三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「23年前の今日、ソウル都心の朝鮮総督府から拷問室が現れた」

2018年08月10日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/31301.html
「The Hankyoreh」 2018-08-08 23:10
■23年前の今日、ソウル都心の朝鮮総督府から拷問室が現れた

[歴史の中の今日]ソウル都心の日帝植民支配の象徴物「朝鮮総督府」の話 
 
 23年前の1995年8月8日、建物撤去の過程で発見された地下拷問室 
 植民権力の象徴であると同時に、朝鮮人には抑圧と収奪の空間 
 “民族性回復”問題に火が点き解放から50年ぶり 
 庁舎完工からは70年ぶりに撤去

【資料写真】国立中央博物館として使われていた旧朝鮮総督府の建物を撤去する過程で、拷問室に使われたと推定される地下室が発見された//ハンギョレ新聞社

 ソウル光化門(クァンファムン)の中央に位置した朝鮮総督府の庁舎は、1920年代に建設された京城府庁、京城駅、朝鮮神宮などと共に、ソウルの植民地景観を“完成”させる核心建築物だった。
 解放以後“民族性回復”問題が社会の前面に浮上し、朝鮮総督府庁舎の撤去問題が繰り返し議論されてきた。1995年、当時の金泳三(キム・ヨンサム)政府は、「民族の精神を蘇らせる」という目的の下、旧朝鮮総督府庁舎を撤去することを決めた。

【資料写真】1993年光化門の風景。今は撤去されて無くなった朝鮮総督府の建物が見える//ハンギョレ新聞社

 日帝植民支配の心臓部である朝鮮総督府の庁舎は、日帝強制占領期間と解放期、朝鮮戦争と軍部政権につながる社会的混乱を経て、その用途も変化した。朝鮮総督府の庁舎が、単純に物理的空間に終わるのではなく、時代ごとに建築物自体としての象徴的意味を持った理由だ。

★ソウル都心の朝鮮総督府の地下に存在した拷問室
 「この地下空間は、日帝強制占領期間に朝鮮総督府が抗日愛国志士を監禁・拷問する場所として使われたものと推定される」

【写真】ハンギョレ 1995年8月8日付記事//ハンギョレ新聞社

 ところで、今日から正確に23年前の1995年8月8日、旧朝鮮総督府庁舎撤去過程で拷問室が発見されたという報道が流れた。地下で発見された拷問室は、各部屋に排水路まで設置されていた。当時、光復会の会員たちは排水路に関して、水拷問または独立活動家を拷問する時に流した血を洗い落とすための施設と推定した。地下拷問室を公開した国立中央博物館側は「30年の経歴を持つ元西大門(ソデムン)刑務所刑務官2人が地下室を調べた結果、開閉装置と監視窓などの施設から見て、日帝が使った典型的な拷問・監禁室であることを確認した」と明らかにした。

【資料写真】光化門が取り壊された後、日帝治下の1927年に建てられた朝鮮総督府の建物//ハンギョレ新聞社

 拷問室は建物内の唯一の地下空間だった。中央階段の下に位置していた。地下拷問室は、89.25平方メートル(約27坪)で計4部屋と廊下で構成されていた。部屋はひとりがかろうじて入れる0.2坪の独房と5坪、2坪程度の大きさだった。各部屋に通じる14センチの厚い鉄門は、防音のために木と砂で中を満たしてあった。そこに開閉装置と監視窓を別に設けた。
 朝鮮総督府の庁舎で発見された拷問室は、朝鮮総督府の建物が植民権力の象徴であると同時に、被支配者である朝鮮人には抑圧と収奪の空間であったことを意味した。

★露骨に残忍な日帝朝鮮総督府の建物

【資料写真】景福宮と朝鮮総督府の1926年以後の姿。朝鮮総督府の建物周辺には芝生が見える。日帝は景福宮の殿閣を破壊した跡に、韓国人には死を象徴する芝を敷いた=プルン歴史提供//ハンギョレ新聞社

 朝鮮総督府の庁舎を活用した日帝の残忍さはこれだけではなかった。日帝は行政的便宜を図るという理由で、朝鮮総督府庁舎を新築した。だが、彼らの真意は別にあった。日帝は、景福宮(キョンボックン)勤政門の前のすべての建物を撤去して、その場に巨大な洋式石造コンクリート造の朝鮮総督府庁舎を新築した。相対的に規模が小さく木造の景福宮の正殿である勤政殿(クンジョンジョン)と対照させ配置するためだった。
 こうした日帝の植民地野心をそっくり抱いた朝鮮総督府庁舎は、1926年まで何と10年余りをかけて建てられた。地上4階、地下1階の鉄筋コンクリート建物は、典型的な植民地風の帝国主義建築物の特徴を帯びていた。当時、多くの帝国主義国家では、権力を象徴するために中央には高く大きなドームも忘れなかった。朝鮮総督府庁舎の完工により、当時朝鮮に対する日帝の植民統治は一層加速した。

