使徒の働き 11章1−18節
当地では「遅ればせながら」と言ったほうがよいのかもしれませんが、ワクチンの一回目の接種を終えました。これを書いている時にはまだ副反応は見られませんが、どうなのでしょう。
ペテロたちがエルサレムに戻ってみると、ほかの使徒とたちと主にある兄弟たちはカイサリアで何が起こったのかを知っていました。瞬時に情報が拡がる今とは違う時代です。それなのに、話は広がっていたのです。このことからも、ペテロたちが経験したのが劇的だったことがここからも分かります。そして、彼らを待っていたのは、割礼を受けている兄弟たちからの非難。
せっかく神の素晴らしいみわざにあずかって、賛美しつつ感謝しつつ戻って来た彼らが、称賛や労いではなく非難を受けるなどということがあってもよいのだろうかと思いますが、いや、このようなことが起こりうるのです。それだけ、新しいことに対して人は保守的と言うか、守旧的なのかもしれません。
非難に対してペテロが採った対応には、ならうべきことが大いにあります。非難に非難で応酬することなく、カイサリアで何が起こったのかをペテロは、聖書によれば「事の次第を順序立てて説明した」のです。彼の説明には、誇張や歪曲がありません。非難に対して弁明しなければならないとしたら、うそとまではいかなくても少し大げさで劇的に話を組み立てるかもしれません。しかしペテロにはその必要がなかったのです。彼自身が体験したのが劇的なことでしたので…。
神がなさることは、静かに考えると常に劇的なのです。しかし、私たちはそれに気づくのに鈍いのかもしれません。
その結果、非難は沈黙に、そして沈黙から神への賛美へと変わりました。「黙っていればそのうち分かってもらえる」などという考えがもしかしたら私たちを支配しているのかもしれません。しかし、神が行ってくださったことを黙っているなどというのはもったいない! のです。