三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「日本軍による太平洋戦争最大の3万人虐殺事件 湖南に記念館完成」

2016年02月18日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.china-news.co.jp/node/50918
「中国通信社」 2010年8月15日
■日本軍による太平洋戦争最大の3万人虐殺事件 湖南に記念館完成
 (中国通信=東京)長沙15日発新華社電によると、日本軍国主義の無条件降伏65周年の同日、太平洋戦争最大の虐殺事件の3万人の犠牲者を追悼する「厰窖虐殺事件記念館」が事件のあった湖南省南県廠窖鎮に完成し、開館した。
 廠窖虐殺事件跡は日本の侵略者が中国で罪のない人々を虐殺し、極悪非道の罪を犯した重要な罪証である。 記念館の建設工事は2008年に始まった。一般からの資金援助を受け、南県は4・52ヘクタールの土地を用意し、記念館をはじめ平和を祈る彫刻群、警鐘の台地などをつくり、犠牲者の記念碑を補修した。同時に記念館のためにレベルの比較的高い展示の準備を行った。
 記念館は建設面積が1600平方メートル、展示面積が800平方メートル。展示内容は「日本軍の中国侵略」、「血なまぐさい虐殺」、「奮起反抗」、「動かぬ証拠」、「長く警鐘を鳴らす」、「平和を大切にする」の六つの部分からなり、歴史的史料や写真、生存者が語る音声・映像資料、歴史的実物など70点余りが展示されている。そのうち56点は民間から集められたもの。
 1943年5月9日から12日にかけ洞庭湖の湖畔にある魚とコメが豊富な廠窖鎮が地獄と化した。日本軍はここで罪のない人々を虐殺し、中国侵略で二番目の大虐殺事件を起こした。これは太平洋戦争の最大の虐殺事件で、わずか3日間に中国の軍民3万人余りを殺害し、200人余りの女性を強姦し、第二次世界大戦でのファシストによる1日の殺りく数としては最多となった。
 記念館の責任者は次のように説明した。日本軍は当時、湖南の戦場で相次いで敗れたため、勝利の自信を高め、中国軍民の抗日の鋭気をくじき、太平洋戦争の受け身の局面を転換する必要があった。侵略者は残忍な報復の心理があり、人間性を失い大虐殺事件を起こした。



http://www.nicchu-hyogokenren.net/blog/report/2225/
「日本中国友好協会兵庫県連合会」 2014年4月22日
■太平洋戦争期最大の中国人虐殺の地「廠窖鎮」を訪ねて
 旧日本軍の中国侵略の中で、南京事件に次ぐ「中国人大虐殺事件」、太平洋戦争期では犠牲者最大

 日本中国友好協会兵庫県連合会は今年3月31日~4月5日の期間、中国湖南省の各地へ「平和友好の旅」を行いました。省都・長沙市の湖南省人民対外友好協会への表敬訪問では同協会幹部との懇談をはじめ、毛沢東や劉少奇・胡耀邦などを排出した韶山、夜景が美しい古都・鳳凰古城や南方長城、世界自然遺産の張家界(武陵源)などを訪問見学しました。
 4月2日午前、益陽市南県廠窖(しょうこう)鎮の「廠窖惨案紀念館」を一行16名が訪問しました。王志強館長の出迎え受け、先ず正面に聳え立つ「廠窖惨案遇難同胞記念碑」(高さ約20m)に花輪(右写真)を献じ、全員整列して1分間の黙祷、その後1人1人が白菊を碑前に手向け日本軍の虐殺で犠牲となった人々を追悼しました。この様子を地元メディア数社が取材し、即日テレビ、新聞、ネットニュースで伝えました。また、近郊の住民約100人が私たちの行動をじっと見守っていました。

