”朝吼夕嘆・晴走雨読”

「美ら島沖縄大使」「WeeklyBook&Reviews」「マラソン挑戦」

「早稲田を卒業し、琉球新報社受験!」

2024年08月26日 | 「私の履歴書」
       
     (面接に通った新報東京総局のあった東京八重洲口)
 早稲田卒業の時、予備校同窓で法学部の糸満高出身の井下君から「重田さん、琉球新報東京で採用試験があるようですが、一緒に受けましょうよ!」と誘われ、私は朝日かNHK志望で、沖縄関係への就職志望は全く無く、「試しにまあ、いいか!」と予備試験の積りで彼と一緒に受験しました。当時の東京丸の内の新報東京支社の就職試験場には40人近い受験生満杯の記憶があります。後に私は試験合格と面接通知の連絡を受けましたが、入社意向のない私は面接会場に向かわなかったところ、中野区新山通りの当時下宿の隣の住まいの方から「重田君、電話ですよ!」と呼び出しがありました。当時の私の下宿先には電話がなく、連絡は隣のお宅の電話通話で料金払いでした。呼び出し電話に隣家に駆け付けたところ「重田君か!今皆で面接待っているから!」と連絡を受け、「はい!分かりました」と京王線笹塚駅から新宿で乗換へ、東京駅南口の新報支社に向かって面接を受けました。
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 「早稲田予備校での出会い」

2024年08月26日 | 「美ら島沖縄大使」便り
        
     (共に通った高田馬場の早稲田予備校) 
 早稲田予備校では忘れられない思い出があります。それは糸満高校出身の井下君との出会でした。彼は私より1年後輩でしたが、私と同じ奄美出身の為、同じく当時の沖縄出身高校生にあった国費・自費受験の資格がなく、本土に上京、受験を目指したようです。復帰前沖縄のこの国費・自費制度については後で述べます。彼とは大学受験、就職と様々な出会いと思い出があります。彼が合格した早稲田の法学部に私は不合格、第2志望?の文学部に入学します。学部は違うもの彼とは付き合いが続き、大学受験では敗北?したものの就職試験では逆転?します。




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 「第一志望の法学部不合格!」

2024年08月22日 | 「美ら島沖縄大使」便り
        
 高田馬場の「早稲田予備校」に一年通い、翌年早稲田(法学、文学、教育3学部)と慶応大学(法学部)を受験しますが、結果、文学部と教育学部には合格するものの第一志望の法学部は不合格でガックリ、止むを得ず第2志望の文学部に入学しました。因みに、予備校同期の井下君は法学部に合格します。実はこの年、慶応大学の法学部も受験し一次試験には合格するもの、第2次の面接試験の結果、不合格でした。この時、二人の面接担当教師から沖縄出自や志望動機等々についてしつこく質問されたのが忘れられません。
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「早稲田予備校で英語テストNO1」

2024年08月21日 | 「美ら島沖縄大使」便り
      
 琉大を辞め上京、2浪しつつ高田馬場の「早稲田予備校」通いますが、忘れられない思い出があります。学校での予備試験で私は何度か英語NO1になり賞状を受賞、担当に教師から「重田君、東京外大受けたら!」と勧誘されましたが、私は早大志望で外大を受ける気はなかったです。当時早稲田の総長は八重山出身の大濱さんで、沖縄では早稲田がNO1でした。


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忘れられない「ビル窓拭き」バイト

2024年08月21日 | 「私の履歴書」
     
 琉大を辞め上京、浪人生活しながのアルバイト「オーケストラ楽譜係」以外に忘れられないのが「ビルの窓拭き」バイトでした。これは屋上からロープで吊ったブランコに乗りビルの外部窓を仲間と共に拭く作業ですが、山手線田町駅近辺の清掃した思い出のビルがあります。この運営会社の社長から「重田!給料上げるから社員にならんか!」と勧誘されましたが、私は「いいえ!必ず再受験し合格します」と断り、予備校に通い受験勉強をしました。
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 「浪人しながらのアルバイト(オーケストラ楽譜係?)の思い出」

2024年08月20日 | 「私の履歴書」
                 
 琉大を一年で辞めて上京、中学同期の粟国安彦君が住む中野の新山通りの4畳半下宿に同居、早稲田大学を受験するもの不合格(´;ω;`)
 その後、1年高田馬場の早稲田予備校に通いながら浪人生活に様々な思い出があります。沖縄に住む両親に過分な経済負担を掛けたくないとの思いから、予備校に通いながら様々なアルバイトをしました。忘れられないその一つはオーケストラーの楽譜係?です。これは東京声専(後の昭和音大)に通う粟国君の紹介で、同校所属のオーケストラ―の演奏に伴う楽譜係でした。楽譜係とはヴァイオリン,ヴィオラ,チェロ,フルート,オーボエ,クラリネット,ファゴット,トランペット,トロンボーン,チューバ等々の演奏者の楽譜台の準備作業です。このお陰でオーケストラーの楽器順番を覚え、地方演奏に伴い同行しました。1961年開館の上野の東京文化会館コンサートホールで楽譜係を担当した思い出もあります。
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「両親の墓参」

