湘南オンラインフレネ日誌

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「わーく」準備メモ(04)「わーく」は市民活動を基礎にする

2009-10-20 16:07:05 | 引きこもり
「わーく」の「本業」は社会的困難を抱える若者の就労支援である。しかしそれは、企業への就労というような狭義の就労ではなく、社会参画という裾野を抱え込んだ活動としなくては存在し得ないだろう。なぜなら、機能的な求人情報提供や就労訓練などの、民間ハローワークや私設職業訓練校のような補完活動が今求められていることではないし、それらは規模や運営資金からも政策統治的な配置の中でしか継続できないという物理・経済的な問題を持っているからだ。しかし決定的には、メニュー提供的な活動構造自体が、就労自身を食うためのものという形に歪め疎外している、そのことが不問の形で抜け落ちているからだ。

賃金を得るための労働と前提をつくってしまうと、企業の求人に応じるという形に労働が限定的になってしまう。求人は企業から発せられるものとは限らず、地域社会や公共活動、個人や個々の家庭からも発せられている。これを基に仕事に取り込んでいく活動が、従来の就労支援活動の発想には余芸のような形にしか扱われてこなかった分野であるし、それは有っても地方自治体の行政側から行われることが主だった。

道路横断に困った高齢者に手を貸して道を渡した活動が、心と身体を使うことにおいて労働と内実において差異が無い。労働対価として賃金を得るという労働の外側に、広いニーズを持った求人が潜んでいる。これらはブルデューやギデンスなどの論じるソーシャルキャピタル(社会関係資本)の世界に広がる、前資本制社会から人の営みの中に存在しているものであり、イリイチなどによって別の角度からシャドウ・ワーク(アンペイド・ワーク 家事などの無償労働)として取り上げられてきたものだ。組織としては不定形な地域潜在労働だが、地縁血縁社会の崩壊や高齢化社会等、社会構成の変化によって、有償活動の基礎が生まれている。ここを治水し自らの生計をたてる基礎としていく活動こそ、市民活動の活躍しうる世界だろう。

哲学的に、いや、日本理化学工業の大山代表流にいえば「ひとに頼られる幸せ」の苗床がこの世界に存している。労働目的を奪い去った賃労働がここでは、目的回復を果たしうる広がりとして存在している。企業模倣としての起業ではなく。地域の公共ニーズに応える社会参画の形として、地域起業を企業手法を使って組織していく、いわゆる「社会的企業」の契機を提供し、触媒として中間支援していく活動が「わーく」の情報交流活動である。

このことは、逆に言えば関連社会活動と結びついてこそ、「わーく」はその価値を発揮する。しかしその関連活動が存在しない場合は、「わーく」の文化活動的な側面から、就労支援活動そのものではなく、それを支えるコミュニティをネットワーキングの手法で生み出していく、つまり社会参画への可能性を内包した活動で人材の結集を緩やかに作っていく、いわば環境づくりの活動を推進していく。

この準備活動的なネットワーキングは、独自の価値を持っている。手帳を持つ障がい者、手帳を持たず地域潜在化している精神や軽度の障がいのある方、社会的引きこもりなど社会的挫折者等の出会いと連携を生み出していくからだ。この二重性によって活動がわかりにくくなっているが、環境が整わなければ、地域の公共的ニーズを引き受ける活動に姿を与えるネットワーキング型就労支援は、偶然による企業や知人商店求人などへの個人送り出しの活動に留まってしまう。起業という果実を結ばないのだ。

地域社会という分野において、生活スタイルの構成や問題解決のネットワークに社会参画と有償労働の形を提供する情報交流活動が「わーく」なのである。

消費者に求人メニュー提供を行う活動を常識とした社会にあって、就労という自分の必要性を原動力としながら、お互いがつながることで、解決の糸口を自主活動としての「仕事」を通じて膨らませていく。

私はその実際上の形を、高齢者・乳幼児子育て生活支援としての「買い物代行」「御用聞きシステム」として提案しつつ、土台となる文化活動として、画像交流SNSネットワークを始めていく。互いに意識的な交流をしてこなかった人たちが、健常者の独占のような世界の携帯電話オンラインネットを駆使して、潤滑な対面活動を生み出していく。そこから小さな火を広げていくことにする。技術による活動の質の底上げの話は前回のメモを参照されたい。

(つづく)

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