★「廠窖大虐殺事件」とは
 1943年2月~3月、中国を侵略していた日本軍は揚子江沿岸(現・長江)~洞庭湖周辺地域で江北殲滅作戦を展開、同年4月~6月に江南殲滅作戦(中国呼称:鄂西会戦)を開始、同年11月~12月に常徳殲滅作戦を連続して展開。中国軍の勢力拡大阻止、日本陸軍第11軍占領地域の安定化、揚子江の水路確保などを目的に、兵力は6個師団余り(6万数千人)を投入。大虐殺は江南殲滅作戦の第2期作戦(5月5日~)遂行中の5月9日~12日の間に、洞庭湖北岸の南県廠窖鎮周辺で起こったと言われています。現在、廠窖鎮では「惨案紀念館」や「惨案紀念碑」を建立し、事件に関わる資料の展示や生存者が当時の状況を語り伝え、この事件に関する研究が今も続けられています。「南京事件」に次ぐ規模の大虐殺事件にも拘わらず、日本ではあまり知られていないのが現状です。

★3人の生存者が当時の様子を生々しく証言
 資料館に入り説明を受けながら展示の写真や資料などを見学した後、一室に移り生存者3人の証言を聞きました。ここではその内の一人・郭鹿萍さん(88歳、事件当時17歳・写真左から3人目)の証言を紹介します。(写真左が全伯安さん、その右は劉垠山さん)

★避難していた家に日本兵が来て全員連れ出される
 ここから約2.5km程離れた所で父親が小さな薬屋を営んでいたという郭鹿萍さん(88歳)は、母親と姉2人、妹1人は先に避難し、自分と父親が家に残っていたが、日本軍がこの村に来るということを聞き、近くの李という親戚の家へ避難した。そこには他所からも男女70人ほどが避難してきていた。5月10日朝になり日本軍が家の中へ入ってきて、避難している全員を戸外へ追い出した。日本兵は12人程で1人は馬に乗っていたと言います。郭さんはとっさにベッドの下に隠れたが戸が閉まる音を聞き、家に放火されると思い飛び出した所を2人の日本兵にみつかり、棒で強く叩かれ外へ連れ出されたと言います。

★銃剣で腹、腰のあたりを5か所刺され意識失う
 自分は服を着ていたが、先に連れ出された人たちの内、男は全員上半身裸にされ、男女に分けられて3組にして紐で数珠つなぎに縛られ学校の近くへ連れて行かれたと言います。郭さんが縛られた組は15人ほどで銃を持った日本兵4人が傍にいたそうです。壁際にしゃがみこまされ、一人の兵が銃剣で一人一人を突き殺していきました。最初の一人が刺された時、誰かが大声で「日本人が剣で人を殺している」と叫んだのが聞こえました。3人の日本兵は傍で警備をしていて、紐で一列に繋がれており逃げられません。4人まで突かれるのを見たが、郭さんはその後は目をつむり死を待っていたと言います。
 腹に激しい痛みを感じたが意識はあったと言います。さらにもう一度強く刺されたがここまでは覚えていたそうです。その後意識を失い、気がついたら夕方4時頃だったそうです。周辺に10数人が倒れ、一面に血が流れていたと言います。この時の情景は言葉では言えません、地獄でしたと郭さんは語ります。自分だけが意識が戻ったのだとわかり、時間をかけて紐を解き、立ち上がろうしたが流血で力が無くなり何度も繰り返しやっと立ち上がり歩こうとしたが目がくらみ歩けません。這って50mほど先の畑にやっと身を隠した。そこにも2人の死体があり、日本軍がまたやって来たら死体の間で死んだふりをしようと思ったそうです。周辺の家や船が放火され夜は明るかったと言います。(写真:銃剣で刺された傷跡を見せる郭鹿萍さん)
 動く力もなくなり、畑の未熟な空豆をかじり、葉についた露をなめじっとそのまま丸2日間畑で過ごしていた所、親戚の家で手伝いをしていた李さんという人が通りかかり助けられたそうです。李さんの家でも若い人4人が殺され、おじいさんだけが生き残っていたそうです。このおじいさんは漢方の心得があり、薬草で傷の手当てをしてくれ、一週間ほどで少し動けるようになったそうです。郭さんの家では、家族6人の内避難していた母親と姉妹は無事で、居残った自分と父親が刺され、父親は亡くなったそうです。家も家財道具も全て焼き払われ何も残っていなかったそうです。