2024年08月19日 | 「美ら島沖縄大使」便り
      
 連日の猛暑でお盆の墓参が遅れ、18日の日曜、埼玉県北本市の寿命院境内の両親の墓参。私は大学を卒業後、琉球新報東京支社の記者を辞め、当時の総理府・埼玉行政管理庁に勤務時、両親を沖縄から引き取り同居したのが埼玉の北本市でした。当時、埼玉県が北本志市の東間団地を開発、県営一戸住宅販売していたので、これを購入したのが縁です。この北本で両親が相次ぎ逝去、東間団地最寄りの寿命院墓地に埋葬したのが縁でした。
 この寿命院は北本駅から徒歩20分を超す距離で炎暑の中の往復は大変でした。
       

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「琉大一年で辞めて東京へ!」

2024年08月13日 | 「私の履歴書」
         
        〈中野・新山通りで粟国安彦と4畳半同居)
 何故、琉球大学・法政科を一番で合格しながら一年で辞めたか。
それは当時の沖縄は日本復帰が不明で、奄美出身の私には米国留学等の資格が無く、それなら本土留学と上京し、当時中野新山通りの4畳半の下宿アパートにいた安謝中同期の粟国安彦君と同居します。琉大法政科一番合格を自負し、早稲田の法文科を受験しますが2科とも敢え無く不合格で絶望します。この時ほど沖縄と本土の学力差を感じました。
 早稲田構内の合格者表示に自分の名前が見つからず絶望ショック、この日、高田馬場から帰路途中の新宿歌舞伎町のガード下にうづくまったを覚えています。この時通り掛けのネネから“坊や、どうしたの!”と声を掛けられた“のも忘れられません。
 同居の粟国安彦から「あの時、辰弥どうなるんだろう」と心配したと言われたのを覚えています。当時受験に失敗しそのまま素浪人、放浪する何人かの友人がいました。





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「重田君!法政科で一番ですよ!」

2024年08月11日 | 「私の履歴書」
          
       (私が受験した当時の琉大~今の首里城)
 表題は私が那覇高校卒業時、受験した琉球大学「法政科」の合格を言われたことです。これは当時琉大の農学部長の泉裕巳教授から言われたことです。泉農学部長は当時の琉球政府副主席の泉有平さんの御子さんで同じ奄美大島の須子茂出身で私の親戚?でした。
 私は「え!俺が一番!」と喜ぶより、”私が一番の大學にいてもしょうがない!辞めよう”と琉大を中退しました。その理由は当時私の那覇高同期の秀才連は皆、国費自費を受験し本土の国立大学に行き、当時の琉大は国費自費受験に失敗者の翌年再受験する予備校の要素がありました。奄美出身の私は国費自費の受援資格がなく、さらに日本復帰前の当時の琉大は文部省から大学との認定がなかったのです。琉大を卒業した優秀生は毎年米国留学していましたが奄美出身の私にはその資格がなく、言い知れぬ未来封鎖を感じ、一年途中で琉大を中退、翌年鹿児島大と早稲田を受験しますがいずれも失敗、不合格(´;ω;`)東京で浪人、予備校に通います。
      
       (泉琉大農学部長と!)
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 「ようこそ!県出身現役大学生!」

2024年08月10日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                             
 先週、沖縄出身の在京大学生3人が関東沖縄経営者協会に来訪されました。現役の県出身大学生が東京で働く郷土の先輩訪問は珍しく、就職活動か彼ら自身のキャリヤ形成の参考か?そのアクションを評価、就職活動に何がし役に立てばと会社経営の現役時代に著述出版した「沖縄就活塾」(新宿書房)をプレゼントしました
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「神田事務所で関東城岳同窓幹事会」

2024年08月06日 | 「美ら島沖縄大使」便り
        
 8月3日、神田事務所で久々に関東城岳同窓会(大濱多慧子会長」の幹事会が開催されました。「城岳同窓会」とは沖縄の那覇高校の同窓会!「城岳」は“グスクダケ”とも呼ばれ、我が母校の那覇高は楚辺台地から北西に延びるこの丘陵の最寄りあり、そでが縁で“城岳同窓会”と称したのか?この日の参加者は大浜会長と私以外に女性同窓2名に3人の4期先輩の7人!それにしても千葉、横浜から遠路炎暑厭わず神田事務所まで参加の88歳の3先輩の活力には感嘆!これも同窓会ならではの貴重な出会いです!因みに関東の養秀(首里高)同窓会も我が城岳(那覇高)同窓会も会長は女性が務めています。沖縄ならではの女性パワーか!

