ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

太宰治「正義と微笑」

2014年11月16日 22時32分34秒 | 文学
太宰治「正義と微笑」(新潮文庫『パンドラの匣』所収)読了。
日記ばかり読んでいたので日記形式のこの小説もあまり違和感なく読んだ。しかし、日記のように読めたかというと、やはり小説のように読んだ。
日記というのは書いている時点ではそのあとに何が起きるかわからずに書いている。そしてそのあとに起きる出来事につなげようとして書くことはしていない。その日その日で書いている。
そこが小説「正義と微笑」とは違うように思った。
まあ、当たり前のことなのだが、やはり太宰治が小説にしているのだ。
主人公の芹川進が『夜明け前』や『ジャンクリストフ』や『小僧の神様』を読んでいるので、私もいっしょに読みたくなる。これは私の病だ。本の中で登場人物の読んでいる本に異常に興味を持ってしまう。
それにしても太宰治の小説には志賀直哉がよく登場する。
『津軽』にも名前は出していないが、志賀直哉らしき作家の小説が登場する。
コメント

フローベールも捨てた。

2014年11月15日 01時18分52秒 | 文学
昨日の続きなのだが、フローベールも捨てた。
『ボヴァリー夫人』も『感情教育』も捨てた。
『感情教育』(岩波文庫)などは読まずに捨てた。たしか大江健三郎の『懐かしい年への手紙』を読んだときに「感情教育(エデュカシオン・サンチマンタール)」という章があり、それで復刊した岩波文庫を買っておいたような気がする。そのまんま読まれないまま黄色くなって捨てられてしまった。
なくなってしまうと読みたくなってくるもので、ちょうど光文社古典新訳文庫から出ている『感情教育』を読もうかなという気持ちになっている。
この小説は主人公と彼を取り巻く四人の女性の物語のようだ。
村上春樹の『遠い太鼓』ではこの小説を読んでいるという記述があった。持っていた『感情教育』を読んでしまってほかに読む本がない、というような書かれ方だったと思う。
主人公と彼を取り巻く四人の女性の物語というところで、村上春樹の『国境の南、太陽の西』への影響があるのかもしれない、とも思う。
これは単なる思い付き。
コメント

村上春樹を捨てる。夏目漱石も捨てる。

2014年11月14日 00時07分58秒 | 文学
村上春樹の『遠い太鼓』を読んで、久しぶりに『ダンス・ダンス・ダンス』を読もうかと思ったら、うちにある文庫本は紙が黄色くなってしまっていて、触るのも嫌な状態になっていた。
どうせこの本ではもう読まないので捨てることにする。
古本屋に持っていけばいくらかにはなるのだろうが、自分が触りたくない本を他人に読ませようとするのはいかがなものかと思うし、売ってしまって金さえもらえば自分はそのあとのことは知らないよというのもあまり大人として褒められた態度ではないと思うので、捨てました。
ついでに『風の歌を聴け』も『1973年のピンボール』も『羊をめぐる冒険』も『国境の南、太陽の西』も捨てた。
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』もだいぶ古くなっていたが、まだ読めそうだったのでこれは捨てなかった。
講談社文庫と新潮文庫だと新潮文庫のほうがもちがいいようだ。
ついでに『吾輩は猫である』や『明暗』などの夏目漱石の岩波文庫で持っているものも捨てた。
岩波文庫も案外もちが悪い。すぐに黄色くなる。
私は最近どこでも出ている本であれば新潮文庫を買うようにしている。
まあ、もちが悪いとは言ってもいずれも二十年近く経過しているのだけれど。

村上春樹も夏目漱石もそのうち読み直すときに買いなおそう。
村上春樹や夏目漱石はおそらく私が死ぬまで文庫本を本屋で買うことができるだろうからこんなふうに捨てることができるが、そうじゃない作家の本は困る。
デュラスの『愛人』やモーパッサンの『脂肪のかたまり』なんかも捨てたが、読みたいときにはもう手に入らないかもしれない。
まあいいか。そのとき本屋に売っている本を読めば。

