湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

12/8 カーシェアリングは仮設生活支援限定か/ケア付仮設の魔/ペットレスキューの裏の意味について

2011-12-10 06:30:41 | 引きこもり
2011/12/08 記
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「カーシェアリング」を企画化するとき、対象となる被災地の特に仮設住宅の状況をしっかりつかまなくてはならない。これが行政や関連機関への電話問い合わせでは、実情は煙幕の彼方にあって、決して輪郭が浮かび上がるものではない。地元のボランティアと連絡を取ることになるが、この辺の問題意識を共有できるボランティアにはなかなか出会えない。幸い大船渡市とは、ボランティア連絡会の中に、ケアとコミュニティ形成の視点を持つ方と複数接点を持つことが出来たので、湘南の準備のの問題になりそうだが、陸前高田市の方は、そうもいかない。

奈良**MLの方も、最近私があまり積極的な提案を出さないので、倦怠期に入っているので、昨日「被災地のカーシェアリングは、未来を見通すか?」という問いかけをだした。

というのは、大船渡市復興計画作りの新聞記事から、入札参加の民間コンサル達の企画案の概要紹介をつまみぐいしていると、現場からスタートして構想を組み立てているというより、未来都市計画の流行を羅列して、つながりそうな地名をトッピングしたような提案が圧倒的だからだ。

もう少し論点を絞ろう。仮設コミュニティを形成促進するために、カーシェアリングを勧めることはわかる。ただこれが、そのまま化石燃料枯渇時代のエコ交通システムへとそのまま移行する様に語るのはどうかとおもうのだ。

仙台などのいわゆる都市部を除いて、東北は一家族数台、複数車所有の社会、車がないと身動きが不便で日々暮らせない社会なのだ。だから仮設期以降を構想したとき、提供した車はどうなるのだろう。カーシェアリングの共同所有・共同利用の萌芽として育っていくのだろうかという問いかけだった。

別の言い方をすれば、「『カーシェアリング』は都市型の生活体系に組み込まれるシステムなのでは無いか」という問いかけだった。むしろ高齢者を主眼に置いたオンデマンドバス、自由昇降バスの検討の方が意味があるのでは無いかという、あえて出した別提案だった。

さすがに議論が始まったが、問題は数年に及ぶ仮設住宅の生活が、立地条件から閉塞的な環境に影響を受けることとなり、外出困難者を生み出したり、その結果として人的交流の歪みを生み出すという問題に対抗する仮設存続期間の企画だと割り切るべきなのではないかという問いなのだ。

マイクロバスを送ってはどうかという案は、相互使用調整のフットワークが問題になった。小回りの利かない公用風の利用の気の重さということや、車の価格の問題が指摘された。

行政が乗用車を抱え込んだら使い道があるかという現実的な話となった。

となれば、仮設の不便解消と入居者交流を進めるために車を提供するということは、カーシェアリング協会の試みのように、レンタル車のリースの形で、仮設解消などの用済みのときに引き上げるという形か。ボランティア・タクシー依存の試みは、実際、各地で災害直後の現地滞在ボランティアの中で震災直後に行なわれた。しかしそれは、営業免許制度の違反や、地元タクシー業界との軋轢という形で、取り止めとなった。そのなかで出てきたのが被災地型カーシェアリングだった。

MLの議論は事例探しに移ってきているが、条件が絞られてきたように思う。

(つづく)

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大船渡市は被災者の短期雇用として、3月契約更新の仮設巡回員を臨時に雇っている。大き目の仮設には、団地の管理事務所員のような形で、それぞれの仮設に常駐させる「ケア付仮設」といわれる形で、独居者の孤立を防ぐ基本環境を作っている。

陸前高田市はまだそこまで形が整理されていないが、大船渡市をモデルにすると思われる。大槌町などで実施されている「命の旗」ならぬ「命の竹棒」は「ケア付き仮設」の場で有効性を発揮するだろうか。

問題は目こぼし。交通の便がよくなってくれば、アルコール依存の飲酒の場は仮設外が主となり、外出から戻ったひとりの部屋で、脳溢血などを起こし、発見が遅れて死に至るという形や、孤独に追い詰められて自殺という場合も、室内ではなく近所の林の中や車の中など外で行なわれたりする。