★3日間で3万人以上を虐殺、近くには「千人抗」も
 中国側資料によれば、日本軍の「江南殲滅作戦」中、5月9日~12日の3日間で、中国軍の敗残兵(武器を持たず、抵抗出来ない兵)や老若男女(妊婦も)を問わない住民、近郊からの避難民合わせて30,766人が虐殺により亡くなり、4,279人の中国軍兵士が捕虜となり、3,000人以上が負傷、2,000人以上の中国人女性が強姦された後殺され、南京大虐殺に次ぐ2番目の規模の虐殺事件であり、太平洋戦争期では最大と言われています。近くには「千人抗」もあると言います。日本軍側は戦死771人、戦傷2,746人との記録があります。日本軍側被害は、米軍の空爆によるものが多かったようです。




http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/2014/140605.html
『日中友好新聞』2014年6月5日号
■太平洋戦争期最大の虐殺
 日本軍暴虐の地 湖南省へ
 兵庫県連が「友好平和の旅」

【写真】廠窖惨案記念館」正面にそびえ建つ記念碑前で  犠牲者を追悼する日中友好平和の旅参加者たち

 兵庫県連合会は3月31日から4月5日まで、「日中友好平和の旅」を実施し中国湖南省を訪問。県連の前田清会長はじめ16人が参加しました。一行は省内で、日本軍による住民大虐殺の跡地を訪ねて犠牲者を追悼し、改めて「不再戦・平和」の誓いを固めました。

★1943年5月の作戦で
 一行は、4月2日益陽市南県廠(しょう)窖(こう)鎮(ちん)へ。中国への侵略戦争の中で、日本軍は長江~洞庭湖一帯で中国軍の戦線拡大の阻止、長江の水路確保などを目的に、1943年2月~3月に「江北殲(せん)滅(めつ)作戦」、4月~6月に「江南殲滅作戦」を展開、同年11月~12月には「常徳殲滅作戦」を連続して行いました。  中国側の資料によれば「江南殲滅作戦」中、この廠窖鎮一帯で5月9日からの3日間に中国軍人(敗残兵含む)や住民、近郊からの避難住民など合わせて3万766人が虐殺され、4279人の中国軍兵士が捕虜となり、3000人以上が負傷、2000人以上の婦女が強姦されました。  これは、南京事件に次ぐ日本軍侵略中2番目の規模の大虐殺で、太平洋戦争期(1941年12月~45年8月)では最大の虐殺事件と言われています。

★記念碑前で犠牲者を追悼
 一行は「廠窖惨案記念館」を訪問し、正面にそびえ建つ記念碑(高さ約20㍍)に花輪を捧げ1分間黙祷、白菊の花を手向け、犠牲者を追悼しました。  この様子を近郊住民約100人が終始じっと見守り、同行の新聞記者と現地のテレビ局が取材、「三湘都市報」など地元メディアが即日ネットニュースで紹介しました。  展示室で、当時の資料や写真、日本軍の遺留品などを見学。王志強館長からあいさつを受け、この虐殺事件の生存者3人が当時の様子を証言しました。  先ず、元高校の教師でこの事件を1972年から調査している李波氏(73歳)が証言者3人を紹介、李さん自身は当時3歳だったが、祖母が事件に遭い3日後に亡くなったと語りました。

★生存者3人が実体験を証言
 日本軍に連行され、腹や腰5カ所銃剣で刺された郭鹿萍さん、目の前で父親が刺殺され自身も脇腹を刺された劉垠山さん(以上2人は88歳で事件当時17歳)、日本兵の殺害を目撃した全伯安さん(87歳、当時16歳)が、それぞれ日本軍の残忍な殺害について語りました。  全さんは「日本軍は3日間に3万人以上を殺害しました。その手段は、①空襲で爆死させる②銃殺③銃剣で刺す④家屋や船に放火し焼死させる⑤川や池、溝で水死させる⑥女性を暴行し殺害する、だった」と証言、さらに次のように述べました。  「80歳を超える老人から子ども、婦人、武器を捨て抵抗できない敗残兵を無差別に殺しました。中でも妊婦の腹を剣で裂き、中の胎児を突き刺して放り出すなど、とても人間のやることではありません。また、首に縄をかけ両側から引っ張り殺す、水死させるなど殺人を競っているようで、それはすさまじい光景でした」

