三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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雷鳴鎮で 7

2013年04月13日 | 海南島史研究
 程益花さん、許声裕さん、林書松さんから話しを聞かせてもらったあと、3人が証言した雷鳴駐屯日本軍による処刑跡に、王昭成さんに案内してもらいました。
 そこでは、3階建てのビルが建築中でした。そのビルから道路を挟んだ向かい側にちいさな空き地があって、そこに日本軍用の井戸があったとのことでした。
 日本海軍は雷鳴に守備隊を常駐させていました。雷鳴守備隊は、日本海軍舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊に所属していました。
 防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されて『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図(1943年3月1日現在)」には、雷鳴守備隊の日本兵は42人、定安守備隊の日本兵は72人、金鶏嶺守備隊の日本兵は18人と書かれています。
 日本占領下の海南島で教師をしていた日本人教師は、日本海軍海南特務部政務局第3課が設置・運営していた特務部海南師範学校の卒業生でした。海南師範学校については、このブログに2008年9月9日に掲載した「『海南島三省連絡会議決議事項抄録』 6」、2011年7月15日~8月21日、2012年2月5日、2月20日に掲載した「「海南師範学校」(1~16)」をみてください。海南師範学校の関係者が出版した『天涯に陽は昇る 海南島への架け橋』(発行人山本良一、2004年9月)には、雷鳴の日本語教師には、海南師範学校第3期生の中という人がいたと書かれています(163頁)。
                                         佐藤正人
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雷鳴鎮で 6

2013年04月12日 | 海南島史研究
 4月4日、清明節の午後2時すぎ、王昭成さんに案内されて行った雷鳴鎮の古い町並みのなかの家の前で日本占領期のことを話してもらうことができました。

 程益花さん(87歳)は、
   “日本軍の軍営まで、近くの井戸から水を運ぶ仕事をさせられた。女性が10人ほど、交
   代で水を運ばされた。運んだのは軍営の入り口までで、中に入ったことはなかった。姚
   新義という男の子が日本軍の食事をつくらされていた。
    日本軍の軍営の近くで、日本兵が男の人の首を切って殺すのをみたことがある”
と話しました。
 許声裕さん(83歳)は、
   “雷鳴郷に侵入してきた日本軍は、郷の中心に軍営と望楼をつくった。その工事をさせ
   られたのは、近くに住む農民だった。農民は道路工事もさせられた。
    軍営の近くで、日本兵は、抵抗する農民の首をきった。わたしたちは、それを見せら
   れた。日本軍は何回も殺した。全部で10人ほどが殺されたと思う。
    日本軍は、雷鳴に小学校をつくっった。わたしは、その学校に通わされた。日本語、
   数学、音楽、海南語などを習った。「見よ東海の朝あけて……」という歌をいまも覚え
   ている。体育の授業もあった。日本人の教師が日本語や日本の歌を教えた。海南人の教
   師が3~4人いた。そのなかに南曲村の王世炯という教師がいた。王世炯は精神の病気に
   かかって家に帰っていった。
    日本人教師が、30年ほど前に雷鳴にきたことがある。
    日本軍が雷鳴に侵入していた時期に、国民党と共産党は合作して日本軍と戦っていた
   が、親日分子が日本軍といっしょになって村々に入っていって、国民党や共産党に協力
   したと言って村人を殺した”
と話しました。
 林書松さん(80歳)は、
   “子どものとき日本軍がつくった学校で、3か月間、日本語と日本の歌を学んだ。教師は
   日本人だった。名前は覚えていない。
    10歳くらいの子どもだったとき、日本軍が雷鳴の日本軍の望楼のところで村人を殺す
   のを見たことがある。3回くらい見た。
    わたしの両親は、日本軍の仕事をさせられた。そのとき日本兵に殴られたことがあっ
   たようだが、子どものわたしに心配させないように思ったのか、そのことをわたしに話
   すことはなかった。
    日本軍がいなくなったとき、とてもうれしかった”
と話しました。
                                          佐藤正人
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雷鳴鎮で 5

