ダブログ宣言!

ひとりでするのがブログなら、
ふたりでするのがダブログ。

☆大江健三郎「取り替え子(チェンジリング)」感想

2009年10月30日 00時39分37秒 | 文学
取り替え子(チェンジリング) (講談社文庫)大江健三郎の「取り替え子(チェンジリング)」(講談社文庫)読了。
古義人の妻の千樫を主人公にした終章は、あまりに文学的すぎてそれほど愉しめなかったけれど、全体としてはとてもおもしろい小説だった。知的で文学的な小説が読みたかったのでぴったしの選択だった。
いつもはあまり読まないのだが、沼野充義の書いている解説も読んでみる。
小説に登場する”アレ”について大変ぼやかして書いているけれど、沼野充義は本当に”アレ”が何なのか分かっているのだろうか。非常に疑わしい。
なぜなら僕には”アレ”が何のことなのかよく分かっていないから。
自分が分かっていないことを人が曖昧に語る時、その人も分かっていないのだろうと考えてしまう。悪い癖だ。

曖昧に書かずに僕に分かったことをここではっきりと書き残しておく。(この小説は三部作の最初であるから、今後のこともあるので。)
吾良の遺したシナリオは二つ存在し、そのひとつはアメリカ人のピーターが吾良ではなくほかの四人の男女と性的なことをおこなって、吾良は何もされずに帰される。もうひとつのシナリオはアメリカ人のピーターがみんなにリンチに遭う(殺されたのかもしれない)。
このどちらか、または両方のことを”アレ”と呼んでいるのだろうか。
それともこれは吾良が書いたシナリオであるので本当に起こったのは別のことで、吾良が曖昧にしたかったアメリカ人のピーターに犯されたというようなことを、”アレ”と呼んでいるのだろうか。
いまのところ考えられるのはそんなところです。
太平洋戦争のあとに日本がアメリカに占領された七年間の終わりごろが話の中心となるのだけれど、そこで日本は向こう側にさらわれて、取り替え子としての別の日本となったというようなことも言いたいのだろうか。そういう日本と吾良が重なる。
そのように文学的にも僕は読んだのでした。

続編の「憂い顔の童子」で加藤典洋が実名で登場する。
これがこの三部作のもっとも惹かれるところであるので楽しみだ。
しかし解説で沼野充義が書くような感じで、間違った解答を書いて先生に叱られた生徒のように加藤典洋のことを見るのは違っていると思う。そのようなとらえかたをよくされているが違うと思う。
大江健三郎ってそんなに偉いの? と思ってしまう。確かに偉いがそんなに特権的に偉いわけじゃなかろうと思う。対等じゃないのかなあ。
これについては続編を読みながら考えてみたい。
コメント