三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その1(2002・4)

2006年12月01日 | 木本事件
 この文章は、一九二六年、三重県木本町(木本町は現熊野市)で起こった二人の朝鮮人労働者(李基允さん、相度さん)の虐殺事件に接して、その歴史的事実が私をとらえたことを、一人の生きる人間としての「私」の問題として書こうと思います。二人の朝鮮人が殺されたその地域に生まれ育った私-日本人を、殺された二人の朝鮮人と今なお残された二人の死の意味、あるいは木本トンネル、極楽寺の二人の墓石との関係の場に立たせ、そこにおいて生き抜こうとする歩みといったものです。
 私は、二〇〇〇年の夏、この虐殺事件と出会い、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」の活動に参加するようになりました。私がこの会にかかわり始めて以来、私の歩みはこの会の方々とともにあります。会の運動は、私に熊野という地域社会での二人の虐殺という事実をあなたはどのようにうけとめるのかという問いとして差し向けていると思います。会の運動は、その問いにたいする、会に参加する一人一人それぞれの歩みとしてあると思います。
 私の歩みとは何だろう。「私」は、単に私個人のものではなく、それは私が生まれ育った日本の熊野という地域社会の歴史的事実とも重なります。私が二人を殺したのではない、だけど、私は殺された二人の追悼碑を持ってはいませんでした。二人の追悼碑が会の力によって建てられたのは、やっと一九九四年のことであり、それまで二人が殺されたこの地域社会において追悼碑が建てられることはありませんでした。なぜ朝鮮半島に生まれた二人が海を越えた日本の地で殺されたのか、なぜ追悼碑が建てられることはなかったのか。二人の影を見出し、地域社会の現実から一歩を踏み出した私は、やはり、私の歩みを私個人のものとしながらも、多くの見知らぬ人々に語りかけなければいけないと思います。それは市民運動の一員としてではなく、生きる一人の人間として。
 久保雅和
(立命評論 №106 2002/4発行)
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