2013年04月11日 | 海南島史研究
 清明節の儀式のあと、その場からすこし離れた南曲村の中心で、王徳金さん(1933年生)に話しを聞かせてもらうことができました。王徳金さんは、つぎのように話しました。
   “子どもだった時、日本軍が村に入ってきて、家を焼き、機関銃で人を撃った。村人3人
   が殺された。その人たちの名前は覚えていない。
    そのあと、日本軍は、雷鳴郷に望楼と軍営を建てた。その工事は、南曲村や近くの村
   の人たちがやらされた。子どもも働かされた。わたしも働かされた。子どもだったので
   力がなかったが、働かないと言われて、しばしば殴られた。
    日本軍は、抗日遊撃隊を探すと言って、しばしば村に来て、家を焼き、発砲し、村人
   を傷つけた。7人が殺された。鶏、鵞鳥、鴨、牛、豚などを奪った。
    抗日遊撃隊に参加した村人がいた。王成祥という人だ。1年ほど前に亡くなった”。
 日本軍の望楼工事で働かされていたときのことを話しているとき、当時のことを思い出して王徳金さんは涙を流していました。

 王徳金さんに話しを聞かせてもらったあと、王昭成さんと雷鳴鎮に向かいました。途中、王成祥さんの家の前を通りました。村道から省道にでる南曲村の入り口の左側の空き地を指して、王昭成さんは、ここに日本軍がつくった日本語学校があったと教えてくれました。
 王昭成さんは、雷鳴鎮内の雷鳴小学校の裏に案内してくれ、“ここで日本軍と抗日部隊が戦闘したことがあった”、と説明してくれました。
 そのあと、日本侵略期のことを知っている人に出会おうとして、雷鳴鎮の古い町並みに行きました。
                                        佐藤正人


