三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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(3)金鳳俊氏・金興龍氏・金花一氏に会って

2006年04月05日 | 紀州鉱山
(3)金鳳俊氏・金興龍氏・金花一氏に会って

翌日朝、南北里の金鳳俊氏に会った。1924年生まれだが、戸籍上は1920年生まれに
なっているという。金鳳俊氏(江原道麟蹄郡麟蹄邑南北里1里4班)の話。
「1943年に日本海軍に志願した。金海の海軍訓練所にはいったあと、横須賀にいったが、肺がわるいことがわかって、除隊。その後、「八・一五」まで、川崎にある日本油化ではたらいていた」。
金鳳俊氏に、ここ南北里で紀州鉱山に強制連行された人はいないか、と聞くと、
あの人がそうかもしれないといいながら、さっそく電話をかけてくれる。
 電話をきると、すぐ、やはりそうだった、という。近くに住んでいるという。
路地をとおりぬけ、金鳳俊氏の家から300メートルほどはなれたところに、その人の家はあった。中庭があり、そこで女の人が洗濯をしていた。
すぐに部屋から顔をだした人が、金興龍氏だった。部屋に案内され、あらためて
挨拶をし、訪問の理由を話した。
金興龍氏は、南北里から強制連行されて、紀州鉱山で働かされたという。そのとき
南北里からは、ほかに2人がいっしょに紀州鉱山にいったという。しかし、名簿には、南北里の人は2人だけだ。そのなかに金興龍氏の名はない。名簿が不完全で、金興龍氏の名がおとされているのか?  金興龍氏の話。
「あのとき麟蹄郡の戸籍から100人が選ばれた。自分もその一人だった。結婚して
5年後のことで、3歳の子供がいた。「徴用」で、むりやりだった。紀州鉱山につれていかれ、満2年間働かされた。当時、紀州鉱山には、朝鮮の各道から800人ほどがつれてこられていた。
宿所の名は憶えていないが、いくつも部屋がある建物で、12畳の部屋に12人がいれ
られていた。紀州鉱山についてはじめの6か月は、仕事の訓練をやらされた。
賃金は、2年間で一度100円をうけとっただけだった。
解放の年の10月か11月に帰国したが、そのときには金はまったく
受けとっていない。

新宮から大阪にで、大阪から下関にいき、さらに博多にいって、
そこから船で釜山にかえった。
名簿にある「青松鍾振」の本名は、沈鍾振だ。かれは、
北にいったきり消息がない。

「青松太達」は、沈太達だ。かれの消息もわからない。
100人のうち金学興(名簿では「金山学興」)1人だけが帰国しなかった。
好きな女性がいるようだった。「逃亡」した人はいなかった。自分も、逃げようと思わなかった。
逃げたら故郷の家族がひどい仕打をうけると思った」。
金興龍氏は、いま83歳だという。生年を聞くが、はっきり知らないという。
住民票に書いてあるかも知れないといって、見せてくれるが、
住民票には生年月日は書いてなかった。韓国では数え年で年齢を数えるから、
生年は1914年かもしれない。
「紀州鉱山1946年報告書」には、麟蹄郡加里山里を本籍とする「金元興龍」という
名がある。「金元興龍」氏の生年は1914年となっている。この「金元興龍」氏が、
金興龍氏なのだろう。「紀州鉱山1946年報告書」では、麟蹄から「徴用」された
96人の「入所年月日」は、すべて1944年11月9日となっている。2年間というのは、
金興龍氏の思い違いかもしれない。

金興龍から話を聞いていると、さっき中庭で洗濯をしていた女の人が、部屋の入口
から、酒を飲むかとわたしにいう。その人は金興龍氏の妻の金花一氏だった。

金花一氏の話。
「夫が日本につれていかれたとき、わたしは数え年で21歳だった(1924年生まれ)。
父親が早く亡くなり、15歳のとき結婚した。夫がいなくなったあと、残されたわたしと3歳の子供は、食べていくのにいつも苦労していた。いちどだけ紀州鉱山の夫から100円送られてきたことがあるが、それだけだった。ここは、冬はとてもさむい。小さなこどもをつれて、よく山にたきぎを拾いにいった。解放のあと、朝鮮戦争になり、そのときもたいへんだった」。


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