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吉本隆明『宮沢賢治の世界』

2017年06月06日 23時36分38秒 | 文学
吉本隆明『宮沢賢治の世界』(筑摩選書)を読んだ。
吉本隆明の宮沢賢治についての講演をまとめたもの。
いまちょうど宮沢賢治を集中的に読んでいるのでちょうどいい機会だと思い、読んでみた。この本は出たときも興味があったのだが、編集後記に春秋社がある講演録を固守して使わせてくれなかったという恨み節のようなことが書かれてあり、その書き方に違和感を感じて(それだけが原因でもなかったのだろうが)読まなかった。
似たような話が何度も出てくるが、ひさしぶりに吉本隆明の本を読んだ気がして嬉しかった。このような、ちょっと他では誰も言わないような言い方に惹かれて吉本隆明を読んでいたなと思った。

宮沢賢治は童話は読めるけれども、詩は、これは宮沢賢治に限らないのだけれど、読めないなと思っている。
それでそのヒントにでもなればと思ってこの本を読んだのでもあるのだけれど、やはり難しい。引用される詩をちょっと読むだけでもわからない。吉本隆明も難しいと言っている。あまり日本の詩の歴史を知らないのだけれど、宮沢賢治の詩は独特なようだ。
括弧書きの使い方が独特で、そこで流れがちぎれるらしい。確かに読むとそう読める。
いま新潮文庫でずっと宮沢賢治を読んでいるのだが、詩は買わないかもしれない。買っても勉強として読むことになりそう。
自然科学的な詩ではなくて、妹が今日死ぬとか、自分が血ががぶがぶ出て死ぬとか、そんな詩はわかる気がするが、自然科学的な詩はほんたうに読めない。言葉も難しい。

吉本隆明は宮沢賢治の悪口はあまり言わなかったと自分で言っていて、確かにこの本にもあまり批判的なことは出て来ないのだが、テニスをやりながら商売でやっている先生から教わる勉強ではだめだというようなことを言っているところは批判している。
《あるひとつの主題に対して、どちらが真理に近いことをいっているのかという問題が出てきたときには、こういう言い方をすると好まれやすいという言い方は、概していえばだめだとかんがえたほうがいいようにおもいます。それで、宮沢賢治はこの場合には、シンパシーを受けやすい言い方をしているとおもいます。でも、それは真理の命題にたいしてはちょっと疑問で、こういうときには、一見すると受け入れられにくい考え方をするほうが真理に近づきやすいというのが、ぼくなんかがもっている考え方です。》(253頁)
「一見すると受け入れられにくい考え方をするほうが真理に近づきやすい」というのが素晴らしいと思った。
別のところでは、シモーヌ・ヴェーユとともに批判される。
《頭だけがよく、体が弱い人、非力で肉体的な仕事をしたことのない人が工員さんになりきることにどんな意味があるのか。全く無意味だとおもいます。意味をつけようにもつけようがないと、ぼくはおもいます。それがヴェーユの弱点であるし、息苦しくて仕方がないところのようにおもいます。もっと自然なほうがいいとおもいます。》(214頁)
こういう、きれいごと言ってらあ、それが何になるんだい、みたいな元も子もない言い方を吉本隆明はすることがあってそれが魅力なのだなと思う。
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宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』

2017年06月04日 20時55分35秒 | 文学
宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)読了。

「双子の星」
星が空から落ちて海に行き、再び空に登る。動きがあってたいへんたのしい。

「マリヴロンと少女」
吉本隆明の『宮沢賢治の世界』(筑摩選書)を読んでいるとなんども引用される。とっても短い話だった。
芸術家のほうが偉いのか、それとも芸術家でなくてもその人の人生はひとつの芸術でありうるのか、というような話。

「オツベルと象」
オツベルというのは象の名前かとずっと勘違いしていた。
オツベルが象を騙して働かせて、象が死にそうになって、仲間の象が助けに来る話。
宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のオームの襲来を思い出す。
解説に、《これを酷薄な雇用主がある図体のでかい雇用人を虐待しすぎて、その仲間に復讐されるたんなる勧善懲悪譚と読むことはできない》とあり、天沢退二郎がなぜそのように断言するのかよくわからない。そのように読めるが。

