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☆橋本治「いま私たちが考えるべきこと」感想

2007年08月30日 23時10分52秒 | 文学
いま私たちが考えるべきこと図書館で借りた橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」を読み終わる。
読み終わってみれば至極まっとうな結論に着地していた。
固定的な「私たち」を作って同じ立場から同じ発言、同じ主張を繰り返すのではなく、一時的な瞬間的な「私たち」になり、ある場合にはこっちのひとと、ある場合にはあっちの他人と「私たち」を作る、そして「私」でもある、そのような行ったり来たりの柔軟さが必要なのではないか、というところに。
結論だけ書いてしまうと、「あっ、そう、それで?」ではあるが(橋本治的語法)、橋本治の面白さはうだうだだらだら行ったり来たりのらりくらりの論理だと思う。日本の歌謡界で喩えるとさだまさしの歌のようなものか。
疲れるが、また読んでみようかなという気にさせる。
(比喩でさだまさしの歌といったが、僕は彼が歌い始めると即座にチャンネルを変えるので彼の歌を最初から最後まできちんと聞いた記憶がない。なんとなく退屈そうで。だから残念ながらさだまさしの歌を「また聴いてみようかなという気」になったことは一度もない。橋本治と似ていると思ったのは単なるイメージです。実際はどうだか知りません。)
橋本治の本は、「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」と「窯変源氏物語」がうちにあるが、どっちも読んでいない。
「「三島由紀夫」とはなにものだったのか」については、単行本が発売されたときに立ち読みし面白いと思い、文庫になるのを待って買ったが、読む前に三島由紀夫の「豊饒の海」を読んでおいたほうが良いのではないかと思ったのが間違いで、「豊饒の海」4冊を読んだときには身も心もぼろぼろになってしまい、三島なんか二度と読むものかと人生で幾度目かの決心をし、橋本治の本も読んでいない。
いい機会だから読んでみようか。
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☆今後の課題

2007年08月30日 00時36分10秒 | 文学
橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」(新潮文庫)を読んでいる。
最近、橋本治に興味があるのは、結局はこの本を立ち読みしたからだ。
いままで読んだことのない具合に論理が進んでいく。
だらだらだらだら言いながら考えている感じで、きちんとした結論があるわけではなくて、ほんとうに書きながら考えているように見える。
物珍しくて読んでしまう。
しかし疲れる。
自分と他人(もっと大きく言うと国家)ということに最近は多少興味があり、この本を読んでいる。
自分のことを考えるということが、そのまま、自分のことを考える、というふうになるひとと、そうではなくて、自分のことを考えるということが他人のことを考えるというふうになるひとがいるというところから話は進む。
むかしむかし、関川夏央がどこかで(どこでも語っているのかもしれないが)、近代文学(の自分語り)に否定的であるのを読んだときに、「そんな馬鹿な! 自分のことを考えないで何を考えるの!? それを否定して文学なんて成立するのか!」というふうに反発すら憶えたものだが、その後、もっとも大きくはおそらく内田樹の影響で、あまりに自分自分と言うのも違うのかなと思い始めてきた。
単純に年を取ったことの影響かもしれない。

橋本治の本はどのように進んでいくのかほんとうにわからないので、スリリングとも言える。
自分のことを考えることが、他人のことを考えることになってしまう人を肯定するのか否定するのかどっちでもないのか、まだわからない。
私は社会のことを考えるのに、社会は私のことを考えないのは不満だ、という意見には目を開かれた思いがした。ぱっちり。

そういえばこの前、島田雅彦のことを書いてからそのことが引っかかっている。
島田雅彦が村上春樹の悪口を言っているからって、島田雅彦のことを嫌うのは間違っているんじゃないかと。
太宰治が志賀直哉の文句を、明らかに嫉妬も込めて言っているのは良くて、島田雅彦が村上春樹を妬むのがなぜ駄目なんだ。
古いからいいのか、もうどっちも死んでるからいいのか。
フェアじゃないんじゃないか。
そんなことを考えて、そういえば太宰治が現代に生きていたらいまのだれのようであるか想像すると、島田雅彦のようであるのではないかと気付いた。
ニヤケた感じといいなんとなくぴったりだ。太宰治は、いまの時代だったらテレビ出演もしたように思うし。
同時代に生きていると小さく見えて、死んだ人は大きく見えるということはあるだろう。
島田雅彦を見るたびに「あっ、現代の太宰治だ」と思い続けることを今後の大きな課題としよう。(なにゆえ?)

同じような話で、最近ヤクザが事件を起こすのを見るたびに、幕末のサムライってこんなものだったかも、とよく思う。
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