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「平和の礎」CD

2024年08月05日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                           
 8月1日、神田事務所に埼玉奄美会の藤井会長と関東天城町会の里村会長が来訪され恐縮!お二人が案内御同行の方は金子奈保美さん!金子さんが作詞.作曲されたCDレコード「平和の礎」ご持参でした。「平和の礎」とは沖縄糸満の「平和記念公園」に国籍を問わず、軍人、民間人等20万を超える戦没者の氏名を刻んだ慰霊碑。これは故・大田 沖縄県知事が建設したと言われています。
 奄美出身の金子奈保美さんはこの趣旨に感激し「平和の礎」CDを作詞作曲され、この日持参されました。
                         
                            (生前の大田知事と乾杯!)
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哀悼!西洋史クラスメート西村君!

2024年08月03日 | 「美ら島沖縄大使」便り
                     
                       (奥様を囲み、同期4人で追悼礼拝!)
 早稲田一文西洋史クラスメートの西村勝吉君の逝去報に衝撃を受けました。先日クラスメート3人と八王子の創価学会斎場でおこなわれた葬儀に参列しました。彼は在学時から創価学会員で、卒業後は創価高校の教師を務めら、穏やかな人柄でした。
 式場で奥様と弟さんにお悔やみの御挨拶をしました。西村君!安らかに!
      
      (昨年在りし日の西村君~真中)
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「スペシャリストとゼネラリスト」

2024年07月31日 | 「美ら島沖縄大使」便り
       
      (私より25歳年長の天田専務~30年サポート頂きました)
 会社を創業経営して何度か表題コンセプトを認識しました。先に書いた東大卒の創業者はITスペシャリストで、Nonキャリの私はゼネラリスト!特段有能な彼は部下社員には厳しく叱責、その厳しさに社員は次々退社したようです。それに対し、無能な私は「君、頼むよ!」と依頼、委任?しました。有能な彼は顧客の依頼に対してもなかなか妥協せず、自己主張したのに対し、私は難儀な顧客の依頼に対し「はい!分かりました!」と受託しました。
 社員の中でもエリート優秀社員ほど部下に対し「なんだ、辞めろ!俺がやる!」と罵詈雑言、部下が次々と辞めるの対し、ゼネラリスト?な管理者はその部下に「頼む!やってくれ!」と依頼し、気が付けば彼の方が部下育成と組織構築を果たしていました。
ITスキル無能な私は社員に対し「頼む!」と依頼、チャンスを与え、気が付けば社員は増え、売上げは増えていました。
 経営者にとって社員が“この人なら助けてやろうか”と“人から助けて貰う能力”の必要を痛感しました。そうした価値観?からか私は常に私より高学歴?で年長者の社員を中途採用し、支援してもらいました。中でも横浜大卒で上場企業の管理職を歴任された私より25歳年長の天田専務に私は経営サポート頂きました。
 私が関東沖縄経営者協会長時代、会員の社長にはそうした自分より年長の管理職雇用の事例の少なさを見て「人から助けて貰う」我が経営スタイルを自覚しました。

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「プログラムも書けない重田さんがよくまあ!IT会社社長を!」

2024年07月30日 | 「美ら島沖縄大使」便り
        
      (1978年、37歳で創業スタート「サーラ三田ビル」(6階17坪)  
 表題は私が創業30年の(株)日本アドバンスシステムの社長を退任した時、友人から言われた言です。私が独立前務めていたビジネスコンサルト社(ビーコン)には東大卒のエンジニアが多数おり、この内数人が独立創業するのですが、その殆どが倒産、廃業しますが、Nonプログラマーの私が何故30年も継続したのか?
 鹿児島のラサールから東大工学部を経て㈱ユニバックのエンジニアとして活動、私が営業を務めた株式会社ビーコンに転じ独立しますが僅か数年で倒産した彼が私の会社に来て“重田さんの経営継続凄いね!”と嘆息されたのが忘れられません。ITエンジニア・スペシャリストの彼の会社が倒産し、Nonスぺシャリストの私の会社が何故継続したのか?これは会社経営とは何か?を教えてくれます。
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朝吼夕嘆

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