「銀河鉄道の夜」
吉本隆明が、ジョバンニが鳥捕りの存在を煩わしく思う場面を何度か取り上げ、ここに宮沢賢治の法華経の精神が生きているというふうに言っていたが、そう言われて読んでみると確かに印象に残る。
ついでにそのあとのタイタニック号の沈没で死んだ姉弟の、姉のほうがカムパネルラと仲良くするのを不快に思うジョバンニも印象に残った。
このような、誰でも経験はあるけれどあえて文字に残せなかった思いを残している宮沢賢治はすばらしい。
誰か仲の良い人と仲良く話しているときに、別の人間がやってきたことを邪魔に思って、どっかに行って欲しいと思うことは誰でも経験することだと思う。

「セロ弾きのゴーシュ」
ゴーシュは心やさしい青年で、動物たちにもやさしい、というような印象だったけれど、ぜんぜんそんなことはなくて、自分が楽団で指揮者に怒鳴られたのでその腹いせに動物たちを乱暴に扱う。
宮沢賢治本人の聖人の印象のせいで、登場人物もそのような人たちかと錯覚してしまうのだが、そんなことはない。

「ビジテリアン大祭」
案外おもしろかった。
一人称の語りというのが宮沢賢治には珍しい気がした。ベジタリアンとそうでない人たちとの論争だが、最終的にはみんなベジタリアンになってしまうところがすごい。そんなわけないだろ、と思う。
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黒澤明監督『わが青春に悔なし』

2017年06月03日 00時17分05秒 | 映画
録画していた黒澤明監督の『わが青春に悔なし』を見た。
見るたびに黒澤明はたいくつだなと思ってしまう。なんどか眠くなってしまった。
黒澤明が観客に見て欲しいところや撮影していて興奮するようなところを、僕が見ると眠くなってしまうというようなことが起きているのだと思う。
性格の不一致のようなところがあるのだろう。致し方ない。
原節子と杉村春子が農業をしているところや、高堂国典が動き出して荒らされた田んぼの立て札を抜いたりするところは、なにがおもしろいのかよくわからない。しかし黒澤明としては力を入れているのだろうなとは思う。
後半のあまりしゃべらない労働する不気味な原節子よりも、前半のわがままでおしゃべりで不気味な原節子のほうが好きだ。

戦争がやっと終わってよかったと思った。
しかしこの「よかった」はもうすぐ映画が終わると思ってほっとした「よかった」も少し含まれている。
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黒澤明監督『隠し砦の三悪人』

2017年06月01日 23時02分20秒 | 映画
録画していた黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』を見た。
最近古い日本映画をよく見るが、小津安二郎がいちばん好きで、二番目が成瀬巳喜男、三番目が迷って木下惠介で、最後が黒澤明、という感じだ。
『隠し砦の三悪人』は何度か眠くなった。おととい見ていたら猛烈に眠くなり、今日続きを見ていて少し眠くなり、それでも最後まで見れた。他の三人の作品では眠くならなかった。
よくわからないが、威勢のいい音楽を聴いていると眠くなってしまうのかもしれない。私には関係ないことが行われているような気になるのかもしれない。
『スター・ウォーズ』がこの映画の影響を受けたという話をなんどか聞いたことがあり、見ているとやはり、太平(千秋実)と又七(藤原釜足)のコンビがC-3POとR2-D2のコンビに見える。
形と人数を変えて逃走するのがこの映画のおもしろいところなんだろう。

三船敏郎と藤田進の長いチャンバラは必要かなあ。
火祭りのシーンはミュージカルっぽかった。だから「いい」ともだから「悪い」とも思わなかった。いや、ちょっといいと思ったかもしれない。
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佐藤優『先生と私』

2017年06月01日 20時41分41秒 | 文学
佐藤優『先生と私』(幻冬舎文庫)を読んだ。
『カラマーゾフの兄弟』の「一本のネギ」の話が芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のもとになっているような話を初めて聞いた。そもそも「一本のネギ」というのがどういう話なのか全く記憶にないのだが。『蜘蛛の糸』も『今昔物語』かなにかからとったのだろうと思っていたが違った。
両親に「優君」と呼ばれる佐藤優に違和感を感じる。しかし誰にでも子供時代はある。
塾の先生が佐藤優を特別扱いしすぎる。本当だろうか。
細かいところまで憶えていすぎるが、本当だろうか。創作だろうか。日記でも付けていたとしか思えない詳しさだ。
井上陽水の「東へ西へ」や「傘がない」の歌詞を全文載せる意図はなんなのだろう。森進一の(とは書かれないが)「襟裳岬」は何度も出てくるが歌詞は載せられない。
三浦綾子の『塩狩峠』を読んで、その場所に行ったことについて詳しく書かれていた。
とにかく詳しい。
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