ホイットフィールド・万次郎友好記念館

2009-05-18 00:00:08 | 歴史
ジョン万次郎の記念館オープン=救助の捕鯨船長宅を修復-米東部

2009年5月8日(金)00:30

【ニューヨーク7日時事】幕末に米国に渡った近代日本の国際派知識人の先駆けで、「ジョン万次郎」の名前で知られる中浜万次郎(1827~98年)の住んでいた米マサチューセッツ州フェアヘーブンの住宅が記念館に改修され、7日オープンした。
 万次郎は土佐藩の漁師の家に生まれ、出漁後に漂流した末、米捕鯨船に助けられた。1843年に米本土の土を踏み、同船のホイットフィールド船長宅に身を寄せながら英語や測量などの教養・技術を学び、帰国後はこれを日本に伝えて日米間の懸け橋となった。

記念館になったのはこの船長宅。聖路加国際病院の日野原重明理事長が中心となって日本内外で募金を集め、老朽化して売りに出されていた同宅を買い取り「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」と名付けた。5月7日は万次郎が船長宅で最初の夜を過ごした日に当たり、日野原氏も参加してオープン祝賀式典が開かれた。


manjiro幕末の日本人(という表現が正しいかどうかは別にして)で、日米両国間で運命を弄ばされた人物と言えば筆頭に来るのが、このジョン・万次郎とアメリカ彦蔵だろう。どちらも乗っていた船が遭難し、万次郎は鳥島に漂着したところを救助される(1841年)。彦蔵は1852年に漂流中に救助。

二人とも米国本土に上陸し、米国市民とともに生活する。彦蔵の方は、うかつにもキリスト教の洗礼を受けてしまったため、日本に戻ることができず、窮余の一策として米国市民として在日の米国公使館員の身分で帰ってくる。

二人とも武士ではなかったことから、日本でその知識を十分に発揮したとは言い切れないが、両者とも日米友好の最初の架け橋になったことは間違いない。日米和親条約よりも、先んじて米国を知っていたわけだ。

今回の「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」の会館にあたっては、日野原先生が募金活動の音頭を取っていたようだが、幸いなことに、まったく知らなかった。

日本は明治維新のあと、どういうわけか米国の制度を取り入れずに、プロシアとかフランスの制度を採用したのだが、仮に当初から親米政権であったら、現在の日本も、そして米国も大きく文化が変わっていっただろう、と思うのである。

その後、米国では西海岸で排日運動が始まり、さらに不幸な方向に歴史は転がっていった。そして、容赦なく原爆投下というところまで進んでいったわけだ。

そういう意味だと、日米間の正式な国交樹立に先立ち友好関係を結んだ、万次郎とホイットフィールド船長の友情の家が博物館となったのであるなら、総理大臣か外務大臣が出席して、スピーチを行うというようなものではなかっただろうか。場所はボストンから南へ車で90分とのこと。

もちろん、万次郎のいたころの米国は、南北戦争前で、黒人奴隷制度が存在していたので、オバマ大統領にすれば、「当時の米国は、現在の米国ではない」というのかもしれないし、万次郎を救助した船が、現在のアメリカが反対している「捕鯨船」であったことが表沙汰になることを恐れたのかもしれない。


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