湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

父の階段介助失敗と今後の活動にこぶしを握る

2010-01-22 14:44:58 | 引きこもり
明日土曜日にある、翔の会主催の障がい者就労支援講演会を前にして、「わーく」の発行を準備していた段階で、再出発を切れない阻まれるような事態に苦戦している。介護をめぐる「時間との戦い」だ。

父の転倒と事故が1日2回を超えると、父の身体の危険からの回避優先という事もあるが、「連続した作業時間」と「外出時間」を、それぞれ1時間以上連続することすら難しくなるという事態に直面する。後始末が加わるからだ。苦肉の策の睡眠時間分割、小刻み5時間睡眠が得られなくなってくるのだ。

月曜日に母が体の不調を訴えていた。火曜日に発熱、水曜日に無理を押して東京の主治医の定期通院と稽古事を済ませて夜帰宅後、胃切除後遺症のダンピングの嘔吐と風邪らしい発熱と悪寒で寝込んでしまった。水曜日、Oさんが風邪であすなろ会を欠席されていたのだが、流感だろうか。母から父にうつさない様にと、母を休ませた。

父の世話は母とのふたりの体制で支えてきた。その母の援助の中断で、その大きさを改めて感じている。母も高齢だから父の入所を前提にしなければと思いつつ、昨年秋の某病院への父の検査入院の際、入院当日、病室のカーテンを破り、看護師に危害を加えて即刻退院となったことがあった。そのトラウマのようなものがあって、入所申込巡回に積極的になれず、何となく気後れしていた。しかし、意識的なものと断じはしないが、この指示受け入れ拒否を続ける父の介護をこのまま在宅で続ければ、破綻は間近と身を持って感じている。

家事と介護の量ということもあるが、3回の食事と頻繁な排泄介助・転倒事故処理がここ10日ほど、転倒事故が1日2回以上に増えて、その後始末に追われている。父の清拭と着替え、ベッドメイクと誘導、部屋の清掃とポータブルトイレの復旧、それに洗濯と、一回に2時間弱が奪われていく。一日がこの作業のために、細切れに強制されて身動きが出来なくなってしまう事態。このことが本業や活動の約束事が守れない事態となってしまったことだ。転倒すれば母だけでは起こせない。呼び出しがかかれば用を中断して帰宅しなければならない。

頻尿だからその都度紙パンツは所構わず下げられて、ベッドは尿に濡れて、つかまり歩行で家具やポータブルトイレを引き倒して、部屋中が汚染される。私は仕事上昼夜逆転しているが、父の事故も昼夜を問わない。その分対応が出来るともいえるが、私が細切れに父の介護に拘束されることで、私にとっては仕事と活動が破壊されてしまうことになる。これを防御するには、施設の協力がなければ、もはや続かない。

1月の介護計画は上旬に2泊3日のショートステイが2回入ったが、下旬はデイサービス以外は予定がない。週2回のデイサービスは、9時に父を送り出し、16時半には帰宅待機しなくてはならない。帰宅待機には、バスの関係で16時にには私がバスに乗らねばならず、この間、走り回って用事をこなして家に駆け込むのが実態。父の入浴と体調認識共有以外は全くメリットがない。8時の朝食と排泄介助、8時半の「階段移動と身辺介護支援」のヘルパー到着となると、6時就寝の私の生活は2時間仮眠がせいぜいで、実質週2日は徹夜になる。こうした1月下旬の偏った年始予定が重なったため、ショートステイ無しの変則事態と、父の状態悪化と母の不調が見事に重なった。しかも、こういう事態は今後、頻繁に起こりうるのだ。

「紙パンツの中に排泄し、ポータブルトイレを諦めてくれ」というひとつのことが通じない。

水曜日、いつもより20分早くデイサービスを終えて、父が帰宅してしまった。水曜の階段介助は、父の宗教の信者さんのボランティア担当である。階段介助担当者から事前の電話で「代わりの人間が来る」と連絡があり、すぐにその方から「最大10分程度遅れる」との電話があった。ブランクは合計30分。この間、父を階段下に待たせなくてはならなかった。

