しばらく前に入手していた藤堂高虎が残した有名な家訓200箇条の紹介に着手してみたい。書き始めない限り、書き終わらないからだ。しかし、なにぶん現代とは常識も違う1600年前後の言葉であるので、どこまで付いていけるか自信はない。わからないものについては、わからないとしておくつもりだ。
1回に10条ずつでも20回になってしまうので、時々、書き進むことにする。 なお、方針としては一条毎に、原文、意訳、勝手な解釈と3点セットにしようと考えている。そして200箇条を全部読んでから第1条を書くのではなく、頭から読みながら書いていくつもりなので、後で、解釈の間違いに気付くこともあるかもしれないが、ご容赦のほどを。
原文は第一条、第二条と連番ではなく、一、・・・ 一、・・・というようにすべて、一(ひとつ)で始まるが、整理の関係で順に1、2、3と連番をふることにする。 そして、正確には「高山公御遺訓」と呼ぶのが正しいのだと思う。伝えるべき読者は、藤堂家の子孫である。秘蔵の家訓がなぜ流出したのかは、よくわからないが、藤堂家の末裔が伊賀上野市に寄贈した書物の中にあったわけだ。
[可為士者常之覚悟之事]
サムライたるべき者、常の覚悟のこと
まず、武士の一般規定である。
第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意
寝室を出る時から、今日は死ぬ番だと心に決めること。そういう覚悟があれば、物に動じない。本来、こうあるべきだ。
この第1条は相当有名であって、これが藤堂家訓の象徴と言われているが、私は異議ありなのだ。彼の人生とはかなり違う。まず、普通の人は、きょう死ぬかもしれない、と考えたら、冷静になったりしない。不安におののくはずだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」は葉隠精神であり、三島由紀夫は「犬死こそ、武士の最高の死」と捉えたが、藤堂高虎は、そんなタイプではなく、主君を次々に乗り換え、失脚の危機には寺院に逃げ込み、部下を奮闘させ戦場でポイントを稼いでいる。逆に、最後の5文字、つまり、「本来、こうあるべき」というところに意味があるのか、あるいは用心深い高虎のこと、将来幕府に200箇条を見つけられた時のための「武士道型カムフラージュ」ではないのだろうか。
第2条 常々諸事に心を附 嗜深き人ハ自然の時手にあへはされはこそ心かけ深き故士の本意をとけたるとのさたにあふ もし不仕合にて手にあはさる時も常に心かけ深き人なれとも不仕合 是非なくと取さたなり 善悪の時外聞をすゝく 是徳にあらすや
常に心配りをし、たしなみの深い人は、いざという戦功があれば、「さすがに心がけがいいから侍の本分を遂げた」と言われ、失敗したときも、「常に心がけのいい人であっても失敗したのは残念」とされる。良しにつけ悪しにつけ、聞こえがいい。是は人徳だ。
「結果がすべてだ!」というのは企業でも、スポーツでも、ギャンブルでもよく聞くことばだが、そうではないのだ、ということなのだろう。実際、結果を生むのは日頃の努力や、合理的思考力の積み重ねで、そういう人のほうが成功率が高いということか(デイトレーダーの話ではない)。
第3条 常に物毎由断に覚たる人ハ自然の時手にあひたるとも犬ののみたるへしといふ又手にあハきる時ハ常に心かけなき人なれは尤嘲をうくる是面目なき事なり
常に油断だらけの人は、戦功があってもたまたまのことであると言われる。失敗したときはあざけりを受け、面目を失う。
第2条の裏返しであるが、実際の戦功も重要だが、他人にどう見られるかということも重要だ、と言っているように思える。このあたりが、嫌われ者の原因なのかもしれない。それと「犬ののみ」というのはどういう意味なのだろうか。
第4条 出陣の時敗軍すると覚悟尤の事なり 勝軍の時ハ不入若負軍の時うろたへ間敷ためなり
戦いの出陣の時には、負ける覚悟をしておくのは当然だ。勝ったときには不必要だが、負けたときにうろたえないためである。
色々な事態を頭に入れておくということか。別の言い方では「想定の範囲内」という。しかし、「負けるかもしれない」と思っておくと、本当に負けたときにうろたえないのだろうか?地震の防災訓練ではないのだから。現代のイメージトレーニング法では、勝ったときの快感だけを想起するように訓練する。