 以下は、今年(2013年)1月12日に、搜狐博客に掲載された南曲村にかんする記事です。
 http://coralimiitdm.blog.sohu.com/252111851.html
■发现海南最美乡村——定安有个南曲村
  阳春三月,草长莺飞,是个去郊外踏青的好时节,虽然海南岛已是夏天,但这个季节出去走走看看总还是让人心情愉悦的。周末有机会参加了南海网阳光岛社区主办的“发现海南乡村之美”的考察采风活动,一起来到海口后花园——定安,走进雷鸣镇南曲村感受一个环境优美、民风淳朴的红色生态乡村的别样风景。
  说起南曲村,大概外地人知道的不太多,但若说起冯白驹将军应该无人不知了,当年琼崖纵队“23年红旗不倒”的故事也是家喻户晓,而抗战时期冯白驹将军就曾经进驻南曲村开展宣传抗日工作,在南曲村石禄山留下不少遗迹,南曲村也因此有了“红色历史文化生态古村”的美誉,今天有幸走进这个有着几百年历史的红色文化生态古村,感受了南曲村独特之美。
  我也算个“新定安人”,年初从海口迁居定安塔岭新区,就因为喜欢定安优美的生态环境和深厚的历史文化,工作虽然还是在海口,但大部分居住定安。由于是个新定安人,对定安还不是很熟悉,对南曲村也只是略有耳闻而没有去过,所以走进南曲村的新鲜感和其他网友一样。
  若论知名度南曲村不及海南四大历史名村,更无法和国内闻名的婺源乡村、南溪江古村落等著名乡村相提并论,但尚不广为人知的南曲村却也有着自己独特的魅力,虽然还算不上藏世之美,但当我们走进她的时候,却也惊叹在海南岛上离我们并不远的地方有一个让你流连忘返的村庄。
  说来天公也作美,昨夜的雨洗去了连日来的暑热,在凉爽的晨风中南海网阳光岛社区近30名网友考察采风团走进了定安城郊的雷鸣镇南曲村,在抵达村口的时刻,热情淳朴的村民和定安县、雷鸣镇、南曲村相关领导早已在村路两旁迎接我们的到来,在锣鼓和鞭炮声中网友们开始了南曲村寻美之旅。
★南曲村抗战遗址。红色文化书写抗战历史丰碑
  冯白驹将军抗战驻地遗址位于南曲村石禄山,这里除了当年冯白驹将军抗战遗址外,还有1945年国民政府为纪念抗战时期南曲村国民党抗日游击队树立的“为国牺牲”纪念碑,陪同采风的定安县史志办崔主任和退休后回南曲村的王昭成老局长介绍,1941年4月,琼崖特委书记冯白驹率领12人来到定安县南鸣乡南曲村宣传抗日工作,被南曲村民安排居住在村庄北部石禄山五户乡亲家,虽然冯白驹仅在南曲村宣传抗日工作仅14天,但抗日星火却已在南曲村呈燎原之势。
  南曲村抗日游击队和日军发生数次战斗,南曲村抗日游击队大队长王志发也抗战中牺牲,当时的国民政府为此立碑纪念,碑石保存完好,碑上刻有两位国民党将军的题词;现年90岁高龄的陈定家老人是当年的抗日游击队队员之一也是唯一还健在的队员,他向网友们讲述当年亲历的抗日战斗场景;身体健朗的93岁王世积老人是村里最会讲故事的老人,他也为网友讲述了发生在南曲村多次抗日战斗故事。
  2011年1月,中央电视台《琼崖纵队》摄制组到南曲村拍摄了冯白驹将军抗战驻地遗址,通过屏幕更多的人开始了解了南曲村红色历史文化。
  据悉,南曲村也正在规划打造红色文化生态村,发展乡村旅游,如果你想了解更多南曲村抗战故事不妨来南曲村走走吧。
★民间艺人彰显乡村文化魅力
  如果说听老人讲述抗战历史让我们沉浸在那久远的烽火岁月,那么去看南曲村优美的原生态的环境和民俗文化则让网友们感受到南曲村的特色魅力。
  乡间田野举目可见的是挺拔的椰子树和数不尽的热带花草树木,南曲村有着南国乡村特有田园风光,漫步其间,使人忘却繁华都市的喧嚣和嘈杂,这里仿佛是一处能让人放松身心感受自然的郊外桃源。
  而在南曲村一处村民活动中心,一位自拉自唱的老人琼剧表演赢得了网友无数次掌声,他就是南曲村大名鼎鼎的“民间艺人”王志文老人,曾在海南省一次大赛中获过一等奖,老人投入的表演让许多听不懂琼剧的网友也津津有味的听着不愿离去,大概这便是民间艺术的魅力吧。
  定安是中国琼剧之乡,南曲村也有不少民间琼剧艺人,发掘民间文化是南曲村创建生态文化村优势之一。
★百岁老人的幸福晚年生活
  海南人长寿全国闻名,之所以海南人长寿得益于没有被污染的生态环境,海南因此有不少长寿村或长寿之乡。
  南曲村有一位101岁的老人黄玉莲,也是村里最年长的寿星,老人已是六世同堂,我们去看望老人时,正好老人和77岁的儿媳在一起,在和网友交流时,儿媳一句发自内心的朴实话语让许多网友感动:“我妈年纪大了,我是儿媳妇要照顾好我妈”,看到老人幸福的晚年生活,我想幸福有时很简单,不一定要很富有,幸福就在平平凡凡的生活中体现出来的。
★太极养生生活乐逍遥
  据王昭成老局长介绍,南曲村全村八个队有常住人口1960人,外出人口500人,算是一个比较大的自然村,村里自然生态环境好,没有污染,没有天生残疾人,80岁以上老人27人,90岁以上有7人,百岁老人1人。
  离开南曲村返程前老局长带我们去看望一位80岁喜欢打太极的老人,在一处树林掩映的老屋前,王金老人和两个儿子为大家表演了太极拳,在老人一招一势中可以感受到了老人太极养生的乐观豁达,老人说练太极已有几年时间了,是和大儿子学的,现在每天都打太极,老人以前和儿子去海口生活过一段时间,后来还是回南曲村居住,老人喜欢村子里安静的生活,而且日子过得也逍遥。
  短短的一天时间,或许我们还没有来得及深入体会南曲村之美的,但所见所闻也足以让网友感受到一个村庄的独特魅力,或许并不惊艳,但也自有其美丽之处。离开南曲村的时候,我在想什么时候再去南曲村?
  中国有个海南岛,定安有个南曲村,如果你有空的话,周末到南曲村去走走看看,会让你有所收获的。
  南曲村的农家特色美食让网友大饱口福。
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雷鳴鎮で 4