父は床に座ると立てない。紙の襖を握りしめ、サイドボードを倒し、座卓を見事に転がしてしまう。ふたりがかりで持ち上げるも、壁や柱も傷だらけになる。だから椅子に座らせるが、私が背を見せれば立ち上がってしまうのだ。意識的なものではない。欲求を抑えられない、説得が理解できないのだ。それを制止すれば暴れ、直前の説得は見事に反故にされる。認知症のいわゆる短期記憶の低下を伴う「まだらボケ」である。転倒する寸前に私が飛び込み支えに入る際どい事態、それが30分続くのだ。今回は便が出たいらしく、その傾向が指示無視を一層激しいものにしていた。

経験上、足がもつれようが、2階のトイレが閉鎖されれば、1階のトイレに行こうとするために、父に解離傾向が出たときは、妄想の中、階段に壁に手を突いて現れてしまう。1階のトイレに誘導することは、通路を糞尿だらけにするのみならず、1階トイレの使用願望を焚き付けることになりかねないと判断。玄関先で下半身の衣類を脱ごうとする父を制止し、限界を感じ、階段をひとりで上げる決意をした。

嫌がる父を対面誘導し、階段を1段昇ったときだった。立てかけた戸が倒れるように、直立したまま父が背面に倒れ、襖の縁に頭が激突、私も巻き込まれて床に投げ跳ばされた。痛めていた左肩を嫌というほど床にうちつけた。幸い父の上に落下は免れたが、しばらくは起き上がれない状態になっていた。父は座り直し、立ち上がろうと襖に腕を伸ばしていた。襖がはずれ破れ落ちてくるので父を蹴って制止。父の背後を抱きかかえるようにして、肩の痛みの治まるのを待ち、なんとか椅子に戻した。

これが階段上段の転倒だったら、父は死んでいたかもしれない。その戦慄する状況の危機認識、想像力が父には無くなっていた。認知症の恐ろしさである。

数分後、応援が到着した。ところが彼は介護未経験者、父の階段誘導に、父の胸倉のセーターを引っ張っていて、接触を避けようとしていた。強い指示を出したが、要領を得ない介助のまま、何とか父をベッドまで誘導した。排泄処理は彼には出来ないと判断された。水曜日は父の宗教の信者さんが応援に入り、本業のヘルパーさんではない。やっと慣れてきた方が休みとなったことは破滅的、まさに綱渡り状態だった。

母の帰り30分前に、階段下に車椅子とテーブル用の椅子でバリケードを作り、左の肩と膝に湿布を貼って、あすなろ会の定例会に向かった。幸い父も緊張が解けたか、ぐっすり眠り始めたので、玄関の鍵を閉め、門を出た。張り裂けそうな気分のガス抜きをしていた。毎週水曜日、階段介助は素人さんとの綱渡りとなる。ケアマネさんにヘルパーさんへの切り替え依頼をしているが、今だ埋まらないままだ。

初めて父の階段落下を経験した。対面誘導のままの前面引き上げの補助は全く無力だと実感した。背面から支持する以外ないのだ。これとて即剤に座らせることができるかどうか。ひとりで事態収拾を図ることは、もはや限界だった。

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「わーく」発刊は、こうして踏み出す機会をまた失いつつある。たとえ年数回、紙メディアのみ発刊としても、取材と配布は信頼が支えるものだ。その信頼を壊せば、今の空転事態は更に深刻化する。地域潜在化する社会的困難者への関わりへの無理解の中、彼らに働きかける活動の絵を描くことは、「医療と居場所というセオリーを超えれば、組織化は無理」という常識にぶつかっていく仕事である。足腰が整わねば再出発は出来ない。

差別と貧困、社会的排除に抗する活動にも私は関わってきた。生きる喜びを生み出す、畑を耕すような教育活動も行ってきた。それがまた一から作り直しかと問う。活動に執念がこもれば、人は離れていく。そういうバランスの舵取りの中に私がいる。

夜間傾聴:□□君・******君は、水・木
     小田急相模原君は、木

     大森海岸君は傾聴ではないが火曜日。
     (フォトフレームのプログラム開発の件。)

(校正2回目済み)

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