いまは太宰治「正義と微笑」を読んでいる。新潮文庫。
コメント

村上春樹『遠い太鼓』

2014年11月12日 23時57分04秒 | 文学
村上春樹『遠い太鼓』(講談社文庫)を読んだ。
ローマには絶対行きたくないなと思った。
『ノルウェイの森』と『ダンス・ダンス・ダンス』を書いている時期の紀行文なので、それらが読みたくなるかと思っていたが、あまり内容に触れていないのでそんな気にはならなかった。
『ノルウェイの森』について、書いた当初自信があったことが伺えた。ドイツ語は大学時代にやっただけで錆びついているという記述があり、確かに動詞の活用などをよく勉強していたねと思った(『ノルウェイの森』のなかでの話)。
『ダンス・ダンス・ダンス』についてはハワイの場面があるという記述があり、「そんなシーンあったっけ」と思ったので確認するために読むくらいかな。誰かの、何かの小説で、左側通行に慣れていたひとが右側通行の国に行って(か、もしくは右側通行に慣れたひとが左側通行の国で)事故に逢い、片腕を失ったというような話があったと思うが、もしかしてそれが『ダンス・ダンス・ダンス』だったろうか。それとも片岡義男かな。
おもしろかったが、長かった。

ちなみに読んだものを並べるとこうなる。

『富士日記』 1964年7月 ~ 1976年9月
『成城だより』 1979年11月 ~ 1980年10月
『成城だよりⅡ』 1982年1月 ~ 1982年12月
『成城だよりⅢ』 1985年1月 ~ 1985年12月
『246』 1986年1月 ~ 1986年9月
『遠い太鼓』 1986年10月 ~ 1989年秋
『日日雑記』 1988年 ~ 1990年(?)

武田百合子の『富士日記』も沢木耕太郎の『246』も村上春樹の『遠い太鼓』も、書き手が四十歳になるときに書いたもので、私自身ももうじき四十歳なので不思議な縁を感じる。
コメント

『246』から『遠い太鼓』

2014年11月09日 22時24分57秒 | 文学
村上春樹の『遠い太鼓』は1986年10月から書かれている。ちょうど沢木耕太郎の『246』の終わった時期から始まっているので興味を惹かれ、読みだした。
村上春樹は、小説はだいたい読んでいるのだが、随筆については読んでいないものも多い。今回読んでみて、意外に正直にいろいろなことを書いているのに少し驚いた。
1987年3月の『ノルウェイの森』脱稿のあたりまで読む。

さて、少し前に何も読む気がしない、何をする気もしない、という時期があり、英語の勉強はそのままやめてしまっているのだが、読書については少しずつ回復してきている。
この後読む予定の本についてまとめると、

・太宰治の長編小説のすべて
・村上春樹の紀行文
・大岡昇平『ある補充兵の戦い』、井伏鱒二『黒い雨』『荻窪風土記』、ドナルド・キーン『日本人の戦争』などで太平洋戦争特集
・『兄 小林秀雄との対話』、『小林秀雄の哲学』で小林秀雄について考える

と、このくらい。
そうこうしているうちに今年も終わりです。
コメント

太宰治『津軽』

2014年11月09日 01時18分49秒 | 文学
太宰治『津軽』(新潮文庫)。
NHKの「ザ・プロファイラー」を見て、久しぶりに太宰治を読みたくなり何冊か購入した。ちくま文庫の全集も持っているが、新潮文庫を買ってみた。
『津軽』はおしまいの印象がいいので、非常におもしろいと思っているのだが、自分の作品からの引用や、郷土の文献からの引用が多い。私は太宰治の初期作品(とりわけ『晩年』)の印象がすこぶる悪く、きちんと読めない。子供が自分の嫌なことを言われると、あーあーと叫びながら両耳を両手でぱかぱか抑えたり離したりして聞こえなくするような、そのような状態になり、読めない。郷土の文献にも興味が持てない。
初期作品と郷土の文献の引用を飛ばしてしまうとおもしろい作品だと思うのだが、そんなふうに読んでも『津軽』が好きと言えるのだろうか。
兄との会話で、
「ええ、でも、何も、津軽の事なんか知らないので」
と言っているところがあり、そのように言いながらもきちんと津軽の歴史を文献から引用して書いているというところに兄への複雑な気持ちがあるのかもしれない。そこに太宰の芸があるような気もする。

