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宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』

2017年06月04日 20時55分35秒 | 文学
宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』(新潮文庫)読了。

「双子の星」
星が空から落ちて海に行き、再び空に登る。動きがあってたいへんたのしい。

「マリヴロンと少女」
吉本隆明の『宮沢賢治の世界』(筑摩選書)を読んでいるとなんども引用される。とっても短い話だった。
芸術家のほうが偉いのか、それとも芸術家でなくてもその人の人生はひとつの芸術でありうるのか、というような話。

「オツベルと象」
オツベルというのは象の名前かとずっと勘違いしていた。
オツベルが象を騙して働かせて、象が死にそうになって、仲間の象が助けに来る話。
宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のオームの襲来を思い出す。
解説に、《これを酷薄な雇用主がある図体のでかい雇用人を虐待しすぎて、その仲間に復讐されるたんなる勧善懲悪譚と読むことはできない》とあり、天沢退二郎がなぜそのように断言するのかよくわからない。そのように読めるが。

「銀河鉄道の夜」
吉本隆明が、ジョバンニが鳥捕りの存在を煩わしく思う場面を何度か取り上げ、ここに宮沢賢治の法華経の精神が生きているというふうに言っていたが、そう言われて読んでみると確かに印象に残る。
ついでにそのあとのタイタニック号の沈没で死んだ姉弟の、姉のほうがカムパネルラと仲良くするのを不快に思うジョバンニも印象に残った。
このような、誰でも経験はあるけれどあえて文字に残せなかった思いを残している宮沢賢治はすばらしい。
誰か仲の良い人と仲良く話しているときに、別の人間がやってきたことを邪魔に思って、どっかに行って欲しいと思うことは誰でも経験することだと思う。

「セロ弾きのゴーシュ」
ゴーシュは心やさしい青年で、動物たちにもやさしい、というような印象だったけれど、ぜんぜんそんなことはなくて、自分が楽団で指揮者に怒鳴られたのでその腹いせに動物たちを乱暴に扱う。
宮沢賢治本人の聖人の印象のせいで、登場人物もそのような人たちかと錯覚してしまうのだが、そんなことはない。

「ビジテリアン大祭」
案外おもしろかった。
一人称の語りというのが宮沢賢治には珍しい気がした。ベジタリアンとそうでない人たちとの論争だが、最終的にはみんなベジタリアンになってしまうところがすごい。そんなわけないだろ、と思う。
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