駒台発案者、飯塚力造氏のこと(1)

2022-09-03 00:00:38 | しょうぎ
著作権が切れている文学作品をネット上で公開している「青空文庫」。もともと本人の没後50年でフリーになっていたがTPPに米国を引き込もうとして、現在は70年になっている。例えば、三島由紀夫の作品はすでに公開準備がされていたのに、ずっと先になった。
とはいえ、戦前の文豪の作品はほぼ青空文庫で無料で読める。

作家リストを眺めていると『関根金次郎』が含まれている。13世名人だ。明治時代の将棋界の混迷は12世名人の小野五平が幸か不幸か90歳の長寿を得たことで、関根、坂田、土居といった花形棋士が閉塞状況になっていたことが大きい。1921年の小野五平の没後、同年内にほぼ互選に近い形で13世名人になったのが関根金次郎だった。既に53歳だった。

青空文庫に掲載されている作品は2作(さらに1作準備中)で、その一つが「駒台の発案者」という随筆で、底本の親本は1940年2月、棋道半世紀「博文館」。

随筆の中で「駒台の発案者」とされるのが飯塚力造氏(一説:力蔵)で、出会いは30~40年前の話として書かれているが、色々と調べていると1900年頃に出会ったと考えられる。

随筆の内容は浅いようで深いところがあり、一回でまとめるのが難しい。本当のことが書かれているかもよくわからないので慎重さが必要だが、駒台の話に限れば名人が嘘を書く理由もないので飯塚氏が「駒台の父」ということだろう。それまでは、半紙を四つ折りにしていたそうだ(江戸時代の家元では扇子を拡げて駒台にしていたといわれるが、いずれにしても盤面と駒台の高低差があった)。

関根名人が初めて飯塚氏と会ったのは、馴染みの将棋所の主人、小松三香という人物。将棋は四段。彼の誘いで品川の川島楼という貸座敷へ行って主人の飯塚力造氏と将棋を指すことになる。飲食+ご褒美があるとも言われていた。

ところが飯塚氏はベラボーに強いのである、と関根名人は書いている。途中で小松氏に確認したところ、本当は、ご褒美はもらうのではなく払っていて、代打ちに名人を使おうとしていたらしい。

つまり真剣士のようにも読める。

別名、川崎小僧と呼ばれていた強豪で川崎時代は鼈甲細工をしていたそうで、将棋の強さは名人と半香だったそうだ。1900年頃とすると、名人32歳の指し盛りに半香ということは坂田三吉と同じぐらいとも言える。後にアマ八段になっている。

ここからは推測で書くしかないが、なぜ、駒台を作ったのかというのは、真剣と関係があるのかもしれないと少し思っている。現在の将棋連盟の規則では持駒の置き場所は書かれていない。別に駒台に置かなくても反則ではない。相手が駒を手に握っていても反則勝ちを宣言できない。

実際に9年前に、教え子が、ある全国大会の県代表になった時、会場に応援に行ったのだが、相手が駒を握って見せなかったために負けたことがあった。見えなくても逆算すればわかるはずだが、そんな訓練をしているわけはない。

飯塚氏も相手に「駒握り」され、痛い思いをしたことがあるのではないだろうか。なにしろ、収入がかかっていたわけだ。それに鼈甲細工師ということは駒台を作るなどわけもないだろう。

飯塚氏については、また、稿を改めることにする。


さて、8月20日出題作の解答。








3六の桂は3手目にどちらかの角を成り捨てて竜で追う手を筋っぽくするためのもので、2五歩にしても構わない。


今週の問題。



駒台の上で、出入りがある。

解ったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (蛇塚の坂本)
2022-09-06 20:54:21
最終手〇〇〇の〇〇手詰みとなりました。
桂が、役に立つ
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Unknown (おおた葉一郎)
2022-09-06 20:55:15
坂本様、
正解です。桂の二重利用
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