第5条 目に立過る具足万武道具心得あり
目立ち過ぎる、よろいかぶと。よろず武道具には心得がある。
実は、目立ち過ぎるのがいいのか、悪いのか書かれていない。「心得あり」とあるだけだ。しかし、目立つのがいいわけないだろうから、この条では、戦場で目立つ人間は、すぐに「大将」と見分けられ、集中攻撃を受ける可能性があるので、目立つな!ということなのではないだろうか。実戦的である。やはり高虎は小心者だったのだろうか。
第6条 上帯ハ布但前にて結ふへし同下帯布仕立やう有之
上帯の布は前で、結ぶべし、同様に下帯にも仕立て方がある。
よろいかぶとを付けたことがないため、よくわからないが、紐は前で結べということなのだろう。下帯というのは一般にフンドシということなのだろうか?確かに、フンドシが戦闘中に緩むと、みじめな結果になるだろう。
第7条 刀脇指もの前にてすん袋可掛
刀、脇差は前のほうで寸袋(刀の鞘を入れる皮袋)を掛けるべき
要するに、すぐに抜けるようにしておくことだろう。日本の警察はピストルのホルダーは横の方についている。すぐに撃てるように、前につけてないのは、弱気の警官が無闇の発砲しないようにという親切心からだ・
第8条 二重腹帯の事
二重に腹帯をすること。
もしかしてだが、人ではなく馬の腹帯ではなかっただろうか
第9条 大きなる馬あし、
大きな馬に乗ってはいけない。
第5条と同じように、目立ちすぎないようにということではないだろうか。案外、彼が本拠地とする伊賀上野では忍者のような姿の消し方を学んだのかもしれない。
第10条 陣道具柿あし、紺可然色々ありといへ共書付におよはす
戦いの道具で柿色はよくない。紺色がいい。色々あるが、書き付けるほどではない。
一体、なぜ柿色がダメで紺色ならいいのか、理由が書かれていない。おそらく夜討ちを仕掛けるときに、紺色のほうが闇にまぎれるということだろうか。色々あるが、書き付けるほどではない。というわりに、細かいことがずいぶん多く書かれている。
連載第1回終了。
1回に10条ずつでも20回になってしまうので、時々、書き進むことにする。 なお、方針としては一条毎に、原文、意訳、勝手な解釈と3点セットにしようと考えている。そして200箇条を全部読んでから第1条を書くのではなく、頭から読みながら書いていくつもりなので、後で、解釈の間違いに気付くこともあるかもしれないが、ご容赦のほどを。
原文は第一条、第二条と連番ではなく、一、・・・ 一、・・・というようにすべて、一(ひとつ)で始まるが、整理の関係で順に1、2、3と連番をふることにする。 そして、正確には「高山公御遺訓」と呼ぶのが正しいのだと思う。伝えるべき読者は、藤堂家の子孫である。秘蔵の家訓がなぜ流出したのかは、よくわからないが、藤堂家の末裔が伊賀上野市に寄贈した書物の中にあったわけだ。
[可為士者常之覚悟之事]
サムライたるべき者、常の覚悟のこと
まず、武士の一般規定である。
第1条 寝屋を出るより其日を死番と可得心かやうに覚悟極る ゆへに物に動する事なし 是可為本意
寝室を出る時から、今日は死ぬ番だと心に決めること。そういう覚悟があれば、物に動じない。本来、こうあるべきだ。
この第1条は相当有名であって、これが藤堂家訓の象徴と言われているが、私は異議ありなのだ。彼の人生とはかなり違う。まず、普通の人は、きょう死ぬかもしれない、と考えたら、冷静になったりしない。不安におののくはずだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」は葉隠精神であり、三島由紀夫は「犬死こそ、武士の最高の死」と捉えたが、藤堂高虎は、そんなタイプではなく、主君を次々に乗り換え、失脚の危機には寺院に逃げ込み、部下を奮闘させ戦場でポイントを稼いでいる。逆に、最後の5文字、つまり、「本来、こうあるべき」というところに意味があるのか、あるいは用心深い高虎のこと、将来幕府に200箇条を見つけられた時のための「武士道型カムフラージュ」ではないのだろうか。
