「水曜の朝、午前三時」は恋愛小説か?

2007-07-26 00:00:31 | 書評
6f46cc2f.jpg最近、冒険小説と恋愛小説を中心に読んでいるのだが、読んだ後、「ああ良かった」と思う作品に出会う確率は低い。現代はそういう社会なのだろう。一人一人が異なる人生、異なる価値観、そして異なる生涯の結末。

この「水曜の朝、午前三時」は、蓮見圭一2001年の作。文庫本になった時に腹に巻かれた帯には「こんな恋愛小説を待ちこがれていた」とあるのだが、それはいくらなんでも、オーバー過ぎる。「別に、誰も待ってなかった」のだが、作家の「直木賞狙いの一作」か。

ストーリーは恋愛小説にありがちな、「愛欲の深層心理」と「主人公をとりまく複雑な状況」という構造。

45歳の若さで逝った翻訳家で詩人、そしてA級戦犯の孫娘である四条直美が、娘のために遺した4巻のテープ。死を目前にしたがんセンターの病室で吹き込まれた遺言とも言うべきテープに吹き込まれていた内容をおこしたのは、その娘の夫。

舞台は1970年。大阪万博のコンパニオンとして働いていた23歳の直美と、外交官あるいは大学教授として将来を嘱望される理想の恋人、臼井との恋愛。しかし、大きすぎる障壁(白井が在日朝鮮人)が直美の前に立ちはだかり、一方的に臼井に別れを告げる。しかし、逃げるように別の男性と結婚した彼女のもとに“水曜の夜、午前3時”に起きた事件の知らせが届き、消そうとしても消せなかった彼の存在が再び目の前につきつけられる。

それから20年にわたって続く秘密の恋、友情。


まあ、すべてが1970年という年代、そして作品が発表された2001年、そして現在の2007年という時代の変化の中で、あらゆることが感覚的に変わっているのだろう。現在、読んでも感覚をともにしえないストーリーや描写も多い。在日という感覚すら、希薄になっている。「23歳の時に、もしも別れなかったら、今は・・」というような想像も、「その時に結婚しても5年後に離婚していたのではないだろうか」とか妙な現実主義が頭に浮かんでしまう。結婚とか出産というような女性にとっての(男性にとっても)重大イベントの感覚も変わっているのだろう。


ふと思うと、1970年に23歳だった直美がもし存命だったら今年、60歳。つまり団塊世代ということだ。

この小説は、恋愛小説というカテゴリではなく、「団塊世代の青春回顧小説」という筋なのかもしれないと、勝手に想像し、納得してみる。

(ところで今回の参院選では東条英機の孫娘、東条由布子さん(67)が出馬したのだが、小説の主人公である四条直美さんとは、何らかの関係があるのだろうか?あるいは単なる想像上の登場人物ということなのだろうか)

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