5月3日12時半過ぎに韓権畴さんと雲秀花さんに別れ、いったん湖山の市街地に戻って昼食をとったあと、1時半に、399人が殺されたという東山村に向かいました。
東山村は湖塘村の東隣にあり、上東山村と下東山村に分かれていました。
2時半から上東山村の自宅前広場の木陰で韓裕豊さん(1926年3月生)に1時間ほど話を聞かせてもらうことができました。
韓裕豊さんは89歳でしたが、しっかりした口調で、つぎのように話してくれました。
“近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこには市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人が多かった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前の人だと聞いた。
慰安所はもとは民家をだった。新しくつくった家ではなかった。
偽軍の建物はもとは商店だった。偽軍の軍人は近くの人が多かった。何人くらいだったか、はっきり覚えていないが多くはなかった。10人ほどだったか。
そのなかに高秀という人がいた。もとは国民党軍の兵士だった。偽軍に入ったあとも高秀は村人を助けた。偽軍が日本軍といっしょに村を襲うとき、高秀は早めに発砲して、村人に日本軍が近づいたことを知らせた。
日本軍は町のほうで殺した人のための儀式をしたことがある。場所は町の方だ。日本軍が敗ける前だった。
そのときわたしはその儀式に行かなかった。儀式のとき白い鳥がたくさん空を渦をつくって長い間飛んでいたという話はなんども聞いたことがある。
日本軍は、東山村の近くで、たくさん人を殺した。何回も何回も殺した。日本軍は殺す前に穴を掘った。殺す前に捕まえた人をその穴の前に連れてきて首を切った。殺したあと頭と身体をそこに埋めた。埋め方が浅かったので、犬などが死体を食べていた。怖かった。
偽軍を掘ったのは偽軍の兵士だったのではないかと思うが、はっきり覚えていない。
日本軍が人を殺す現場は見たことがないが、その穴はみた。穴はいくつもあり、大きい穴も小さな穴もあった。
殺された人はこの村の人ではないから、遺族は殺された人が埋められている場所を知ることができない。
だから、遺体はそのままだ。
東山村の韓慶豊が日本軍に近くの花園村で捕まったが、いったんは逃げることができた。だが、また捕まって銃殺された。花園村では共産党軍が活動していた。韓慶豊の遺体がどこにあるか、わたしは知らない”。
話しを聞かせてもらった後、韓裕豊さんは、半年ほど前に交通事故で腿の骨を折って1か月ほど歩けなかったが、もうかなり歩けるようになったといって、虐殺現場に案内してくれました。
そこは、東山村から1キロあまり離れた広野でした。湖山水庫(大きな貯水池)の南で、大きな魚の養殖場がたくさんつくられていました。
“以前は、ここには何もなかった。日本軍の兵舎はここから遠くなかった。
近道をいくと、歩いて15分ほどだ。
最近、魚の養殖場がつくられるとき、ここにまだ遺骨が埋まられていたと思うが、その
遺骨がどうなったかは知らない”。
と韓裕豊さんは、湖山守備隊の日本軍が人を埋めた場所の方を指さしながら話しました。
3時半ころ韓裕豊さんと家の前で別れ、石馬村に向かいました。
佐藤正人
東山村は湖塘村の東隣にあり、上東山村と下東山村に分かれていました。
2時半から上東山村の自宅前広場の木陰で韓裕豊さん(1926年3月生)に1時間ほど話を聞かせてもらうことができました。
韓裕豊さんは89歳でしたが、しっかりした口調で、つぎのように話してくれました。
“近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこには市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人が多かった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前の人だと聞いた。
慰安所はもとは民家をだった。新しくつくった家ではなかった。
偽軍の建物はもとは商店だった。偽軍の軍人は近くの人が多かった。何人くらいだったか、はっきり覚えていないが多くはなかった。10人ほどだったか。
そのなかに高秀という人がいた。もとは国民党軍の兵士だった。偽軍に入ったあとも高秀は村人を助けた。偽軍が日本軍といっしょに村を襲うとき、高秀は早めに発砲して、村人に日本軍が近づいたことを知らせた。
日本軍は町のほうで殺した人のための儀式をしたことがある。場所は町の方だ。日本軍が敗ける前だった。
そのときわたしはその儀式に行かなかった。儀式のとき白い鳥がたくさん空を渦をつくって長い間飛んでいたという話はなんども聞いたことがある。
日本軍は、東山村の近くで、たくさん人を殺した。何回も何回も殺した。日本軍は殺す前に穴を掘った。殺す前に捕まえた人をその穴の前に連れてきて首を切った。殺したあと頭と身体をそこに埋めた。埋め方が浅かったので、犬などが死体を食べていた。怖かった。
偽軍を掘ったのは偽軍の兵士だったのではないかと思うが、はっきり覚えていない。
日本軍が人を殺す現場は見たことがないが、その穴はみた。穴はいくつもあり、大きい穴も小さな穴もあった。
殺された人はこの村の人ではないから、遺族は殺された人が埋められている場所を知ることができない。
だから、遺体はそのままだ。
東山村の韓慶豊が日本軍に近くの花園村で捕まったが、いったんは逃げることができた。だが、また捕まって銃殺された。花園村では共産党軍が活動していた。韓慶豊の遺体がどこにあるか、わたしは知らない”。
話しを聞かせてもらった後、韓裕豊さんは、半年ほど前に交通事故で腿の骨を折って1か月ほど歩けなかったが、もうかなり歩けるようになったといって、虐殺現場に案内してくれました。
そこは、東山村から1キロあまり離れた広野でした。湖山水庫(大きな貯水池)の南で、大きな魚の養殖場がたくさんつくられていました。
“以前は、ここには何もなかった。日本軍の兵舎はここから遠くなかった。
近道をいくと、歩いて15分ほどだ。
最近、魚の養殖場がつくられるとき、ここにまだ遺骨が埋まられていたと思うが、その
遺骨がどうなったかは知らない”。
と韓裕豊さんは、湖山守備隊の日本軍が人を埋めた場所の方を指さしながら話しました。
3時半ころ韓裕豊さんと家の前で別れ、石馬村に向かいました。
佐藤正人
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