鯛を買って新聞紙に包んでリュックに入れて、旅館で三人いるからといって三つに分けなくてもいいよと言ったら五つに分けて出された、という話があるが、嘘じゃないかと思った。
そのように読んでいると、最後の運動会でのたけとの再会も出来すぎているような気がしてくる。
自分の過去作品や郷土の文献のなかに置くことによって、書かれた経験がほんもののように見えるということまで考えたのかもしれない。

やはり最後まで読むと印象は悪くない。
コメント

武田百合子『日日雑記』

2014年11月08日 01時02分49秒 | 文学
武田百合子『日日雑記』(中公文庫)を読んだ。
これは大体が「ある日。」という言葉で始まっていて、『富士日記』のようには日にちも曜日も天気も献立も書いてはいないのだが、雑誌の連載の日付で言うと、1988年6月から1991年4月までマリ・クレールに掲載された。
これまで読んだものと並べると、

『富士日記』 1964年7月 ~ 1976年9月
『成城だより』 1979年11月 ~ 1980年10月
『成城だよりⅡ』 1982年1月 ~ 1982年12月
『成城だよりⅢ』 1985年1月 ~ 1985年12月
『246』 1986年1月 ~ 1986年9月
『日日雑記』 1988年 ~ 1990年(?)

となる。
並べて何が楽しいかと言われるかもしれないが楽しい。
『日日雑記』では特に昭和の終りを振り返ることができた。
深沢七郎が死に、飼い猫の玉が死に、大岡昇平が死に、そして天皇が死ぬ。武田百合子の天皇に対する表現は『富士日記』でもそうだったが非常に興味深い。
近所の会社寮の管理人のAさんというひとがたびたび登場するのだが、書名をよく間違える。大岡昇平から本をもらうのだが、その書名を『一補充兵の……』と言う。『ある補充兵の戦い』のことだろう。また深沢七郎の代表作は「ナラヤマセツコウ」と言う。
武田百合子が映画館で松本清張原作の映画を毎日二本見ているときがあり、松本清張は大衆の心を捉えた偉大な作家なのだと思った。あとから見て松本清張を馬鹿にしてはいけないなと思った。時代を代表するものには畏敬の念を持って接する必要がある。もう私は松本清張を馬鹿にしない。
コメント

沢木耕太郎『246』

2014年11月06日 23時55分32秒 | 文学
沢木耕太郎『246』(新潮文庫)を読んだ。
少し前に「沢木耕太郎vs堀江敏幸」という題で書いたことがあるが、なんとこの文庫の解説を堀江敏幸が書いている。驚きだ。
二人にはなにかつながりがあるのだろうか。
私が書いたのは、本屋でどっちを読もうか迷ったというだけの話なのだが。

この日記を書いている当時沢木耕太郎には二歳の娘がいて、彼自身は四十歳になる直前で、状況が私とまったく同じなので、お膳立てが整いすぎているなと思いながら読んだ。
二歳の娘を連れて母親なしで三泊も旅行できないなとか、昔はチャイルドシートもシートベルトもなかったなとか(シートベルトはあったがつけてなかったということです)、そのようなことを考えながら読んだ。
子供の話し方はうちの娘とまったくいっしょで、三十年では幼児の話し方に劇的な変化はないようだ。
このあと沢木耕太郎の娘は、夢を見たことを語り(三歳と二か月)、「おとーしゃん」が「おとーさん」になった(三歳と三か月)らしい。うちでも同様の変化があるのだろう。育児本としても読めた。
休みを自分で決められて羨ましいなと思った。
なにがどうということもない本だが楽しく読めた。
書いてある本や映画にもっと興味を持つかと思ったがそんなこともなかった。時間的な余裕があまりなくなっているせいもあるが、本や映画に昔ほどの興味がなくなっているのだろう。だから日記が読めるのかもしれない。書かれていることの逐一に興味を持っていたら他人の日記なんか読めやしない。一日読んだらまた次の日を読むということができる必要がある。

