このみちをゆこうよ(金子みすゞ童謡集)

2016-07-20 00:00:59 | 書評
詩には叙情詩と叙事詩があると、よくいうが金子みすゞの詩は、どちらにもあてはまらない。

misuzu


また、擬人法という表現方法もあるのだが、彼女の場合、登場する動物や植物、無生物自体が人間と同じ価値観を存することになるため、擬人法という表現ではなく、人間と等価値の存在なのだ。

電報配りという詩では、郵便局員と乗っている自転車と電報の関係がせめぎあいになっていて、むしろ自転車がもっとも輝いているように思える。

80年以上前に亡くなった彼女が本格的に評価されたのは、東日本大震災の時だが、それ以前にも知るものは知るという状態だった。関連のある仙崎や下関を回ったことはあるがこの二つの街にはすでに溶け込んでいる。街の中に詩があふれているわけだ。


 このみちのさきには、

 なにかなにかあろうよ。

 みんなでみんなで行こうよ。

 このみちをゆこうよ。

この詩集の中に、「お墓」に関する作がある。お墓(墓地)の裏に道があってその先に海がある情景だが、お墓と道の間に塀ができてしまい、お墓からは海が見えなくなり、道をあるく子供はいろいろな形の墓石がみえなくなったと、残念がる意味の詩なのだが、生家の仙崎の墓所を訪ねたときのことを思い出してしまった。現在は海と道路の間には家が並んでいるので、塀がなくても彼女の墓からは海は見えないが、没後85年。すでに完全に天界の人となり、少しずつでも売れていく詩集の印税の行方を気にしているのかもしれない。