ICT工夫
全ての自由を奪えても、自由を求める自由だけは奪えない
  だからネットの使い方も 工夫 したい こうふ のブログ




10月から設定した「ウェブページ」(イベント情報)へのアクセスが多いように見えます。予告と記録を繋ぐツールとして使っていきたいと思っています。

Twitter も Facebook も未登録者のパソコンから閲覧できる場合はアクセスするようにしています。イベント予告などをツイートされる方も多いので、これらツールの登録ユーザーになるのは来年検討する予定。

11月は新山梨県立図書館の開館やB-1グルメ大会など多彩でしたが、私は Windows 8 導入の準備でパソコン再構築などに没頭し出かける時間がありませんでした。パソコンもインターネットも私が一歩進めた時は既に二歩も三歩も先に行っている、学ぶべき滞貨は増えるばかりです。

大昔のことです、未来学に関心を持っていたことがありました。「日本未来の会」発足のニュースを知って思い出しました。そして久しく忘れていた学習院大学「香山**」さんの名前も浮かんだのですが「**」を忘れている・・・
あの当時と違うのは、今はインターネットが使えることです-「未来学 香山」で検索して Wikipedia 香山健一(こうやま けんいち、1933年1月17日 - 1997年3月21日)、えっ、もう亡くなっておられたとは! でも、香山健一記念未来研究所ブログ がありました。
「未来学」の考え方はどのようなものだったか、既に頭からはすっかり抜けていますので、もういちど基本に戻ってみたいと思っています。

311以来ずっと考えてきたのは、この国はこれからどうなるのだろうかということです。東日本大震災(津波災害)は大変なことでした。宮城県の私の仲間も大きな被害を受けました。でも彼たちは既に立ち直りつつあります。被災体験をむしろバネにして前より強く立っているようにすら思える力強いメッセージが定期的に私の手元にも届いています。

だが、福島原発の人災は、それを教訓にすらできない悲惨なこの国の姿を明らかにしたと思っています。それは情報を確認するたびにどんどん酷くなっていました。福島県の悲劇を感じるだけではなく、国が存続する根幹に関わる部分が腐りきっていたことに気が付きました。どうしてこうなっちゃったのだろう。28日の記事に書いた石原慎太郎さんが引用された歌、『この国のかく醜くもなりぬれば、・・・』 はズシンと胸に響いたのです。

しかし、おそらく誰でも、自分たちが「醜い」と指摘される対象ではないと思っているはずです。何が美しく、何が醜いか、その基準が大きく変ってしまったのは何故だろうか。私としては「武士道とは死ぬこととみつけたり」は最高の美意識がもたらした言葉だと思ってはいるのですが・・・自分がその道を歩むのは難しい。
日本の未来は美醜の感性をどう扱えるかにもかかっているように感じながら、「日本未来の会」から発せられたメッセージを読みました。
私が好きな山梨が「醜い」といわれない地域でありつづけることを願いながら、この記事を山梨情報カテゴリーに置きます・・・「おもてなしの・・」 醜いキャンペーンが不要になることを祈りつつ



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