三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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中興で 1

2008年05月06日 | 海南島
 1945年5月2日に月塘村を襲撃したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の万寧守備隊の兵士たちした。
 万寧の近くには、その守備隊のほかに、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の龍滾守備隊、和楽守備隊、烏場守備隊、中興守備隊がありました。
 これまで、わたしたちは、万寧守備隊、龍滾守備隊、和楽守備隊、烏場守備隊のあった地点に行って、望楼跡などを「調査」してきましたが、中興守備隊跡には行っていませんでした。
 きょう5月6日、わたしたちは、万寧市内からバスに1時間ほどのって、北方15キロほどの中興を訪ねました。
 中興は、いまは、北大鎮に属し、小さな街になっていますが、日本軍が侵入してきたころは、この地域で最大の村で、その西側の広い丘陵地帯には黎族や苗族が住んでいたそうです。
 バスを降りて、中興に1軒だけある食堂に入って朝食を食べながら、店の人たちに望楼や日本軍兵舎のあった場所を尋ねました。20代~30代と思われる店の人は、望楼があったという場所は知っているが見たことはない、といいました。
 そこに、一人の年寄りが来たので、話しかけると、「こんにちは」と、日本語であいさつされました。
 その人は、林尤光さん(1930年生)で、日本軍がつくった学校で日本語を習ったと言いました。
 さっそく、くわしく話を聞かせてもらうことにしました。
 食堂わきの日陰で、林尤光さんは、つぎのように話してくれました。
     「中興はむかしは人がたくさんいて、店屋もおおかった。学
     校もあった。
      日本軍がとつぜんやってきて、学校に住むようになった。
     そして、村人に、そのすぐ近くに望楼と兵舎をつくらせはじ
     めた。あたらしく学校も建てさせた。わたしの父(林鴻会)
     も日本軍に望楼をつくらせられた。
      そのあたらしい学校(中興小学)の校長は、鐘江(カネガ
     エ)英彦という名前で、28歳だった[林尤光さんさんは、カ
     ネガエヒデヒコと言ったあと、紙に鐘江英彦と書いてくれま
     した]。日本軍来たときわたしは9歳だった。わたしは、逃げ
     たが、数か月後にもどって「順民」になった。そして、それ
     から日本軍がいなくなるまで、日本軍がつくった学校に通っ
     た。生徒は300人以上いて、教師は10人あまりだった。校
     長のほかは、みんな海南人だった。海南人教師は、海南
     語や漢語で授業した。生徒はほとんどが男で、女生徒は
     2人だけだった。
      校長の鐘江英彦は、福岡県の人で、日本刀を下げてお
     り、望楼そばの兵舎に住んでいた。
      学校の前には、日本国旗があった。中国国旗はなか
     った。
      学校にはピアノがあった。みんなで歌を歌った。“ヘイ
     タイサン アリガトウ……”、“アメリカ・イギリス ヤッ
     ツケロ……”、“キミガヨハ……”、“ミヨトウカイノ……”
     などだ。
      日本軍は、望楼や兵舎をつくるとき、公廟や祠堂や順民
     にならない人の家を壊して材料にした。
      望楼は3階建てで、それのわきに兵舎があった。望楼と兵
     舎を中心にして敷地の周囲に直径30メートルほどの壕が
     掘られていた。幅2メートルほどで、深さも2メートルほ
     どあった。壕のまわりに鉄条網がはられていた。この壕
     も村人が掘らされた。
      日本軍は、働かせた村人に、1日1枚の軍票を渡した。軍
     票で、塩や布を買うことができた。
      わたしも土曜日や日曜日に父に代わって日本軍の仕事
     をしたことがあったが、そのときにも軍票1枚もらった」。

 ここまで、話を聞かせてもらった時、林尤光さんに、自分の家に来ないか、と誘われました。暑い日差しの中、バス通りを100メートルほど万寧の方にもどり、左に曲がって赤い花が咲いている小道を200メートルほど行くと林尤光さんさんの家でした。さっそく、話のつづきを聞かせてもらいました。
                                    佐藤正人

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