サムエル記第一 15章1−16節
外出の時は雨。そのせいか、いつもよりバスは空(す)いていました。当地では高齢者や障害のある人がバスや電車を利用する際には、近くにいる人がサッと手を差し伸べます。ハード面でのバリアフリーはもちろん大切ですが、進んで助けるということがあって、共生が可能になるのですね。
ここでサムエルは、アマレクを聖絶せよとの命令をサウル王に伝えます。アマレクは、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを出た後で、彼らの行く手を妨害した民族です。その彼らへの聖絶をサウル王に命じたのです。聖絶とは「神のものとする」ということです。
今日の「みことばの光」は、聖絶(他の聖書では「滅ぼし尽くす」)について、信仰抜きには理解できないと書いています。確かに、3節の「容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい」という聖絶命令は、神がどのような方か、人が神の前にどのような者なのかを考えることなしには、受け入れがたいことで、人間中心に考えるならとても受け入れることのできない命令です。
この命令が出されたということには、そこにわれわれの考えや思いを超えた、神の深い御旨があったということでしょう。
サウルは命令を守りアマレクと戦い勝利しました。彼は命令の大部分については完璧に実行しました。王にふさわしく兵士たちを鼓舞し、アマレクを打ち破りました。しかし、問題は実行しなかった一部の事柄なのです。つまり、もったいないと自分が、自分たちが思うものを残しておいたのです。
アマレクを打ち破ったという勝利の喜びが、少しぐらい自分たちがしたいことをしてもよいという心にすり替わったのです。命令を破らないことの後ろめたさなど感じさせないほど、サウルは「私は主のことばを守りました」とサムエルに答えます。サウルの信仰理解からしたら、何も問題はないことのようです。
そこにこそ、大きな問題がありました。