大岡昇平らの世代には太平洋戦争があり、沢木耕太郎らの世代には連合赤軍事件がある。僕らの世代にはなにがあるのだろう。何もないのではないかということを感じる。
コメント

日記づくし

2014年11月05日 23時53分10秒 | 文学
武田百合子『富士日記』、大岡昇平『成城だより』と来て、いまは沢木耕太郎『246』を読んでいる。
日記に書かれた日付としては以下となる。

『富士日記』 1964年7月 ~ 1976年9月
『成城だより』 1979年11月 ~ 1980年10月
『成城だよりⅡ』 1982年1月 ~ 1982年12月
『成城だよりⅢ』 1985年1月 ~ 1985年12月
『246』 1986年1月 ~ 1986年9月

このまま日記だけを読んで、80年代から現在までを振り返りたいものだ。
大岡昇平の『成城だより』と書いている時期が接しているので、よく似た話も出てくる。ロス疑惑はこの時期だったのだなと思う。
日野啓三の『夢の島』も出てくる。

沢木耕太郎を読むのはこれでたぶん五冊目となるので、そろそろ代表作『深夜特急』を読んでも、途中で挫折することなく読み終えられるのだろうと思うけれど、新潮文庫の字が小さいのでもう少し待ってみることにする。買った途端に字も大きくカバーも新しくなった新装版が出るといやなので。

これを読んでしまうともう日記らしきもので読みたいものはあまりない。武田百合子『日日雑記』を読んで、あとは伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』くらいか。しかしどちらも日記というよりはエッセイ。深沢七郎に『言わなければよかったのに日記』というのがあるがこれもエッセイのようだ。「日記」というのであればやはり日付は付けていただかないと困る。
本当は伊丹十三の『「お葬式」日記』が読みたい。
コメント

バナナとテレビ

2014年11月04日 02時17分18秒 | 育児
連休で娘(二歳)に食事を作る機会があるが、これは修行だと思う。
手間をかけても食べず、「バナナのほうがいい」の一言で却下される。で、嬉しそうにバナナを食べる。バナナ、木からもいで皮をむいで食べるだけの、甘くて黄色い果物。
なにごともそうだと思うのだが、例えば作家が本を作るときに、適当な仕事を一つでもしておくと、たまたまその一つを初めて手に取った読者の印象はその一作で決まってしまう。で、二度とその作家の作品には手を出さない。そういうことがあると思う。なのでいつもある程度の仕事をしておくべきなのだと思う。
子供がたまたま「なんだこれ?」と思って口にするときのために、食事をちゃんと作り続ける必要があるのだなと、子育てはつらい修行なのだな、そのようなことを感じた。

ドラマ「ごめんね青春!」第四話。クドカンらしくなってきて非常におもしろい。
人物の心理的な統一感とか、物語のリアリティとかは、実は話がおもしろいかどうかには全然関係のないことなんじゃないかなとすら感じさせる。満島ひかりのことがだんだん好きになる。
「蒲田行進曲」のメンバーを揃えるのだろうか。松坂慶子は登場するのだろうか。
斉藤由貴が「カラオケ」と叫んだ時は、何か歌うのかと期待した。じぇじぇじぇと思った。

ドラマ「昨夜のカレー、明日のパン」を見ていると、どうしてもアニメ「めぞん一刻」を思い出す。
亡き夫の死を乗り越える未亡人の話というのはなんだか好きだ。なんだか好きだ、と言いながら思い出せるのは「めぞん一刻」だけなのだが。

大河ドラマ「軍師官兵衛」。秀吉がひどい。早く死ねばいいのにと思う。
次回は寺尾聰(徳川家康)の右目がついに開く?
コメント