2013年04月10日 | 海南島史研究
 4月4日10時過ぎに、王昭成さんといっしょに二つの碑のある場所に着いたとき、そこに南曲村の人が5人ほど待っていました。
 すぐに、清明節の儀式の準備が始められました。
 二つの碑のまえにたくさんの花と供物が置かれ、近くの榕樹に長い爆竹が吊り下げられた。赤地に黄色で「清明寄哀思 献花悼英雄」、「継承英烈優良伝統」、「弘揚瓊崖革命精神」とかかれた幕が掲げられました。
 10時半ころまでに、村人が50人ほどあつまり、みんなで二つの碑に向かって礼拝しました。
 国民党軍の抗日闘争と共産党軍の抗日闘争を記念する碑に、村人がそろって清明節に礼拝するのは、南曲村以外では、ほとんどないことだろうと思います。海南島だけでなく、中国本土でも珍しいことではないかと思います。
                                       佐藤正人
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雷鳴鎮で 3

2013年04月09日 | 海南島史研究
 まもなく着いた王昭成さんに、わたしたちは、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会のこれまでの運動の内容を話しました。
 王昭成さんは南曲村の出身で、退職後、南曲村の“名誉の村長”と呼ばれている人でした。
 ふたつの碑の前で、王昭成さんはつぎのように話してくれました。

   「この“雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑”の正面の「為国犠牲」という文字は、国民党
   広東省第9区行政監督専門員兼保安司令官(陸軍中将)だった丘岳宋が書いたものだ。
    背面の碑文には国民党の瓊崖守備司令官の王毅の署名がある。
    これは、抗日戦争に勝利した後、定安県の雷鳴と富文での抗日戦争の犠牲者を追悼し、
   日本軍に抵抗した軍民の事績を伝えるために、1946年に国民党政府が雷鳴郷の郷公所
   があった雷鳴村に立てたものだ。
    雷鳴と富文での2度の戦闘中に、国民党の将兵17人と抗日志士8人が犠牲になった。そ
   のなかの1人は、定安県遊撃予備第一大隊の隊長王志発だった。かれは南曲村の人だっ
   た。王志発は、1942年の農暦1月に、雷鳴鎮の隣の富文鎮の戦闘のときに戦死した。29歳
   だった。
    1951年の台風の時に、石碑が傾いた。しかし、その後、管理する人がいなかったので、
   南曲村の村民4人が、この高さ2メートル、厚さ10センチの重い石碑を南曲村の王氏の祖
   廟まで担いで運んだ。わたしの父の王広亨もその4人のひとりだった。
    文化大革命のとき、村民は、ひそかにこの石碑を井のそばに置いて踏み石のように
   して隠した。村人は国民党軍の指揮官の題字が刻まれている記念碑が破壊されることの
   ないように守った。
    「馮白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑は、2000年4月に南曲村の村民が建てたものだ。
    その10年後、2010年に、「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵記念碑」が、「馮白駒将軍抗日駐
   地遺址」のそばに建てられた。
    1941年の前半に、馮白駒将軍が指揮する瓊崖抗日独立総隊の10数名の戦士が南曲村
   の居禄山に来て、日本軍への抵抗をよびかけ、5件の家に分かれて14日間滞在した。「馮
   白駒将軍抗日駐地遺址」という石碑はそのことを記念する碑だ。
    宿泊した李家の人に感謝するため、馮白駒将軍は、出発が迫ったときに1枚の自分の肖
   像画を贈った。馮白駒将軍が当時泊まった家はすでに崩れ落ちているが、基礎だけは残
   っている。この肖像画は抗日戦争と解放戦争と文化大革命を経て秘蔵されてきた。
    2011年1月7日に、馮白駒の娘の馮尔超と馮尔曾が父のとどまったことがある南曲村を
   訪ねて李氏の息子の王世春さんに会った。このとき82歳になっていた王世春さんは、馮
   白駒将軍の肖像画を寄贈した」。
                                        佐藤正人

