井伊直弼の墓が暴かれるのか・・

2010-01-27 00:00:29 | 歴史
井伊直弼自体についての考察は、かつて行ったこともあるのだが、もちろん彼は桜田門外の変で水戸藩士に斬られた。

この桜田門外の変についても、その背後の事情について様々な諸説があるのだが、そういう政治的な話じゃなくても、変化球の謎なんかもある。

例えば、井伊家の上屋敷(現在の憲政記念館のあたり)から江戸城までの通勤時間は、およそ5分。水戸藩士は愛宕山に集結してから桜田門に向かうのだから到着まで最低15分はかかる。どうして暗殺がうまくいったのか。答えは、直弼が時間に几帳面だったからだ。毎日、定刻に井伊家の門を出る。私みたいに出社時間やコースがランダムだと、襲撃する方も容易じゃない。

それと、本題に入るが、暗殺され首を持ち去られたものの、その日のうちに首の所在が判明し、首と胴体が縫い合わされ「病気治療中」ということになった。

当時の幕府ナンバー2だったのが安藤信正。彼は療養中の直弼に朝鮮人参を送っている。が、目撃情報は瞬時に江戸中の知るところとなっていて、こんな句も読まれている。

人参で 首をつげとの 御沙汰かな

人参で首をつなげと御使い

iiよく、歴史の本には、その時、安藤が直弼の死を隠した理由として、藩主が討たれた場合、斬られた方も、斬ったほうも、お取り潰しということになっていて、井伊家と水戸徳川家の両家の取り潰しなどできるわけないので、井伊家が生前に家督相続を行ったことにし、また水戸藩士を全部浪人者として斬り捨ててしまおうと考えた、ということになっている。

しかし、もはや、そんな定法など、この時代に完全に失効していただろうとは私の意見。単に、幕府の次の指導体制が決まっていなかったので死亡時刻をごまかして時間稼ぎをしたのに過ぎないだろうと思っている。(多くの独裁国や小渕総理急死の時も同じようなことが行われたとする噂もある)

世田谷の豪徳寺には井伊直弼の立派な墓があるのだが、なぜか墓石は経年の割に傷みがひどく、斬られた直弼の怨念の発現とも言われていた。

そのため、墓地の改修工事が進んでいるのだが、その中で奇妙なことがわかってきたそうだ。

墓石の下、2メートルまで調べたものの、棺が見当たらない、ということだそうだ。棺がなければ遺体がないことになる。そのため、さらに深いところまでレーダーで調べるということになったらしい。

即死だったのは目撃談などからはっきりしているのだろうが、その後の幕府の対応、井伊家の対応など、新しい発見があるのかもしれない。


そして、本件を調べているうちに、わかったのだが、桜田門外の変は3月3日の季節外れの大雪の中で実行されている。桜田門外は雪が血に染まり異様な光景になったのだろうが、その赤く染まった雪は、そのまま領地である彦根に四斗樽で運ばれたそうだ。

hikoneそして、実はその彦根城を私が訪問したのは2005年2月。ちょうど、大雪の日だったのだ。何か言い残したことを聞いてくるべきだったのかもしれない。