三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

二人の影と私と-三重県木本での朝鮮人虐殺-その2(2002・4)

2006年12月09日 | 木本事件
《私の居場所》
 私は一九七七年、日本という国の三重県の南端近くにある御浜町に生まれました。私が生まれた町は熊野市のとなりにある小さな町です。熊野市から私の町を緩やかなカーブを描いて海岸線がのび、大きな海が広がっています。深い山々が海の近くまでせまり、町は山と海に囲まれています。私は、熊野市を含めたこの地域で高校までを過ごし、ここを友達と遊んだこと、畑仕事をしたことなどを雨や風、夏の日差しや夜の波の音とともに、このからだをもって記憶しています。
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」は、一九二六年に木本町(現在の熊野市)で日本人の地域住民に殺された李基允さん、相度さんの追悼碑を一九九四年十月、二人が働いていた木本トンネルのそばに建てました。当時、この追悼碑のすぐ近くの高校に通っていた私は、追悼碑が建てられたと先生が話すのを聞くともなく聞き、ふと、「なんでこんなところに朝鮮の人がいたんだろ」と思い、「朝鮮人」「追悼碑」という言葉が宙に浮いたまま、次の瞬間それはもう消えていました。

 当時の私は「なんでこんなところに」と疑問を持ったのです。今、このことは私に重要なことを教えてくれるように思います。それは、そのとき先生が話したことが、あまりに断片的だったということだけではないと思います。当時私は「大日本帝国」の侵略・植民地支配の歴史を知識としては知ってはいました。それでも、私にとって私が暮らす地域は私が経験する「この私の世界」、私と、そしてそこで日常的に出会う人たち(それは私がいつの間にか同じ「日本人」としていた人たち)の世界であったのだと思うのです。
 私はこの生身の私を「私の世界」に置いて意識していると思います。その世界は私にとっての日常であり、私の安らぎであったり、なじみの商店街や山や海の風景、そこでの人間模様、価値観、道徳、いろんなものを含んでいる世界です、それはもう私の一部でもあるのでしょう。しかし、私の「この世界」は何だったか、何かを欠いてはいなかっただろうか。                
 久保雅和
(立命評論 №106 2002/4発行)
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