  以下は、南曲村のふたつの碑(国民党将领题写的抗日纪念碑、冯白驹抗日遗址纪念碑)についての2011年7月8日の『海南日報』の記事です。
  http://hnrb.hinews.cn/html/2011-07/08/content_375517.htm
■定安南曲村:两块纪念碑并肩伫立
  在定安县雷鸣镇南曲村,大榕树下两块纪念碑并肩伫立。
  两块石碑立于不同年代,分别为纪念共产党和国民党的抗日活动。国难当头,大家都回归到最简单的身份———中国人。
  一块较新的石碑立于2000年,碑上写着“冯白驹将军抗日驻地遗址”,由雷鸣镇南曲村村民所立。
  1941年,冯白驹带领琼崖抗日独立总队部分队伍来到这里,宣传抗日理论,动员群众参加抗日,在现在的抗日驻地遗址住了14天。
  为了感谢老房东一家的支持和照顾,冯白驹在临行前送了一幅自己的画像给房东李氏作为留念。虽然冯白驹当年所住房屋已经坍塌,只剩地基,但这幅画像历经抗日战争和解放战争,历经“文化大革命”,老房东两代人一直都舍命珍藏。
  70年后,在2011年1月7日,当冯白驹的女儿冯尔超和冯尔曾来到父亲曾停留过的南曲村时,见到了老房东李氏的儿子王世春。已经82岁的王世春老人贴身拿出用红布仔细包裹的纸卷送给冯尔超,姐妹俩用颤抖的双手共同打开这个纸卷时,看到了父亲冯白驹熟悉的面容。此刻,王世春老人放声大哭,在场的人无不动容。
  另一块石碑为“雷鸣乡抗倭殉国忠烈官兵纪念碑”。正面是由国民党广东省第九区行政督察专员兼保安司令丘岳宋题写的“为国牺牲”四个大字,后面的碑文由国民党琼崖守备司令王毅撰写。
  这块石碑是抗日战争胜利后,国民党政府为纪念在定安县雷鸣、宾文两地发生的军民抗日事迹,于1946年立。在两次战斗中,共有17名国民党官兵以及8位抗日志士牺牲,其中定安县游击后备第一大队队长王志发就是南曲村人。
  定安县退休干部王昭成,被称为南曲村“名誉村长”,他说:“这块石碑能历经解放战争、“文化大革命”而丝毫没有毁坏,与南曲村民的保护密不可分。”
  石碑原本立于国民党时期雷鸣乡乡公所所在地雷鸣村。1951年在一次台风之后,石碑被吹得倾斜,南曲村的4个村民作出一个惊人举动,他们将这座高逾2米、10厘米厚的石碑抬回南曲村中,王昭成的父亲王广亨也参与其中。
  为什么要将石碑抬回南曲村?王昭成说,石碑被吹歪后,一直无人管理,南曲村民认为这石碑纪念的是本村的人,大家有责任将石碑好好保存,于是就将其抬回村中,放在王氏宗祠里。
  文革开始后,村民偷偷把这块石碑放在水井边,暂时充当垫脚石。村中人默契地保守着这块石碑的秘密,没有人提议将这块国民党将领题字的纪念碑挖出来毁掉。
  2005年,抗日战争胜利60周年,王昭成与村民交谈时,唤起南曲村民参加抗日的历史记忆。大家提到这块埋于井边的石碑,王昭成认为这个碑不寻常,于是他找到定安县委党史研究室,道出了他的见解。经党史部门考证后确定,这是迄今为止琼崖国民党当局为抗日捐躯者竖立的最大的一块纪念碑。
  2010年,王昭成提议将这块石碑放置到冯白驹抗日驻地遗址,建起南曲村抗日纪念园。对于这个创意,王昭成颇有些骄傲,他说:“作为一个中国人,有必要将抗日战争时期不屈的抗战精神传承下去,让后人铭记只有民族团结才能打败侵略者。” (本报定城7月7日电)  本报记者 丁静
  【相片】定安县雷鸣镇南曲村的两块抗日纪念碑。 本报记者 王凯 摄


