三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 4

2013年12月01日 | 個人史・地域史・世界史
■海南島で 1
 佳里・花蓮・埔里・枕頭山・「霧社」地域など台湾各地で、江西・密陽・孟山・陝川・定州・南原・堤岩里など朝鮮各地で、インノケンチェフスカヤ・イワノフカなどシベリア各地で、間島で、日本関東で、旅順、平頂山など中国東北部各地で、陽高などモンゴル各地で、上海・南京・ホンコンなど中国各地で、海南島各地で、ベトナム・カンボジア・ラオス各地で、マラヤ各地で、シンガポールで、フィリピン各地で、インドネシア各地で………日本民衆は、兵士としてアジア太平洋民衆を虐殺した。
 日本兵士の一人ひとりは、村落に侵入して住民を日本刀や銃剣や機関銃や小銃で殺害し、家屋に放火するとき、犠牲者一人ひとりの人生を考えることができなかったのだろうか。
 日本政府は、アジア太平洋の各地で日本軍・日本企業……がおこなった侵略犯罪を具体的に明らかにし、謝罪し、賠償し、天皇ヒロヒトをはじめとする責任者を処罰しなければならない。
 アジア太平洋で日本政府・日本軍・日本企業が殺害した民衆は、その人数さえもはっきりしていない。
 
 海南島で、日本政府・日本軍・日本企業が殺害した人の数も、はっきりしていない。
 1995年8月に出された海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』(『海南文史資料』11。1995年8月。海口出版社)の序文には、日本軍が1939年2月に海南島に奇襲上陸してから6年半の間に、「日本法西斯」は当時の海南島の人口の5分の1にあたる40万人を殺したと書かれている。
 しかし、同書には、殺害された民衆の名はほとんど記録されていない。 
 これまで、中国政府・広東省政府・海南省政府や政治協商会議などが組織的に海南島で殺害された人びとの一人ひとりの名を調査し記録しようとしたことはなかった。
 南京虐殺の犠牲者にかんしては、『南京大屠杀遇难者名录』(第1册~第3册)に8280人の名前が記録されているが、海南島をふくめ、中国の他の地域での犠牲者の名は、組織的には、ほとんど記録されていない。
 「万人坑」や「千人坑」に埋められている人の名を明らかにしようとする努力を海南省政府も海南島の政治協商会議もおこなっていない。
 海南島で犠牲者の名を記録してきたのは、虐殺現場の(瓊海市九曲江郷長仙村・坡村・三古村・南橋村・雅昌村・佳文村・風嶺村・吉嶺村・官園村、文昌市羅豆郷秀田村、文昌市重興鎮排田村・白石嶺村・昌文村、瓊海市九曲江郷波鰲村・上嶺園村・上辺嶺村、瓊海市烟塘鎮大溝村、万寧市万城鎮月塘村、東方市四更鎮旦場村、澄邁県加楽鎮常樹村、澄邁県橋頭鎮沙土〈聖眼村、文旭村、昌表村、美梅村、那南村〉……)の村人たちだった。
 犠牲者の名を明らかにし記録することは、犠牲者一人ひとりの人生を記録する出発点だと思うが、いまでは、きわめて困難になってしまった。1940年代後半~1950年代に、中国政府が組織的に「調査」すれば、遺族などの詳細な証言をおおく記録できただろう。

 21世紀にはいっても、日本の侵略犯罪の犠牲者、抗日戦の戦士の証言の出版は続いている。
 2009年7月に、雲南省西部の滇西地域での抗日戦の戦士からの聞きとりを記録した章東磐『父親的戦場(中国遠征軍滇西抗戦田野調査筆記)』(山西人民出版社)がらだされた。
 2010年3月に、『中共上饒市委党史辦編『歴史見証 日軍侵饒罪行録』(江西人民出版社)がだされた。この本には、1942年5月~8月に江西省上豊市に侵入した日本軍の犯罪の犠牲者のうちの200人あまりの証言が記録されている。
 2010年10月に、尹世洪・傳修延主編『永遠的惨通 江西省槍救抗戦時期遭受日軍侵害史料・口述実録』が人民出版社からだされた。この本(A5版、2冊、総1187頁)には、江西省における日本軍の犯罪の犠牲者1339人の証言と証言者の写真、証言内容にかかわる史料が付されている(このブログの2011年3月4日、5日の『永遠的惨痛』1、2をみてください)。
 山西省南部に侵入してきた日本軍による犠牲者100人あまりの「口述」を記録した楊聖清主編『苦痛的記憶 中条山戦役難民口述歴史実録』(人民出版社)が2011年5月にだされた。
 海南島では、2000年4月に曹靖『日本法西斯“三光”政策罪行録 回顧長仙聯村“三・一”血泪史』がだされた。同書は、1945年農歴3月1日(普通暦4月12日)に、日本海軍海南警備府佐世保第八特別陸戦隊の中原守備隊、陽江守備隊、橋園守備隊の将兵が、楽会県互助郷(現、瓊海市中原鎮)の長仙村、坡村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村を襲撃した事実を伝えるために幸存者のひとりである曹靖さんが、生き残った村人の証言を聞き記録したものである。巻末に、日本軍に殺害された村人の名が記載されている。曹靖さんは、2005年8月にその修訂版をだしたあと、細部を厳密に書いて2008年5月に新版をだし、さらに2012年5月に増訂版をだした(このブログに2009年11月20日から12月3日に新版の抄訳を13回に連載してあります。また、海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号〈2011年2月11日発行〉に、新版の紹介と抄訳を掲載してあります。村人の証言については、このブログの2008年4月30日の「燕嶺坡、戴桃村、鳳嶺村、長仙村、橋園で」、2009年12月5日~7日の「中原鎮・博鰲鎮・陽光鎮で」1~3などをみてください)。
                                         佐藤正人
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