湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

シンポ「アートと学校教育の連携を考える」に参加して

2006-02-12 03:54:45 | 引きこもり
 藤沢市内某校の美術科教員A氏を経由して、ストリングラフィのライブを拡げてもらうために、県と県教委が主催する「アートと学校教育の連携を考える」というシンポジウムに顔を出した。教育学者の佐藤学さんの講演をよく引き受けているワタリウム美術館の和多利浩一館長と会うことももうひとつの目的だった。佐藤学さんが力を入れていた茅ケ崎市立浜之郷小学校の亡き大瀬敏昭校長の教員集団に話を流してもらうためだった。これからしばらくは、幼稚園まわり26園と、今回のように青少年関係諸団体の集まりに提案配布することが続く。

 しかし、「アートと学校教育の連携を考える」という集まりは、面白い集まりだった。おそらく教育や演劇に関心のない方が参加されたら、なにかよくわからないけれど斬新?な新しい教育実践が学校現場で進行していると映るだろう。しかしそのテーマや方法が、この十数年変わっていないのだ。ある学校の場合は竹内敏晴氏や鳥山敏子氏の方法の焼き写しであったし、Adventures in Peacemaking とSST の影のある実践だからだった。唯一毛色の違った実践は HIP-HOP を導入した例だったが、これは HIP-HOP の特徴を理解した上での導入とは思えなかった。

 青少年に起きている学習意欲の減退とか、対人関係の内閉化というような傾向について、身体トレーニングを感覚のレベルまで掘り下げていけば、治療法としての実践が出来るというような、どこまでも子どもを人間未完成品として加工する発想が貼り付いているものだった。どんなにおいしいものを食べさせ感動しても、当事者の意向は先(未来)に押しやられ、おあずけとなったままだ。当事者はTV番組のチャンネルを切りかえればそれで終わりになってしまう。なぜ「当人と共に」「今」を歩こうとしないのだろう。生重幸恵さんが不登校の子たちの可能性とフリースペースの素晴らしさを力説されていたが、やはり幼児の庇護のセンスから抜けず、ハイ・ティーンズもその庇護に包み込んでしまうがゆえに、「優しさ」の包帯は患者の口をぐるぐる巻きにしてしまうのだ。学校教育が宮崎緑さんの紹介した「学生は未来からの留学生」である限り、ことは解決しないと思うのだ。青少年の社会の居場所が「学生」以外にないということに、なぜ気がつかないのか。

 つまんないぞとQ&Aの場で挙手したが、指名されなかった。時間切れというか長くなりそうな奴を回避したのかなというところだった。

 繰り返しになるが、「不足した身体体験」なるものを「錆び落としと補充」すれば今の青少年問題は解決するのですか。大人が棚上げされているおかしさ、社会に「はまれ」と裏で強制していることに気がつかない大人の勝手に、プロジェクタに映し出された善意の漂白された実践画像は反転してしまうのだ。和多利さん、もう少し切り込んで欲しかった。

蛇足>とんとん拍子で時間ぴたりに収まる会運営は、場慣れした熟達者の技か、反復練習した結果です。Q&Aがいつも疎かになる伝達企画・饒舌企画は参加者を凍らせ、企画パックの心のチャンネル切り替えするんじゃないですか。

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 会場関係者には「自閉症者」の感覚統合的情操実践の「成果」を今度見せてくださいなとお願いしてきた。(^^;

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 帰りに中華街に立ち寄り、製菓食材を仕込んできた。杏仁霜・乾燥蓮の実。和菓子ではないのだが。




コメント
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