  以下は、以下は、南曲村の「馮白駒將軍抗日駐地遺址」にかんする 中国新聞海南網版 (來源:『南國都市報』)の2012年3月20日の記事です。
  http://big5.chinanews.com:89/gate/big5/www.hi.chinanews.com/travel/content/2012-03-20/9052.html
■海南定安:馮白駒故居成廢墟 村民盼對其修繕
  在定安縣雷鳴鎮南曲村,長著一棵很高很茂盛的大榕樹,榕樹紮根的地方原本是一間鄉村老式的六柱瓦房,馮白駒將軍在抗日時期曾短暫住過這裡,宣傳抗日理論,動員群眾參加抗日。遺憾的是,因歲月侵蝕,該房屋早已倒塌,如今只剩下斑駁的石塊磚墻,以及墻內外茂盛的野草。
  村民認為,這麼具有紀念意義的地方不能再這麼荒廢下去,希望政府部門能對該房屋進行修繕,將其建成愛國主義教育基地,以此紀念先烈及教育後人。
★馮白駒借住村舍宣傳抗日小房東幫忙放哨喊暗號
  村裏的老人說,這房屋原來是村民王世春和他母親李氏的家。抗日時期,馮白駒將軍率領瓊崖縱隊在母瑞山革命根據地一帶活動。為了發動群眾參加抗日,1941年上旬,馮白駒帶領12名瓊崖縱隊戰士來到南曲村,分別被安排到當地居祿山五戶農家裏住,其中馮白駒同志和另外兩位同志住進了王世春的家裏。
  當時,這些戰士們的生活都由這五家人照顧和支援,村中的王立珪公也發動群眾來籌集錢糧。王世春的母親則負責為馮白駒等三位同志煮飯、燒水、洗衣服。那時的農村很貧困,馮白駒等人剛來時,是吃他們自己帶來的糙米,或者蕃茨、南瓜等雜糧。為了讓同志們能吃上些油、鹽,王世春母親隔些天還會撿些柴火去嶺坡市(今雷鳴圩)賣,換錢買些油鹽或豬肉回來給戰士們改善生活,同時也將打聽到的日本鬼子在雷鳴圩活動的情況告訴馮白駒同志。
  馮白駒則帶領十多名戰士白天多數時間時隱蔽在深山裏,夜深後便分頭出去到附近村莊各家各戶去宣傳黨的抗日方針,發動群眾組織起來打擊日本鬼子。當地的抗日遊擊隊王志發等人也常來同馮白駒研究討論如何去打擊日本鬼子。
  而那時,王世春只有十歲,但也懂得了很多事。“我還記得阿媽常常叫我跑到山口處玩,放哨,見到陌生人或是日本鬼子進村,就邊喊邊走‘山豬來拱番瓜啦,快來趕山豬啰!’”現年已經80余歲的王世春老人回憶起自己幼小時的難忘經歷,似乎仍然歷歷在目。當時遊擊隊員們聽到這大聲叫的暗號,便會快速的分散到深山裏隱蔽,防止被壞人和日本鬼子發現。
  馮白駒等人在村裏住了約十幾天時間,一天,日本鬼子的一架飛機飛在南曲村低空盤旋,同時投下了四個炸彈。估計日本鬼子懷疑這裡有遊擊隊活動,鬼子飛機投彈過後,馮白駒就帶著戰士們于當天夜間離開南曲村。臨走時,馮白駒同志還特別將自己的一幅畫像送給王世春母親留念。
★房屋倒塌多年無人理村民心中留有遺憾
  王世春長大後,于1957年到了中瑞農場當了農工,他母親則于一九七一年病逝。辦完母親的後事,王世春就離家去了中瑞農場工作。打那以後,這房子就一直沒人住,沒幾年,一次刮颱風就把它刮倒了。
  隨著時間流逝,村裏老一輩人也一個個也都陸續離世了,為了把這一段瓊崖革命的紅色記憶流傳下去,村民們在曾任定安縣衛生局長、被稱為南曲村“名譽村長”的王昭成的帶頭募捐下,陸續在大榕樹下的遺址附近立了5塊紀念碑,其中,最醒目的一塊便是“馮白駒將軍抗日駐地”石碑。近些年,每到清明節,鄉親們都按照傳統習俗在這些石碑前點蠟燭、上香、獻花、供水果點心。王昭成還把村裏男女老少召集到大榕樹下,給他們講馮白駒將軍在南曲村從事革命活動的事跡。
  在村民們的努力下,如今,這麼一個革命紀念園地雖然初見雛形,但大家心中一直留有一個遺憾,那就是馮白駒將軍曾經短暫停留過的那間房屋已殘缺不全多年。大家希望,政府有關部門能對把這房屋給修繕起來,把這裡建成愛國主義教育基地,或者把整個南曲村打造成紅色旅遊景點,在對後代進行愛國教育的同時,也能加快革命老區的發展。
  “如果能把這房子重新修起來,還原它以前的面貌,讓現在的年輕人都能看看,感受一下那段革命歷史,那是多麼好的一件事……”提起這事,已年至7旬的王昭成頗為感慨。
  定安縣史志辦主任、副研究員崔開勇也說,作為瓊崖革命這面不倒旗幟的其中一個見證,位於南曲村的馮白駒將軍抗日駐地遺址非常具有歷史紀念及教育意義。對此,縣裏面也比較重視,近幾年,不僅將該遺址列為縣級文物保護單位,還投入40余萬元,支援村民們把連接遺址的800米村道進行硬化。“現在縣裏有意向要把遺址修繕起來,建成愛國主義教育基地,只是這個時間目前還不確定,希望能快點吧。”崔開勇說。

