1945年5月2日に月塘村を襲撃したのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の万寧守備隊の兵士たちした。
万寧の近くには、その守備隊のほかに、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の龍滾守備隊、和楽守備隊、烏場守備隊、中興守備隊がありました。
これまで、わたしたちは、万寧守備隊、龍滾守備隊、和楽守備隊、烏場守備隊のあった地点に行って、望楼跡などを「調査」してきましたが、中興守備隊跡には行っていませんでした。
きょう5月6日、わたしたちは、万寧市内からバスに1時間ほどのって、北方15キロほどの中興を訪ねました。
中興は、いまは、北大鎮に属し、小さな街になっていますが、日本軍が侵入してきたころは、この地域で最大の村で、その西側の広い丘陵地帯には黎族や苗族が住んでいたそうです。
バスを降りて、中興に1軒だけある食堂に入って朝食を食べながら、店の人たちに望楼や日本軍兵舎のあった場所を尋ねました。20代~30代と思われる店の人は、望楼があったという場所は知っているが見たことはない、といいました。
そこに、一人の年寄りが来たので、話しかけると、「こんにちは」と、日本語であいさつされました。
その人は、林尤光さん(1930年生)で、日本軍がつくった学校で日本語を習ったと言いました。
さっそく、くわしく話を聞かせてもらうことにしました。
食堂わきの日陰で、林尤光さんは、つぎのように話してくれました。
「中興はむかしは人がたくさんいて、店屋もおおかった。学
校もあった。
日本軍がとつぜんやってきて、学校に住むようになった。
そして、村人に、そのすぐ近くに望楼と兵舎をつくらせはじ
めた。あたらしく学校も建てさせた。わたしの父(林鴻会)
も日本軍に望楼をつくらせられた。
そのあたらしい学校(中興小学)の校長は、鐘江(カネガ
エ)英彦という名前で、28歳だった[林尤光さんさんは、カ
ネガエヒデヒコと言ったあと、紙に鐘江英彦と書いてくれま
した]。日本軍来たときわたしは9歳だった。わたしは、逃げ
たが、数か月後にもどって「順民」になった。そして、それ
から日本軍がいなくなるまで、日本軍がつくった学校に通っ
た。生徒は300人以上いて、教師は10人あまりだった。校
長のほかは、みんな海南人だった。海南人教師は、海南
語や漢語で授業した。生徒はほとんどが男で、女生徒は
2人だけだった。
校長の鐘江英彦は、福岡県の人で、日本刀を下げてお
り、望楼そばの兵舎に住んでいた。
学校の前には、日本国旗があった。中国国旗はなか
った。
学校にはピアノがあった。みんなで歌を歌った。“ヘイ
タイサン アリガトウ……”、“アメリカ・イギリス ヤッ
ツケロ……”、“キミガヨハ……”、“ミヨトウカイノ……”
などだ。
日本軍は、望楼や兵舎をつくるとき、公廟や祠堂や順民
にならない人の家を壊して材料にした。
望楼は3階建てで、それのわきに兵舎があった。望楼と兵
舎を中心にして敷地の周囲に直径30メートルほどの壕が
掘られていた。幅2メートルほどで、深さも2メートルほ
どあった。壕のまわりに鉄条網がはられていた。この壕
も村人が掘らされた。
日本軍は、働かせた村人に、1日1枚の軍票を渡した。軍
票で、塩や布を買うことができた。
わたしも土曜日や日曜日に父に代わって日本軍の仕事
をしたことがあったが、そのときにも軍票1枚もらった」。
ここまで、話を聞かせてもらった時、林尤光さんに、自分の家に来ないか、と誘われました。暑い日差しの中、バス通りを100メートルほど万寧の方にもどり、左に曲がって赤い花が咲いている小道を200メートルほど行くと林尤光さんさんの家でした。さっそく、話のつづきを聞かせてもらいました。
佐藤正人
万寧の近くには、その守備隊のほかに、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の龍滾守備隊、和楽守備隊、烏場守備隊、中興守備隊がありました。
これまで、わたしたちは、万寧守備隊、龍滾守備隊、和楽守備隊、烏場守備隊のあった地点に行って、望楼跡などを「調査」してきましたが、中興守備隊跡には行っていませんでした。
きょう5月6日、わたしたちは、万寧市内からバスに1時間ほどのって、北方15キロほどの中興を訪ねました。
中興は、いまは、北大鎮に属し、小さな街になっていますが、日本軍が侵入してきたころは、この地域で最大の村で、その西側の広い丘陵地帯には黎族や苗族が住んでいたそうです。
バスを降りて、中興に1軒だけある食堂に入って朝食を食べながら、店の人たちに望楼や日本軍兵舎のあった場所を尋ねました。20代~30代と思われる店の人は、望楼があったという場所は知っているが見たことはない、といいました。
そこに、一人の年寄りが来たので、話しかけると、「こんにちは」と、日本語であいさつされました。
その人は、林尤光さん(1930年生)で、日本軍がつくった学校で日本語を習ったと言いました。
さっそく、くわしく話を聞かせてもらうことにしました。
食堂わきの日陰で、林尤光さんは、つぎのように話してくれました。
「中興はむかしは人がたくさんいて、店屋もおおかった。学
校もあった。
日本軍がとつぜんやってきて、学校に住むようになった。
そして、村人に、そのすぐ近くに望楼と兵舎をつくらせはじ
めた。あたらしく学校も建てさせた。わたしの父(林鴻会)
も日本軍に望楼をつくらせられた。
そのあたらしい学校(中興小学)の校長は、鐘江(カネガ
エ)英彦という名前で、28歳だった[林尤光さんさんは、カ
ネガエヒデヒコと言ったあと、紙に鐘江英彦と書いてくれま
した]。日本軍来たときわたしは9歳だった。わたしは、逃げ
たが、数か月後にもどって「順民」になった。そして、それ
から日本軍がいなくなるまで、日本軍がつくった学校に通っ
た。生徒は300人以上いて、教師は10人あまりだった。校
長のほかは、みんな海南人だった。海南人教師は、海南
語や漢語で授業した。生徒はほとんどが男で、女生徒は
2人だけだった。
校長の鐘江英彦は、福岡県の人で、日本刀を下げてお
り、望楼そばの兵舎に住んでいた。
学校の前には、日本国旗があった。中国国旗はなか
った。
学校にはピアノがあった。みんなで歌を歌った。“ヘイ
タイサン アリガトウ……”、“アメリカ・イギリス ヤッ
ツケロ……”、“キミガヨハ……”、“ミヨトウカイノ……”
などだ。
日本軍は、望楼や兵舎をつくるとき、公廟や祠堂や順民
にならない人の家を壊して材料にした。
望楼は3階建てで、それのわきに兵舎があった。望楼と兵
舎を中心にして敷地の周囲に直径30メートルほどの壕が
掘られていた。幅2メートルほどで、深さも2メートルほ
どあった。壕のまわりに鉄条網がはられていた。この壕
も村人が掘らされた。
日本軍は、働かせた村人に、1日1枚の軍票を渡した。軍
票で、塩や布を買うことができた。
わたしも土曜日や日曜日に父に代わって日本軍の仕事
をしたことがあったが、そのときにも軍票1枚もらった」。
ここまで、話を聞かせてもらった時、林尤光さんに、自分の家に来ないか、と誘われました。暑い日差しの中、バス通りを100メートルほど万寧の方にもどり、左に曲がって赤い花が咲いている小道を200メートルほど行くと林尤光さんさんの家でした。さっそく、話のつづきを聞かせてもらいました。
佐藤正人