、「オルガン購入」だったのではないだろうか。当時のオルガンは欧州製(イタリア・フランス・・・)と米国製が主流で国産オルガンが誕生するかしないかの頃である。たまたま、ネット上で発見した旭川豊岡教会のオルガンの一部画像(ちょっと失敗気味の現存するオルガンの画像付き)を見ると、デザインに凝った欧州系のように見える。しかし、アメリカ製の中にも、欧州系デザインのものもある。オルガンを画像から鑑定する腕前はないので仮説もここまでであるが、そうなると欧州のどこかで旭川教会のオルガンの選定をした上、北太平洋航路の高速船に乗りアメリカに向かったということになる。(さらに、それから9年後、タイタニック号が2200人とともに大西洋に沈み、日本人としてただ一人乗船していた細野正文氏は助かった700人の方に入るのだが、”白人や女性を押しのけて救助船に乗った!”と疑われ、黙って耐えるしかなかったのである。)

当時、オルガンは教会の最大の資産であって、現存する100年物のオルガンの中にも欧州製で米国で使われていたものの中古が日本に流れてきたようなものもある。辞典に書かれているように会堂建設費の半分がオルガン代だったとすると会堂の建物の値段とオルガンの値段が同額ということになる。それだけの高額な買い物を「カタログ販売」で買うだろうか。現物を見に行きそうなものだ。

では、ヒューエット師が欧州経由で米国に渡った際に、妻エンマやきみちゃんは同行したのだろうか?。私は、同行したものと思っている。サラリーマンの海外長期出張というのではないのだ。単身赴任というのはちょっと考えられない。というか、エンマはアメリカ人なのだから、日本に残っている必要はない。ならばきみちゃんは同行したのかといえば、同行したのだろう。ただし、この時、戸籍抹消をしていないのであるから再び日本に戻ることは予見されていたのかもしれない。あるいは、オルガンを見に行ったならば、一人ではなく、いつも教会でオルガンを弾いていただろう(推測)妻(エンマ)や子供(きみ)を一緒に連れて行きそうなものでもある。

しかし、日本のどこから欧州へ向かったのかははっきりしない。当時、日本から欧州へ行くには、船便で約40日。開通したばかりのシベリア鉄道で20日程度だったのだが1905年は日露戦争中である。となれば船便であろう。欧州向けの出発港は金田一教授が語ったように神戸発ということでもないのだ。外国船の場合、横浜から神戸、長崎、上海、香港というように寄航しながらの航路が一般的だった。1907年に、きみちゃんと全く逆にアメリカで母子家庭に育った後年の世界的造形芸術家イサム・ノグチ少年がサンフランシスコから日本に向かった時、乗船した約2000人乗りのモンゴリア号は横浜経由で最終目的地は上海であった。神戸港ではなく横浜港から上海方面に出国することは可能であったのだ。

では、最大の謎である”1908年夏にヒュエット師が帰国した際に6歳のきみちゃんを連れて行かなかった理由”は何か?青山霊園の過去帳に書かれている死因である結核性腹膜炎は約半数が肺結核と併発している。いずれにしても3年間かけ、ゆっくりと進行するような病気ではないと思われる。結核ではない、別の理由があったのではないだろうか、と想像してみる。

きみちゃんと同時代人であるイサム・ノグチの伝記を読むと、少年が米国人の母と二人で日本に向かった最大の理由は、米国による人種排斥政策である。日露戦争による日本の帝国主義化に対し、アメリカでは移民法の公布をはじめ、日本人排斥運動が燃え上がっていたのだ。そして、おそらくは、きみちゃん自身も、欧州や米国を1年間見てきた経験から、自分一人で日本に留まることを決意したのではないだろうか。実際、きみちゃんが米国にずっといたとしたら、1940年代前半は強制収容所に送られたことは間違いない。

sapporokyokai1ところで、きみちゃん(ヒュエット師)の足取りを追っているうちにわかったのだが、ヒュエット師はデンヴァー大学から日本に戻ってきて函館教会と札幌教会に赴任しているのだが、その日本基督教団函館教会はその後、函館大火で焼失。が、日本での最後の任地である日本基督教団札幌教会(中央区北1条東1丁目)には、古い礼拝堂が残っている。ロマネスク調のレンガ造りの建物は、明治37年の建築である。つまりきみちゃんは、この建物ができて2年目から3年目の2年弱の期間をここで過ごしていることになる。

この事実は、今まで誰も記していないようだ。私が調べた中では、きみちゃんの生涯の中で、唯一現存する建物である。菊地記者も何度もなく教会の前は通っていたのだろう。そして、その頃、鈴木志郎とかよの夫妻は、皮肉なことに札幌の北鳴新報から小樽新報に移ったところである。さらに、明治41年4月頃、新聞社の倒産により失業。そしてヒュエット師が日本を去る8月頃には、残念ながら再び北海道の原野で開拓事業に従事していたのである。

続く


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