神戸凮月堂ミュージアムでゴーフルの歴史を

2017-07-13 00:00:57 | たび
神戸元町の洋菓子の一つが凮月堂(風月堂と表示されることが多い)。代表的なのがゴーフル(GAUFRES)。英語だとワッフルとなるそうだ。凮月堂レストランの隣の隣に立つのが旧館で、ミュージアムになっている。

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神戸凮月堂の母体となるのが吉川家といって、神戸で回漕問屋と旅館を営んでいたそうだ。回漕問屋とは今でいう内航海運業者。多くの船主から船を預かり、船で何かを運びたい人を探して、共通航路ごとに荷物を振り分けて、運送を行う。1770年頃から代々営んでいたのだが、明治になりさっぱりとなったのだろう。明治元年(1868年)に足袋商に転じ、さらに洋服商をはじめる。

しかし、なかなか商運を掴むことかなわず、当時の当主だった吉川市三が、東京に行き、東京の凮月堂に弟子入りし、4年間の修業の末、「のれん」を分けてもらうことになる。

そして昭和2年(1927年)にゴーフルの発売を開始する。以来、ゴーフルは同じ味を続けて、今年がゴーフル誕生90周年であり、明治30年(1897年)の創業からから120年になる。

ところで、調べてみると、神戸凮月堂がのれんを分けてもらった東京の凮月堂だが、これが数奇な歴史を持っている。

まず、1747年に初代小倉喜右衛門が大坂から江戸に下り、大坂屋と商号を決める。初代には子供がいなかったことから、姪の恂を養女に迎え、さらに婿(二代目)を迎えるのだが、この恂は唐津藩水野藩主の側室になり、後の老中である水野忠邦を産む。といって男尊女卑の時代であったことから、男子を産んでもお役御免ということで里に帰っていたわけだ。そして二代目と結婚したわけだ。

ということで、二代目は実力というよりも妻の恂の息子が水野忠邦であるという事実をフル活用して大名家を中心に商圏を広げたそうだ。逆にそのネットワークを生かしたのが、これも有名な松平定信で、御用菓子商の座を与えている。また、凮月というのは定信の雅号(ペンネーム)だったそうだ。どうも日本人は忖度が好きなようだ。

その後、明治になり積極的にのれん分けを進めたため、全国に凮月堂が増えたそうで、その一つが神戸凮月堂ということだそうだ。

しかし京都から分かれて江戸に向かった「とらや」にしても、江戸時代、引越のお許しすらなかなか認められなかったのに、根性あるものだと感心。