今回は長いから、転載だけ。
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た⚫︎「だから何なの21〜ゲームハウスと教員の欲望〜」
最新のオンラインゲームや仮想空間は、ゲーマー参加でストーリーが納豆の糸引のように、継ぎ足しの組み合わせがあるので、話題の外になる、脱線包含型というか。
孫悟空を知っているかな、あのお猿キャラが筋斗雲に乗って活躍する西遊記のなかで、ボスキャラ釈尊が孫悟空を手のひらに乗せて、私の手のひらを抜け出してみよとちょっかいかけた。いきりたった孫悟空、筋斗雲で飛び出した。ここまできたら抜け出しただろうとみわたすと、なんということか、釈尊の指がニョッキリ、手のひらのなかだったというこわーいお話。愚か者の俗人のやることは知れてる。読みっきりだよという例えに使われているんだ。
私は愚か者だから、化け物釈尊が嫌いなのだが、こういう立場にたっている人のセンスを疑う。
RPGやだなあと思うのは、制作者の作った世界の手のひらにころがされているお猿さんにみえるからだ。うらにいる人間の鼻毛フーが見えてしまうからだ。
実はクイズにも同じ構造がある。正解を持っている超越した釈迦もどきが、正誤の判定を下す。あんた誰といいたくなる。
もともと知識は絶対正はないのだ。振り回す知識を誤解している人が多すぎる。
源頼朝の話知ってるだろう。おっさんが高校生のころ(不気味だ)鎌倉幕府成立は1192年と教わった。ちがうだろ。ところが当時は他の答えはバツだった。
物理だって確率分布という考え方があって、何%の確率で正しいとやる。
だからクイズは辺境な、知識のかかわりかたなのだ。断片的な知識の量を積み上げるのが学習なら、知の干物を食べているようなものだ。
私が中1の時、英語の勉強がすごくイヤだった。それは「あなた」と「あなたたち」が何で同じ「you」なのかと質問したら、そうなっているのだから、おぼえなさいと、わたしのつむじに、にぎりこぶしで、ぐりぐりやられたこと。
「わたし、しらないわ」と、「俺はしらん」が何でおなじ「I don't know.」なのか、はい、つむじぐりぐり。英語の先生を、このおばさん、やだと思った。鬼畜米英ではないけれど、雑な奴らとつきあうのやだなあと思った。覚えなさいじゃないよ。
高校に入って英語は、坊ちゃんにでてくる赤シャツみたいので、聞いたら、あはは、そうだねぇだった。ところが物理の先生と廊下で話したとき、同じ質問をぶつけたら、「おお、それは文化の差だよ。外国人に浴衣着せると変だろ。違う世界があるのだから、まず違いを認めて差異を考えると、それも学問になるよと教わった。文化かぁと、煙に巻かれつつ、このおっさん、偉いだった。
知識は人の営み(文化)の中に生きている。そういうことを知った。断片的な知識のかけらの正誤を選ぶクイズは、底が浅いのだ。
でもあそびとしては、面白いじゃんという話もあって、なるほどそれは一理あると思うが、選択肢が世界のすべてであり、さあ選べと言うのは、君、釈尊かいといいたくなる。でっかい手、やだねえとおもう。
だから選択肢には「わからん」をかならずいれて、対話する。
あの防災紙芝居は、質問分類で陣地分けをやっていたけれど、困っている子がいた。釈迦の都合の手のひらひろげて、管理すれば相手と距離がたもてるというのは、変だ。なんで年長さんに、しゃべらせないのかなということと、迷っている子、どうするのということが、気になっている。怪物じゃないから、かたまっていないで、話せばいいよ。コチーンしてないでさ。これ、つぎの学年の宿題だと思う。世界を小さく生きているよ君ら。クイズの管理の誘惑は、教員も危うい誘惑、手のひらころころやりたがる。あかんよ。
くそジジイモード
ぴと、何しにきたの?