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☆今後の課題

2007年08月30日 00時36分10秒 | 文学
橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」(新潮文庫)を読んでいる。
最近、橋本治に興味があるのは、結局はこの本を立ち読みしたからだ。
いままで読んだことのない具合に論理が進んでいく。
だらだらだらだら言いながら考えている感じで、きちんとした結論があるわけではなくて、ほんとうに書きながら考えているように見える。
物珍しくて読んでしまう。
しかし疲れる。
自分と他人(もっと大きく言うと国家)ということに最近は多少興味があり、この本を読んでいる。
自分のことを考えるということが、そのまま、自分のことを考える、というふうになるひとと、そうではなくて、自分のことを考えるということが他人のことを考えるというふうになるひとがいるというところから話は進む。
むかしむかし、関川夏央がどこかで(どこでも語っているのかもしれないが)、近代文学(の自分語り)に否定的であるのを読んだときに、「そんな馬鹿な! 自分のことを考えないで何を考えるの!? それを否定して文学なんて成立するのか!」というふうに反発すら憶えたものだが、その後、もっとも大きくはおそらく内田樹の影響で、あまりに自分自分と言うのも違うのかなと思い始めてきた。
単純に年を取ったことの影響かもしれない。

橋本治の本はどのように進んでいくのかほんとうにわからないので、スリリングとも言える。
自分のことを考えることが、他人のことを考えることになってしまう人を肯定するのか否定するのかどっちでもないのか、まだわからない。
私は社会のことを考えるのに、社会は私のことを考えないのは不満だ、という意見には目を開かれた思いがした。ぱっちり。

そういえばこの前、島田雅彦のことを書いてからそのことが引っかかっている。
島田雅彦が村上春樹の悪口を言っているからって、島田雅彦のことを嫌うのは間違っているんじゃないかと。
太宰治が志賀直哉の文句を、明らかに嫉妬も込めて言っているのは良くて、島田雅彦が村上春樹を妬むのがなぜ駄目なんだ。
古いからいいのか、もうどっちも死んでるからいいのか。
フェアじゃないんじゃないか。
そんなことを考えて、そういえば太宰治が現代に生きていたらいまのだれのようであるか想像すると、島田雅彦のようであるのではないかと気付いた。
ニヤケた感じといいなんとなくぴったりだ。太宰治は、いまの時代だったらテレビ出演もしたように思うし。
同時代に生きていると小さく見えて、死んだ人は大きく見えるということはあるだろう。
島田雅彦を見るたびに「あっ、現代の太宰治だ」と思い続けることを今後の大きな課題としよう。(なにゆえ?)

同じような話で、最近ヤクザが事件を起こすのを見るたびに、幕末のサムライってこんなものだったかも、とよく思う。
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