三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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保平村で 1

2013年04月18日 | 海南島史研究
 3月26日早朝、わたしたちは、東方市内を発って、昌化江北岸(右岸)の下流域の村むらを訪ねました。昌化江河口の最大の中洲全域が旦場村です。旦場村を含むこの地域における日本軍・日本企業の侵略犯罪の実態をすこしでも詳しく「調査」するのが主目的でした。
 はじめに、昌江黎族自治県十月田鎮保平村を訪ねました。                       
 中国人民政治協商会議海南省昌江県委員会文史資料組織編『昌江文史』第五輯(1993年5月)に、陳国文「日寇侵保平村的情況簡介」が掲載されています。
 わたしたちが、はじめて保平村を訪ねたのは、2年前の2010年5月27日でした(このブログの2010年6月2日の「海尾村 保平村」、6月18日~20日の「保平村」1~3をみてください)。
 保平村は、石碌鉱山と日本海軍横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令本部が設置されていた北黎を結ぶ日本侵略期の幹線道路の中間に位置しており、1943年3月の時点では、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の最大規模の守備隊本部が置かれていました。『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の守備隊本部は28個で、兵員数は、保平82、儋県80、黄流70、楽安34、白馬井32、感恩31と書かれています。
 3月26日に十月田鎮を通過して、わたしたちが保平村に着いたのは午前11時ころでした。
保平村委員会を訪問し、梁世文副主任に日本軍保平守備隊跡に案内してもらいました。
 保平守備隊があった場所は、いまの保平村の中心部にある保平村委員会から1キロほど南の保平小学校の敷地になっていました。
 校長の陳秀平さん(1966年生)から話を聞くことができました。
 小学校の本校舎の後ろの位置に、日本軍の2階建ての望楼と地下倉庫があり、その後ろに兵営があり、兵営の左に隊長の住む建物があったそうです。兵営の右には、病院があり、兵営の後ろには「妓院」があり、その後ろに倉庫があったとのことでした。
 現在は、日本軍守備隊本部の建物の痕跡は残っていませんが、本校舎の前の椰子の木を指して、陳秀平さんは、
   “これは日本兵がうえた木だと、父から聞いたことがある。この木は、この地域の椰子
   とは違う種類の木だ”
と言いました。陳秀平さんの父の陳聖才さん(1928年生)も保平小学校の校長をしていたそうです。陳聖才さんが書いた「保平小学校基本情況簡介」には、
   “保平小学校は、1939年につくられた。海南島に侵入してきた日本軍がつくった「奴化
   教育学校」だった。保平村の西側約100メートルのところにつくられ、規模は1-3年級
   だった。
    1945年の日本投降後、私塾学校となり、1946年に保平中心学校となった。この時校舎
   は保平村の南に移された。1958年にさらに保平村の西南に移された。このときの教師の
   宿舎は1940年代に日本軍がつくった望楼だった。教室は村人が力と金をだしてつくった3
   軒の平屋と3軒の草葺の家で、6学年で、学生数が数十人の「完整的完全小学」だった”。
と書かれていました。

 梁世文さんに案内されて、保平小学校の敷地内のかつて日本軍の兵営があったところに建てられている家に住んでいる符鍾春さん(81歳)に話を聞かせてもらうことができました。
                                   キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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