  【相片】榕樹下的紀念碑
  記者胡誠勇實習生吳宛珊攝影報道。 本文作者觀點不代表本社本網立場。


 
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雷鳴鎮で 2

2013年04月08日 | 海南島史研究
 2012年3月に南曲村を訪ねたのは、その前年の秋に海南大学図書館の海南地方文献室で見た海南省定安県地方志編纂委员会編『定安県志』(2007年)で、「為国犠牲」と正面に刻まれ背面に王毅瓊崖守備隊司が書いた800字の碑文が刻まれている「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵紀念碑」が、南曲村にあることを知ったからでした。同書には、この碑は、1946年春に瓊崖国民党軍政当局が雷鳴郷公所の門前に建てたものであり、1950年代のはじめに南曲村の村民が村に運んで保存していると書かれていました。
 2012年3月に、わたしたちがこの碑の前に立っていると、村人が、この碑のことをよく知っている人がいると言って、王昭成さんの電話番号を教えてくれました。すぐに電話すると、海口に住んでいる王昭成さんは、たまたま雷鳴に向かっている途中であり半時間ほどで碑のところに到着するとのことでした。
 王昭成さんが来るまでの間、わたしたちは、その場をくわしくみて歩きました。
 そこは、村道の一角に開かれた200平方メートルほどの草原で、村道から向かって右側に、「為国犠牲」と刻まれた高さ2メートルあまりの石碑が建てられており、そこから7~8メートルほど離れた左側に「馮白駒将軍抗日駐地遺址 雷鳴鎮南曲村居禄山 公元二〇〇〇年四月立」と書かれた同じくらいの大きさの石碑が建てられていました。その左奥には、太く大きな榕樹(ガジュマル)がたっていました。
                                        佐藤正人
 
