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大江健三郎「身がわり山羊の反撃」「『芽むしり仔撃ち』裁判」

2020年02月19日 22時54分26秒 | 文学
大江健三郎の「身がわり山羊の反撃」と「『芽むしり仔撃ち』裁判」(いずれも講談社『大江健三郎全小説6』所収)を図書館で借りて読む。短篇集『現代伝奇集』(1980年)のうちの二篇で、文庫になっていない。

「身がわり山羊の反撃」
プロフェソール、と何度も何度も語りかけるところが『同時代ゲーム』(1979年)を思わせる。
このころの大江健三郎は南米の話が多い。
四国の小さな村からメキシコにやってきた医師が語り手で、大江健三郎自身を思わせるプロフェソールと彼が呼びかける相手に語る。
何が言いたいのか、どうしたいのかわからず、読むのをやめようかとも思うが、最後まで読ませる。最後まで読んでもよくわからないが、なにかドスンと腹に溜まる感じ。
相手に対する語りかけの熱量?
タイトルの「身がわり山羊」というのは、この語り手が四国の村でちょっと差別された場所に住んでいて洪水で近隣の人と家族が流されひとりだけ生き残り、そもそも自分たちは何かがあったときの犠牲にするために村に存在していたのだと思うところから。

「『芽むしり仔撃ち』裁判」
『芽むしり仔撃ち』はずいぶん昔に読んだが憶えていない。この短篇を読む前に読むべきなのだろうが面倒なので読まない。
それにそれを言うなら、大江健三郎の小説はすべてを年代順に読まなければいけなくなってしまいそうだ。
ヴィエトナム戦争で体の半分を負傷した車椅子の日本人が登場し、「反・弟」と呼ばれる。彼はたぶん『芽むしり仔撃ち』に登場し、そこで「弟」と呼ばれていたということなのだろう。(読んでいないので分からない。)
川に流されて死んだ。そしてそう思っていたら死んでいなくて占領軍と一緒に帰ってきて村人を訴えた、という話になっている。
「反・弟」は話すことが出来なくて、介添人に手で書く文字を通訳して話してもらう。介添人の女性は、「反・弟」の言いたいことも話し、たまに自分の言いたいことも話し、語り手も話し、不思議な会話になっていた。おもしろい。
そのうちに「反・弟」は川で死んだ「弟」ではなくて「兄」のほうだと語り手は気づく。「弟」はやっぱり川で死んでいた。
最後に語り手は自分が『芽むしり仔撃ち』を「兄」の視点で書いた兄を持つ弟であると語る。(何と複雑な。)
大江健三郎の文章が独特で、すごい。
「身がわり山羊の反撃」はプロフェソール、で語りかけるが、こっちは、兄さん、で語りかける。
しかしやはり『芽むしり仔撃ち』を読んでから読むべきものだなと感じた。新潮文庫の『芽むしり仔撃ち』には付録に「『芽むしり仔撃ち』裁判」を付けて欲しい。
トーマス・マンの『マリオと魔術師』について言及され、ファシズムの雰囲気が分かりそうなので読んでみたい。
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