【資料写真】景福宮前に新しい建物が建設されるまで、朝鮮総督府(右端の建物・現在のソウルアニメーションセンターの場所)は南山(ナムサン)麓に席を占めていた。左上に明洞聖堂(ミョンドンソンダン)が見える//ハンギョレ新聞社

 反面、景福宮の勤政殿は、朝鮮総督府の庁舎にさえぎられて、光化門前からは見えなくなった。日帝は、植民地景観構築のためにソウルの伝統景観、特に都市空間で朝鮮の権威を示す空間を解体していった。これによって日帝は、植民統治を正当化し、当時韓国の人々に日本の植民統治を自然に受け入れさせる手段とした。

★韓国の政治と朝鮮総督府
 こうした背景にもかかわらず、解放以後にも朝鮮総督府の庁舎は撤去されずその場に残った。既得権勢力が「経済的効率性」という理由で庁舎を活用したためだ。

【写真】朝鮮総督府庁舎は日帝が使った期間が19年、残りの50年余りは韓国が使った。それだけに建設から撤去に至るまで韓国近現代史の政治・社会・文化を含んでいる建物でもあった。

【資料写真】1945年9月9日午後4時、朝鮮総督府第1会議室で“最後の総督”阿部信行(中央)が韓国駐屯米軍司令官ジョン・ホッジ(右)中将が見守る中で統治委譲文書に署名している//ハンギョレ新聞社

 日本が連合軍に降服した以後、朝鮮総督府庁舎は米国の手に渡り米軍政庁舎として使われることになる。実質的に韓国が使い始めたのは1948年8月15日の政府樹立以後だ。韓国は旧朝鮮総督府庁舎を改造せずにここで制憲国会の開院式を開いた。以後、朝鮮戦争を体験して一時は北朝鮮軍の庁舎としても使われた。この時、内部が毀損されたがそのまま放置して1962年朴正煕政権になって修理して政府中央庁舎として20年間使った。
 朝鮮総督府庁舎の使用をめぐって“民族性回復”問題に本格的に火が点いたのは意外にも全斗煥(チョン・ドファン)政権からだ。政権の正当性問題で大衆的支持基盤が弱かった全斗煥は、朝鮮総督府庁舎の国立中央博物館への改編を通じて国民的支持を得ようとした。政権の意図どおり、朝鮮総督府庁舎は国立中央博物館に改編され1983年から1995年まで使われた。

【資料写真】撤去作業により外壁が見えている国立中央博物館(旧朝鮮総督府)//ハンギョレ新聞社

 しかし、日本の相次ぐ歴史教科書歪曲問題で反日感情が激化すると、撤去論が提起され始めた。結局、朝鮮総督府庁舎の撤去論争は1990年10月、景福宮復元計画に国立中央博物館新築移転が含まれていることが知られ本格化した。

【資料写真】ソウル市鍾路区世宗路の旧朝鮮総督府建物の中央ドーム解体工事過程で、日帝が製作した銅板の棟上文が発見された//ハンギョレ新聞社

 その後、金泳三(キム・ヨンサム)大統領は1993年4月1日に当選し、一カ月余りが過ぎた時点で朝鮮総督府庁舎の撤去を指示する。しかし相変らず朝鮮総督府庁舎の撤去に対して一部学問的、歴史的、美術的観点で意見が交錯した。ただし、明らかなことは再び光化門から景福宮を眺めることができるようになった点だ。驚くべき事に解放から50年ぶり、朝鮮総督府庁舎が完工してからは70年ぶりのことだった。

参考文献
 「朝鮮総督府、その庁舎建設の話」ホ・ヨンソプ
 「朝鮮総督府庁舎撤去問題を通じてみた韓国建築界の意識変化に関する研究」パク・ヘイン、キム・ヒョンソプ
 「景福宮と旧朝鮮総督府建物の景観をめぐる象徴物戦争」ユン・ホンギ
 「朝鮮総督府庁舎の室内空間の表現特性に関する研究」イ・クンヘ、オ・インウク
 「解放以後の朝鮮総督府庁舎の変遷とその意味」チョン・ヒソン
 京郷新聞、ハンギョレ 1995年8月8日付

カン・ミンジン記者
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/856701.html
韓国語原文入力:2018-08-08 13:59
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