湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

「ETV特集1/17 なまえをかいた~吉田一子・84歳~」の話から

2010-01-20 07:52:28 | 引きこもり
17日の日曜日、NHKのETV特集で識字学級のドキュメントが放送された。番組をビデオ収録しておいてくれと母に頼んでおいた。しかし母がTVを譲らないため、昨夜やっと見ることができた。戦争や差別、貧困など社会的事情で、学ぶ機会を奪われた方が、空白を埋めるように、現在も、改めて学んでいる。そういう様々な事情を抱える方の夜間中学や公民館などの識字学級のドキュメントだったのだが、識字の話は久々だった。

山田洋次監督の映画『学校』シリーズの第1作に登場したのが夜間中学。私は昔、短期だが小田原で算数を教えていたことがある。その後、総武線「平井」からすぐの、江戸川区立小松川第二中学校にお邪魔していた。学ぶということが、ひとの本源的な情熱に支えられた営みであることや、社会には常に切り捨てられたり、チャレンジの機会を流され、アクセスを阻まれているひとがいるという、まさに埋もれた現実がある。

私の副業の職場は,進学受験の歪んだ教育の激戦地であったので、学び一般を「善いこと」とする立場にはいないが、同じ世代間の競争ということだけでなく、生涯という個的な出来事が、無理解のため社会の少数派に押しやられるとき、つぎつぎにひとの絆が断ち切られていく。暗黙の社会の生存競争が、目に見えぬようにカモフラージュされて行われており、その重圧を撥ね退ける力が、反語のようだが学ぶという情熱なのだ。

しかしそこを無制限に外延し「権利があるから学びの保証を」と言ったとき、その学びはコースパッケージ化した「基礎知識」なっている。痩せた学びとその「習得の度合い」になってしまうのだ。この辺の頑迷な学び観が支援者や教員側にあり、断ち切られた学びが復活するとき、人生を送ってきた分、子どもとも様相の異なる多様な知識の「網」を引き上げるような、関連を丸ごと取り出した当人の学びの艶やかな生命を殺してしまうことも現場の中では起きていた。学びはその人の人生に寄りそうものであって、その中で生成する「関係や見通し」と絡まるようにして膨らんでいく。専門性はその膨らみの横断の距離と広がりとして登場する。

ノートを開き、ひらがなのなぞりを行うときにすら、眼差しに社会と自己史を凝縮している。だからこそその姿は感動的なのだ。論理の世界はその切り口において存在し、系統性を持っているが、それは知識の有効な取り出し方として位置づけていく。この学びの実態をめぐって、知識が鋳型や抑圧となるかという際の場面のカンファが、識字学級では行われていた。だからこそ現行の公教育や受験教育の競争礼賛の前提が「おかしい」といえるのであって、学習支援は周回遅れのランナーへの激励ではない。その方との取り結び、伴走が学びの営みなのだ。こんなことを言っては同僚のステレオタイプの顰蹙をかっていたことを思い出した。度や率の質の世界では、単純に足し算できないでしょ、1+1だって場面選択に経験が割り込むじゃない、いやそれは詭弁だという議論に、私が担当していた当事者の方が、まあお茶にしようやと割り込んだ。そのことがとても知の現状として、象徴的に思えるのだ。

吉田一子さんの落書き=文字侮辱論はちょっといただけなかったけれど、某非文字文化民族が表音文字ハングルを受け入れたという最近のニュースで、それは民族を失わせるほどの危険を伴っていると、あるMLに私がメールに書いた応答が、飛躍だよそれと多数の応答があった。それと比較すれば、文字侮辱論は、ハングル話ほどではないかとも思った。

《参考》
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「ETV特集1/17 なまえをかいた~吉田一子・84歳~」

「全国の夜間中学校」

「(都内の)公立中学校の夜間学級」
「」
第55回全国夜間中学校研究大会第55回全国夜間中学校研究大会

(つづく)
コメント
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