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雷鳴鎮で 1 

2013年04月07日 | 海南島史研究
 ことしの清明節(「掃墓節」)は、4月4日でした。この日早朝、海口から満員の臨時バスで定安に行き、定安で乗りかえて省道を南下し雷鳴鎮南曲村の入り口につきました。南曲村の入り口の左側には「南曲村」とかかれた石碑が置かれてあり、右側には「雷鳴郷抗倭殉国忠烈官兵紀念碑 馮白駒将軍抗日駐地遺址居禄山  雷鳴鎮南曲村居禄山」と赤地に白字でかかれた案内板が立てられていました。
 わたしたちが、はじめて雷鳴鎮を訪問したのは、2008年10月24日でした(このブログの2008年11月25日の「雷鳴で」をみてください)。
 つぎに雷鳴鎮を訪問したのは、2010年5月23日でした。この日、わたしたちは、許如梅さん(1918年~1943年)と周春雷さんの墓がある雷鳴鎮梅種村を訪ねました。許如梅さんの娘さんの符如来さんといっしょでした(海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号の表紙に、許如梅さんの墓の写真が掲載されています。このブログの2010年5月24日、25日の「18次来瓊調査日軍暴行」1、2、および2010年6月3日、4日の「許如梅さん」1、2、および2010年12月24日の「2010年初夏 海南島と三竈島で」をみてください)。
 きのう(4月6日)海南省図書館ではじめて読むことができた王俊才・王広虎「堅貞不屈 浩気長存――憶周春雷、許如梅同志壮烈犠牲」(定安县委党史研究室編『烽火』1987年7月)には、
   「敵は許如梅の頭を切りとり、続いて周春雷の頭を切って、梁安利に担がせて、雷鳴墟
   まで運ばせ大勢の人にみせた。しかし、梁安利同志は屈服することなく、平然と死に対決
   し、雷鳴墟で英雄的に義のために死んだ」
と書かれてありました。
 1年前の2012年3月18日に、わたしたちは、南曲村をはじめて訪ねました。このとき、王昭成さんと出会いました。
 4月4日には、午前10時に、王昭成さんと南曲村の入り口で落ち合い、そこから1.6キロ離れた南曲村居禄山に向かいました。
                                          佐藤正人
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2013年春、海南島で 13 

2013年04月06日 | 海南島史研究
 きょう(4月6日)、海南省図書館に行き、地方文献閲覧室で、海南島近現代史関係資料を閲読し、主要箇所を複写しました。昨夜、王昭成さんが話していた定安县委党史研究室(定安县地方志办公室)編『烽火』(1987年7月内部出版)も複写できました。同書には、王俊才・王広虎「堅貞不屈 浩気長存――憶周春雷、許如梅同志壮烈犠牲」、呉淑華・陳琳「羊角嶺水晶砿歴劫記」などが掲載されていました(三菱鉱業が労働力と資源を収奪していた羊角嶺の水晶鉱山については、紀州鉱山の真実を明らかにする会編『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』65頁、このブログの2011年5月7日の「海南島の「万人坑」1」、2012年4月21日の「海南島「現地調査」報告 3月21日~25日 4」をみてください。日本侵略期には、羊角嶺は定安県に属していたようです。
 海南省図書館では、海南島近現代史研究会のこれまでの「現地調査」報告などのパネル展示を企画しているとのことでした。
 きのうときょうの夕刻、海口市内の3大書店に行き、海南島近現代史関係書籍を探しました。
 3月25日早朝からはじめた13日間の、紀州鉱山の真実を明らかにする会として23回目、海南島近現代史研究会として10回目の海南島「現地調査」を、きょう午後9時に終えました。
 次回の海南島「現地調査」は、ことし10月におこなう予定です。
                                         佐藤正人
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2013年春、海南島で 12 

2013年04月05日 | 海南島史研究
 きょう(4月5日)、海口市博物館がこれまで収集してきた日本侵略期の文献を閲覧し、主要箇所を撮影させてもらいました。
 海口市博物館は昨年7月から特別展「日本侵占海南期間文物史料展」を開催していますが、張建平館長は、今後、これを常設展とし、展示内容を更新していくことにしたと話しました。
 「日本侵占海南期間文物史料展」については、このブログの2012年10月17日の「ことし秋の海南島「現地調査」8」をみてください。昨年10月30日に海南島近現代史研究会が海口市博物館を訪問したときのことについては、このブログの2012年11月16日の「日本学者22次来瓊尋找侵華罪証」、および11月21日の「日韓学者来瓊調査日軍侵瓊史」をみてください。
                                         佐藤正人
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2013年春、海南島で 11 

2013年04月04日 | 海南島史研究
 きょう(4月4日)、定安県雷鳴鎮を訪ねました。
                                         佐藤正人
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