持病が悪化し、身動き取れなくなって、衰弱死するという室内型と異なる問題が入ってくる。その方の日々の生活把握は難しく、管理事務所兼相談室のような形は、そこに行きつく前のケア、近未来へとつながる諸問題のカウンセリングが得意なシステムだ。しかしここは、精神衛生上のカウンセリングと接する、経験を要する担当者が配置されないと、雑務に振り回されることになるだろう。この眼差しの隙間こそ、魔が棲む空間。

これが大衆運動へと提案を結実させられるだろうか。登米・大槌町の利用経験をどうつかんだらいいのか。手探りに宮城県警や、登米市行政、毎日新聞通信員から情報が入らないかアクセスを始めている。結果は近々に。

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ペットレスキュー支援の通信No.04を相模川淵から国道一号線沿いに配布した。昼過ぎ橋本巡回を終わらせ、伊勢原から父の老健に回る。今回は事務的な用だけで引き上げ、平塚の図書館で書籍の交換。「精油・植物油ハンドブック」を入手。平塚駅から茅ヶ崎駅行バスで新田入口(馬入橋茅ヶ崎側)で降りて、動物病院巡回開始。茅ヶ崎駅まで歩き、バスでひばりが丘へ。先日の抜け落ちのララ動物病院へ。

巡回配布4回目となると、お互い顔がわかってくる。私がペットレスキュー団体の支援者であることはわかっていたが、「私の動機がわからない」との質問が巡回先2ヶ所ででた。

実は初めは、災害ボランティアの作りやすい形はなにかと、市議の**さんと話して始めたのが出発点。しかし、引きこもり青年の犬の散歩から、社会との接点の作り直しをした経験や、セラピーキャットを高齢者施設巡回させる件の仲介をしてきたりと、犬猫とは多少の縁があった。つい先ごろ、ナイフで通り魔を演じた少年が、猫の死骸を事件の前に見せていたというドラマまがいの話があったが、昔団地住まいしていた頃、私の夜間傾聴を憎んだ方が、ひき殺された猫の死体を玄関前に放置し、すれすれの経験をしたこともあって、この記事が作り話ではないと信じられるようになっていた。

つまり愛玩動物は、自分の心の核心に至る鬱積の表明をいともたやすく、安全に引き出してくれる友なのだと思う。また、被災して津波から逃げるときに、大人世界からではなく子ども世界から見れば、自宅のペットを置き去りにした痛みを感じている子が大勢いるだろうなと思う。

新聞記事にはならないけれど、そういう、特に子ども世界に偏る悲劇がある、そういう世界(被災地)と接するとき、大人不審に応えるためにも、動物を見失わない大人がいることを記すためにも、この活動は続けていくべきだと思った。不登校・引きこもり青年のふと見せる優しさに通じるひとの共感世界を探っていくためにも、獣医さんやペットショップの方と培うネットワークは無駄にはならないと思うようになった。つまり高邁な動物愛護の精神からというより、人探しに近い生臭い活動なのだと思っている。

災害ボランティア活動育成の戦略性からはもろにはずれているが、会員拡張は説き伏せ獲得する気には、なれないのだ。こればかりは価値を知るひとのつながりから始める活動なのである。市議の方と口火を切った活動が、まず出会ったのが、まずは人命優先という拒絶。動物好きという方が、ステイタスとして犬猫を飼っている。家族の平和を乱すなという白眼視だった。講演会を提案するに当たって、実質言葉を失っていた。

これは活動を立ち上げるときに共通のことであるが、この壁を超えるには、ひとに頼るのはだめ。共感を呼び起こすような、まずは芽をつくる。そこまでは、ネットワーキングするためにも、発起人の矜持のようなものなのである。いかに困難、世界でひとりでも、ことは隗より始めよなのだと見失っていたことをかみしめている。経験依存の大きい活動は、ましてやそうなのである。


夜間傾聴:なし


(校正2回目済み)

コメント
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