日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

生活の橋 臥龍橋

2010年05月22日 | 町かど
               

錦帯橋が史跡名勝に指定されたのは1922(大正11)年、完成からおよそ250年の歴史を刻んでいた。記憶に残るこの橋の最も大きなことは1950(昭和25)年9月キジヤ台風による流失だ。

その次の朝の登校のとき、美しく5連に連なった弧のひとつが、板を継ぎ合わせた長い1枚の板のようになり錦帯橋下流にある橋に引っかかっていた。橋脚に遮られたそのべたっとした無残な姿を欄干から覗き込むようにして見下ろし、驚き悲しんだことを鮮明に覚えている。その橋を臥龍橋という。

臥龍橋は錦帯橋の下流500mくらいにある。無名の橋だが「臥龍橋はあれは去年の夏、盆も間近かのある晩のことでござりました。町の寄合いのくずれで、よそのお碑とと二三人あの臥龍橋の上 でええ心持になって風にふかれていたので ござりまする。すると誰やら、白い浴衣きた女がすうっと私のすぐ傍をすりよって通るのでご ざります。この広い橋の上をあなに近うに人の傍を通らいでもと、そう思うて顔見ますと、別れた女房のおはんでござ ります」と描かれた橋です。

この橋も錦帯橋流失の翌年10月、ルース台風により流失した。今と違い交通手段のお粗末な時代、川西と横山地区は陸の孤島になった。川西地区の児童は当時あった修行僧の寺の本堂で学習したが、楽しかった記憶がある。しばらくして渡し舟が橋の代わりに登場した。臥龍橋の上流から、今は団地に変わったが元義済堂下の川原までを楽しんだ。

流失後再建され、1度大掛かりな改修がされた。今は鉄筋コンクリートで長さはおよそ200m、片側1車線で両サイドに歩道のある、どこにもあるごく普通の橋。しかし、錦帯橋は観光用だが、臥龍橋は毎日の生活には切り離せない用を果たしている。

錦帯橋と比べることはないが、生活の橋としての諸々は地域の人の支えとなって続いてきたし、これからも続く。私はこの橋の西側から見える錦帯橋が好きだ。高い建物などに煩わされないで眺められるから。

(写真:臥龍橋西詰めから眺める錦帯橋、この日は霧がかかっていた)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする