みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

大いなる神だから

2021年06月24日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 2章

 妻がここ数日、日本にいる孫たちのために、「オンライン宿題サポート」をしています。厳しくなく、ほめてばかりいるので、やる気が出るようです。

 2−4章には、ソロモンがエルサレムに主の宮(神殿)を建てた様子が描かれます。彼は、この建設のために隣国ツロのヒラム王に助力を願いました。この時ソロモンは、杉材だけでなく熟練した人々も提供してほしいと願います。この時イスラエルには、熟練した者がいなかったのではありません。しかし、ヒラムのもとにいた人々が技術的に優れていたということを思わせる願いです。そのことについてきょうの「みことばの光」は、神殿を完全なものにしたいというソロモンの切なる願いが現れていると書いています。

 ヒラムへのことばの中でソロモンは、「私が建てようとしている宮は壮大なもの」と繰り返します。それは、王としての偉大さを誇示するのではなく、「私たちの神は、すべての神々にまさって大いなる神だから」ことばです。彼は、神が大いなるお方だということを、神殿によって少しでも証ししたいと考えました。そして、この「プロジェクト」遂行のために、彼は惜しげなく富と技術と人とを用いました。少しも惜しくない…として。

 歴代誌のはじめの聴衆は、ここをどのような思いで聴いたのだろうかと、想像が膨らみます。自分たちにはソロモンのような備えはない、それならばどのようにして神がすべての神々にまさって大いなる方であるかを現すことができるのだろうかと…。


民の前に出入りするために

2021年06月23日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 1章

 いよいよパウロとバルナバの一度目の伝道旅行だ! と「みことばの光」を開いてみたら、きょうからは歴代誌の後半。書かれている出来事は、一気に紀元前900年代の前半、ソロモン時代へと飛んでいきます。誌上タイムトラベルをしているかのようですね。

 ここからしばらくは、ダビデの後継者ソロモン王について読みます。はじめはソロモンの王としての基盤です。ソロモンが父ダビデから王位を継いだということは、ダビデの信仰も受け継いだということです。それはソロモンが、ギブオンに置かれていた幕屋の前で主を礼拝したことに現れています。

 主はソロモンの礼拝を受け入れ、願う与えると言われます。それに答えてソロモンが願ったのが「知恵と知識」だったというのは良く知られたことです。目に留めたのは、彼が「知恵と知識」を求めた理由です。ソロモンは「そうすれば、私はこの民の前に出入りいたします」と言っているのです。

 「民の前に出入りする」とは、すぐ後のことばから分かるように、民を正しくさばくということであり、それは王の大切な務めでした。しかも彼は、「この大いなるあなたの民」と呼びます。主なる神がお選びになったゆえにイスラエルは「大いなるあなたの民」なのです。それを正しくさばくために神が自分に知恵と知識を授けてくださらなければできないと、ソロモンは知ったのです。

 ですからこの知恵・知識は、頭が良いとか賢いということもあるかもしれませんが、それ以前に主への信仰とのつながりが肝心要(かんじんかなめ)なのです。これを主に求めているだろうか…と問われます。

 ソロモン作の箴言には、「主を恐れることは知識のはじめ」、「主を恐れることは知恵のはじめ」とあります。主への恐れをどこかに追い遣ってしまうならば、たちまち人は愚かなものとなるのです。


神に栄光を帰さなかった

2021年06月22日 | 使徒の働き

使徒の働き 12章18−25節

 ここには、使徒ヤコブを殺しペテロを捕えたヘロデ・アグリッパⅠ世の最期が記されています。彼はローマ皇帝のおぼえよろしく当初与えられた領地をさらに拡大することができました。3節に「ユダヤ人に喜ばれたのを見て、さらにぺてをも捕えにかかった」とあるように、人々の人気を得て自分が称賛されるのを喜びとするような領主でした。

 ペテロを捕え、人々の前で殺そうとした企てが頓挫した時、アグリッパは神の前に自分を正しく位置づける機会を与えられたとも言えます。しかしペテロを取り逃がした出来事を、兵士の処刑で終わらせてしまったのです。

 そして、彼はカイサリアで人生の終焉を迎えます。それは絶頂のすぐ後に訪れました。聖書は、虫に食われて息絶えたと書いています。あっけない終わり方です。改めて人の生きると死ぬとを支配する神をおぼえます。死因は、アグリッパが神に栄光を帰さなかったことでした。歴史家のヨセフスは、この出来事を「ユダヤ古代誌」に記しています。場所はカイサリアの地中海沿いに建てられていた円形劇場。

 「アグリッパス(アグリッパ)は銀糸だけでおられた素晴らしい布地で裁った衣装をつけて、暁の劇場へ入場した。太陽の最初の光が銀糸に生えてまぶしく照り輝くその光景は、彼を見つめる人たちに畏怖の念を与えずにはおかなかった。すると突然、各方面から、佞人(ねいじん〜おもねる人々)どもがー本当にそう思ってではないがー『ああ神なるお方よ』という呼びかけの声を上げ、…」[ヨセフス「ユダヤ古代誌」19巻343−350 秦剛平訳 筑摩書房)

 高ぶりの結末はえてしてこのようなもの。それでも、神を恐れない人は称賛の美酒に酔いしれようとするのです。このような権力者の高ぶりゆえに、小さなイエスを信じる者たちは、歴史の中で大きなとばっちりを受けました。しかし、いずれも「生き残った」のは小さな者たちでした。本章の最後の2節は、ヘロデの結末と対照的です。


現実とは思えない

2021年06月21日 | 使徒の働き

使徒の働き 12章1−17節

 木立の中に涼しげな雪原が…、というような風景。何だと思われますか? 北海道にも見られる景色だそうですが、これはポプラの綿毛。暑い日が続くので、こんな景色を見るとちょっと気持ちが涼しくなります。でも、始末に困っている人もいるようですね。

 聖書には、ヘロデと名のつく人物が複数出てきます。十二使徒の一人ヤコブを殺したヘロデは、イエスが誕生した時にベツレヘムとその近くにいる二歳以下の男の子を殺したヘロデ大王の孫で、ヘロデ・アグリッパⅠ世のことです。ローマ皇帝の権威の元で領主としての立場を得ている彼は、任されている領地の人々の機嫌を取るようなこともしなければなりませんでした。

 そこで彼が標的にしたのが、イエスの弟子たち。まずヤコブを殺します。それが人々に喜ばれたのに味を占め、ペテロを捕えます。これは、エルサレムの教会にとって大きな危機でした。要となるような指導者が一人は殺され、一人は捕えられたのですから…。

 牢に閉じこめられたペテロのために、教会がしたのは祈ること。祈りは応えられて、不思議な方法でペテロは牢外へ…。この箇所には、実際に起こっていることを現実とは受け止められない人の姿があります。

 一人はペテロ。牢から外に出ながら、彼は自分の身に起こっていることが「現実とは思えず、幻を見ているのだと思って」いたのです。

 もう一つの人々は、ペテロのために祈っていた人々。ペテロが門の前に立っていると、ロデという召使いの女が知らせても、ペテロ救出のために祈っていた人々は、そのニュースが現実とは思えないのです。

 信じて祈っているのに、いざその祈りが神によって応えられたときになかなか信じられない、これを愚かと笑うことはできない、自分もその一人なのだから…、と認めざるをえません。


非難、沈黙、賛美

2021年06月19日 | 使徒の働き

使徒の働き 11章1−18節

 当地では「遅ればせながら」と言ったほうがよいのかもしれませんが、ワクチンの一回目の接種を終えました。これを書いている時にはまだ副反応は見られませんが、どうなのでしょう。

 ペテロたちがエルサレムに戻ってみると、ほかの使徒とたちと主にある兄弟たちはカイサリアで何が起こったのかを知っていました。瞬時に情報が拡がる今とは違う時代です。それなのに、話は広がっていたのです。このことからも、ペテロたちが経験したのが劇的だったことがここからも分かります。そして、彼らを待っていたのは、割礼を受けている兄弟たちからの非難。

 せっかく神の素晴らしいみわざにあずかって、賛美しつつ感謝しつつ戻って来た彼らが、称賛や労いではなく非難を受けるなどということがあってもよいのだろうかと思いますが、いや、このようなことが起こりうるのです。それだけ、新しいことに対して人は保守的と言うか、守旧的なのかもしれません。

 非難に対してペテロが採った対応には、ならうべきことが大いにあります。非難に非難で応酬することなく、カイサリアで何が起こったのかをペテロは、聖書によれば「事の次第を順序立てて説明した」のです。彼の説明には、誇張や歪曲がありません。非難に対して弁明しなければならないとしたら、うそとまではいかなくても少し大げさで劇的に話を組み立てるかもしれません。しかしペテロにはその必要がなかったのです。彼自身が体験したのが劇的なことでしたので…。

 神がなさることは、静かに考えると常に劇的なのです。しかし、私たちはそれに気づくのに鈍いのかもしれません。

 その結果、非難は沈黙に、そして沈黙から神への賛美へと変わりました。「黙っていればそのうち分かってもらえる」などという考えがもしかしたら私たちを支配しているのかもしれません。しかし、神が行ってくださったことを黙っているなどというのはもったいない! のです。


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