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「小学6年、奄美から沖縄へ」~私の履歴書㉑

2020年09月28日 | 「美ら島沖縄大使」便り

       
                (前列中央の稲嶺校長先生の後ろが私~私を含め奄美出身は3人?)

 奄美諸島は人口減少が続き、現在6万人を下回っているようですが、昭和25年には22万人を超える史上最高でした。これは太平洋戦争の終結により、当時満州や韓国、台湾等に移住していた島出身者の帰郷が大きな要因でした。昭和22年、7歳の私も両親、妹と共に大連から奄美に引き揚げて来て、古仁屋小学校に入学しました。
 1945年(昭和20年)本土から分割され沖縄と共に米国民政府の統治下に置かれた奄美大島出身者は本土に渡航することは出来ず、許可なく鹿児島に渡るのは密航者として逮捕されました。山海に囲まれ平地が少なく米作も難しく、漁業以外の産業もなく外地引揚人口増加で貧困に喘ぐこの頃の奄美では、当時米軍統治下の沖縄に大勢、出稼ぎ移住しました。実はこのころ南北朝鮮戦争の勃発を背景に沖縄では米軍の基地建設で空前の人手不足と景気高揚があったのです。私達の出身地の須子茂の伯父、伯母、従兄姉たちも挙って沖縄に出稼ぎに行きました。

 女性達の多くは沖縄のコザ近界で米軍人相手の水商売店に務め、お盆や年末に帰郷する彼女達の華麗な服装に呆然とし“沖縄って凄いナ!”と感じました。
 私の父も昭和25年、沖縄に渡り,2年後に母と私達妹弟も沖縄に呼ばれ、安里(後の安謝)小学6年(2学期)に転校します。ところが1年後の昭和28年,私が中学1年の時、奄美大島が日本復帰し、私達は在琉許可の為、外人登録手続きを義務付けられます。以後私は琉大1年までの8年間、沖縄で暮らすことになります。当時沖縄には清水建設、大林組等の本土の大手建設会社が進出し、基地建設に携わり、これら会ト勤務先は憧れの的でした。父もこの下請け会社で働いていました。ところが、奄美の復帰に伴い、当時沖縄にいた5万?近い奄美出身の半分以上が本土に引き揚げました。
 沖縄ではよく日本による被差別問題が論議されましたが、1953年の奄美復帰から1972年の沖縄復帰までの18年間、沖縄に残った奄美出身者は公職追放、参政権、不動産所有、国費、自費受験禁止
等様々な差別を受けました。私は高校で同級生にそのことを語ったら”僕らはそんな差別をしていないよ!”と言われ、”いや、君らがそんな差別をしているのではなく、そんな制度があるんだ”と反論したら、”だったら、帰ればいいじや!”と冗談半分に言われたことがあります。では、何故私達一家は沖縄に残ったのか!

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