湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

5/28青少年支援セミナーを振り返って/活動を引きこもらせないために

2006-05-30 07:07:10 | 引きこもり
 武居光氏と牧野賢一氏らの執筆陣による、「本人活動支援'99」という育成会のテキストを要所コピーした。大変わかり易い自主活動の手引きなのだが、市販ルートに乗っていないのが難。ケア・パートナーの協働・チーム就労との接点が拡がる活動に親密さを感じる。もっと最近の書はないかと探ってはいるが、月明けに牧野氏と会う機会があるので、相談してみるつもりでいる。

 一昨日、ヒューマン・スタジオの青少年支援セミナーに参加して、引きこもりの活動が独自領域を抱えるようにして続いてきたのだという感を強くした。

 これはある軽度発達障がい団体のリーダーの方が悩んでいたことだが、障がい児者の活動から連携の呼び掛けがあったとき「私達は障害者ではありません」と断る方が出てくるという話だ。これは私が塾の父母会をしたときに、不登校の子の中に自閉症スペクトラムの方が高率に通塾していることからその対策を始めたいと語ったときの反応と同じだった。

 「不登校・引きこもり」は「治る」、だから「障がい者」ではない。だから一緒にしないで欲しいという訴えなのだ。ここには「生きることの困難」という障がいが社会的なものであるという発想がない。私達は老いる。その老いを障がい者とはとらえまい。精神の様々な症状があり、正常なる状態とは調べるほど連続していることがわかる。ひとの拡がりを包括的に見る目が「治る」という短絡的な基準によって切り離されていく発想は、その活動が社会の中に位置づいていない様を浮き上がらせている。医療というくくりの範疇に閉じている思考をこそ開く必要を感じている。

 そのことを強く感じたのは、後半の議論の中で「引きこもりも選択肢のひとつ」と語った武居氏の発言を紹介したとき拡がった違和感だった。就労することで社会的自立を成し遂げるという発想が、本人や関係者を抑圧している。様々な生き方が社会によって標準とか常識という姿を取って忌避されている状態から、いかに離脱するか。その方向が引きこもりの活動には、まだ見えていないのだ。

 インクルージョンとは、異物を寛容に受け入れる規範なのではない。私達の人間関係は起伏に富んでおり、ひとは一面で接しているのではないということに気づいたものの改革の道なのだということだ。ケア・パートナーの提案はひとと社会の障壁を取り払う活動であり、相互に必要とされることによって私の生の意味を情念のレベルまで高めていく活動なのだ。

 障害にめげずにけなげに生きる障がい者を見習うために、一緒に行動するという話なのではないのだ。愚かな切り離しをやめ、私達の家族や友としてやっていこうというのがインクルージョンの考え方だ。この辺が伝わっていかない閉鎖性を感じてしまったのだった。

 発題者の石川さんは、いい切れ味の論を展開していた。ニート概念の導入によって、引きこもり者は「労働」の価値観から切られてしまい、「就職する」ということが抑圧として覆いかぶさってきている。労働観・人生観の問いを忘れてはならないのだと説く。異論はない。しかし吟味する世界が狭い。釈迦に説法は承知だが、海外の生活集団の文化人類学的な調査や、知の越境を試みる認知科学のまなびの成果を吟味してもらいたいと思う。個人を基準と逸脱の眼差しで囲い込む医学(科学)の範疇がすでに時代的なものだということ。そこに取り込まれない活動こそ求められているものなのだ。

 昨日は、6/10のゲスト懇談(綿引さん)を迎える準備資料をつくったり、事前相談の日取りを調整して終えた。労働に価値を探ることは、社会通念には希薄だ。自分を他者比較の基準で観察し、いかに職場に「はまる」かが現行の就労活動だからだ。しかし社会を固定的に発想する方向は引きこもり体験者には苦難でしかないだろう。ふりまわされることなく、自分の道を探る試行錯誤に踏み出してもらいたいと願う。この「過つこと」へのセフティネットを私ら年配者が作る。それが実務者ネットに期待されている。

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