第2条 常々諸事に心を附 嗜深き人ハ自然の時手にあへはされはこそ心かけ深き故士の本意をとけたるとのさたにあふ もし不仕合にて手にあはさる時も常に心かけ深き人なれとも不仕合 是非なくと取さたなり 善悪の時外聞をすゝく 是徳にあらすや
常に心配りをし、たしなみの深い人は、いざという戦功があれば、「さすがに心がけがいいから侍の本分を遂げた」と言われ、失敗したときも、「常に心がけのいい人であっても失敗したのは残念」とされる。良しにつけ悪しにつけ、聞こえがいい。是は人徳だ。
「結果がすべてだ!」というのは企業でも、スポーツでも、ギャンブルでもよく聞くことばだが、そうではないのだ、ということなのだろう。実際、結果を生むのは日頃の努力や、合理的思考力の積み重ねで、そういう人のほうが成功率が高いということか(デイトレーダーの話ではない)。
第3条 常に物毎由断に覚たる人ハ自然の時手にあひたるとも犬ののみたるへしといふ又手にあハきる時ハ常に心かけなき人なれは尤嘲をうくる是面目なき事なり
常に油断だらけの人は、戦功があってもたまたまのことであると言われる。失敗したときはあざけりを受け、面目を失う。
第2条の裏返しであるが、実際の戦功も重要だが、他人にどう見られるかということも重要だ、と言っているように思える。このあたりが、嫌われ者の原因なのかもしれない。それと「犬ののみ」というのはどういう意味なのだろうか。
第4条 出陣の時敗軍すると覚悟尤の事なり 勝軍の時ハ不入若負軍の時うろたへ間敷ためなり
戦いの出陣の時には、負ける覚悟をしておくのは当然だ。勝ったときには不必要だが、負けたときにうろたえないためである。
色々な事態を頭に入れておくということか。別の言い方では「想定の範囲内」という。しかし、「負けるかもしれない」と思っておくと、本当に負けたときにうろたえないのだろうか?地震の防災訓練ではないのだから。現代のイメージトレーニング法では、勝ったときの快感だけを想起するように訓練する。
第5条 目に立過る具足万武道具心得あり
目立ち過ぎる、よろいかぶと。よろず武道具には心得がある。
実は、目立ち過ぎるのがいいのか、悪いのか書かれていない。「心得あり」とあるだけだ。しかし、目立つのがいいわけないだろうから、この条では、戦場で目立つ人間は、すぐに「大将」と見分けられ、集中攻撃を受ける可能性があるので、目立つな!ということなのではないだろうか。実戦的である。やはり高虎は小心者だったのだろうか。
第6条 上帯ハ布但前にて結ふへし同下帯布仕立やう有之
上帯の布は前で、結ぶべし、同様に下帯にも仕立て方がある。
よろいかぶとを付けたことがないため、よくわからないが、紐は前で結べということなのだろう。下帯というのは一般にフンドシということなのだろうか?確かに、フンドシが戦闘中に緩むと、みじめな結果になるだろう。
第7条 刀脇指もの前にてすん袋可掛
刀、脇差は前のほうで寸袋(刀の鞘を入れる皮袋)を掛けるべき
要するに、すぐに抜けるようにしておくことだろう。日本の警察はピストルのホルダーは横の方についている。すぐに撃てるように、前につけてないのは、弱気の警官が無闇の発砲しないようにという親切心からだ・
第8条 二重腹帯の事
二重に腹帯をすること。
もしかしてだが、人ではなく馬の腹帯ではなかっただろうか
第9条 大きなる馬あし、
大きな馬に乗ってはいけない。
第5条と同じように、目立ちすぎないようにということではないだろうか。案外、彼が本拠地とする伊賀上野では忍者のような姿の消し方を学んだのかもしれない。
第10条 陣道具柿あし、紺可然色々ありといへ共書付におよはす
戦いの道具で柿色はよくない。紺色がいい。色々あるが、書き付けるほどではない。
一体、なぜ柿色がダメで紺色ならいいのか、理由が書かれていない。おそらく夜討ちを仕掛けるときに、紺色のほうが闇にまぎれるということだろうか。色々あるが、書き付けるほどではない。というわりに、細かいことがずいぶん多く書かれている。
連載第1回終了。
逆にスポーツのイメージトレーニングなんて、戦の心得では役に立たないでしょう。命が掛からないスポーツなんて、所詮はお遊び。むしろ防災訓練の方が近いでしょう。
敗北して撤退する際の段取りも決めておけば、死ぬ確立は下がりますから。
どうぞ。なかなか、面白い人物と思います。賛否両論ですが。