(琉大合格~当時の首里校舎・志喜屋図書館前で)
昭和34年私は那覇高校を卒業し当時の首里城の敷地内にあった琉球大学(法政科)を受験します。当時農学部長を務めていた泉裕巳さんから「辰弥君、法政科現役で一番合格ですよ」と聞いて帰宅した父の顔が忘れられません。この泉裕巳さんは当時琉球政府の副主席を務めていた泉有平さんの子息で、私達と同じ奄美の須子茂出身でした。このお二人は共に鹿児島大農学部卒でした。この泉さんは当時父が経営を委託されていた「南西鉄工場」のオーナーでした。
今思うと学部長とはいえ、この入試情報を良くまあ、遺漏と当時の大学の情報管理の甘さを感じます。私はこの「琉大法政一番合格」を聞き喜びより、”えー!なんで私が!”と驚きました。と言うのは私の高校同期のライバルは当時の沖縄県の国費・自費制度によって、九大、阪大徳島大、信州医大、新潟大医学、東京医科大等々に進学し、この琉大受験はこの国費、自費の落ちこぼれの一面があったのです。琉大に合格者の何人かは翌年、また国費、自費に受験する予備校の一面もありまし、た。私はなんだか「落ちこぼれ組の一番」のような気分になり、授業には出ず翌年の早大受験を目指し、学内の志喜屋図書館で受験勉強ばかりしていたら、結局琉大を一年で辞めることになります。ここで触れた国費、自費制と琉大については次回!
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