【写真】3人の生存者が当時の様子を証言(左から全伯安さん、劉垠山さん、郭鹿萍さん)

★腹部刺され意識失う
 郭さんは次のように証言しました。
 「5月9日前後より日本軍はこの地に爆弾投下を開始。私の家族は両親と姉2人、妹1人と私の6人でした。私の家では、母親と姉妹が先に避難し、家には父と私の2人が残り、日本軍が迫ってくる直前に私と父は近くの親戚の家に避難しました。
 10日朝、日本兵が家に入って来ました。そこに避難していた70数人ほどが外に連れ出され、男女に分けられ、男はひもで3組に縛られました。私の組は15人が一緒に縛られ、学校の壁の所にしゃがまされ、1人の日本兵が1人1人順番に突き殺していきました。
  4人まで突かれるのを見たが、その後は覚悟を決め目をつむって死を待っていました。
  腹に痛みを感じ倒れ、さらにもう一度強く刺されたところまでは覚えているが、その後意識を失いました。意識が戻ったのは夕方4時ごろ。周辺に10数人が倒れ、あたり一面に血が流れていました。一緒に縛られていた人全員が殺されたのです。
 この時の状景は言葉では言えません、地獄でした。流血で力がなくなり目の前が真っ暗になり、3回ほど繰り返し、やっと起き上がり時間をかけてひもを解き、はって50㍍ほど先の畑に身を隠しました。  父と私2人が災難に遭い、父親は殺されました。家も家財もすべて焼き払われました」。  
 
 「平和の旅」を終え、県連の上田雅美事務局長は「このような大虐殺事件がどうして日本ではほとんど知られていないのか、さらに調べて不再戦活動で広く知らせていきたい」と語りました。 (U)




http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-05/2015100506_01_1.html
『しんぶん赤旗』 2015年10月5日
■日本軍が中国人3万人を虐殺 廠窖事件
 事実を広く 記念館再開
 父殺された男性「友好を大事に 絶対戦争はいけない」

 第2次世界大戦中、日本軍が中国南部の湖南省南県廠窖(しょうこう)で行った虐殺をテーマにした「廠窖惨案遇難記念館」が、このほど約1年の改修を終え再オープンしました。1943年5月に同地域に侵略した日本軍は、中国側の研究によると、5月9~11日の3日間で3万人を虐殺。歴史の事実を伝える記念館に多くの人が足を運んでいます。(廠窖〈中国湖南省〉=小林拓也 写真も)

     写真 再オープンした廠窖虐殺事件の記念館を参観する人たち=9月13日

 2010年に開館した同記念館は改修をへて、展示面積が今までの2倍の1600平方メートルに拡大。350枚以上の写真、160件以上の展示品が飾られています。南県政府は改修のため、1500万元(約2億8200万円)を投入しました。

★南京大虐殺に次ぐ
 国民党軍の敗残兵や難民、現地住民ら3万人が犠牲になったとされる廠窖虐殺事件は、中国大陸での日本軍による虐殺の中で、南京大虐殺に次ぐ規模の事件です。

 しかし農村で起きた事件で、南京と違い外国人の目撃者もなく、中国国内でもほとんど知られていませんでした。写真など当時の資料もほとんど残されていません。

     地図:中国・廠窖

 記念館の郭衛館長は「引き続き生存者の証言を集め、整理していきたい。戦闘に参加した日本兵の陣中日記など日本側の資料も収集したい」と語ります。
 いまも健在な事件の生存者は約30人。ほとんどが80歳以上です。

★川は血で真っ赤に
 生存者の1人である馮秋生さん(81)は当時9歳。43年5月9日、多くの難民が自宅近くの川の周辺に生えていたアシの中に身を隠していたところ、日本軍機が上から爆弾を投下した場面を目撃しました。
 約1000人が殺され、川の水は血で真っ赤に染まり、100メートルほどの幅の川面は死体で埋まったといいます。

     写真 温正坤さん
     写真)秋生さん

 当時7歳だった温正坤さん(79)は、日本兵にひざまずかされた父親(当時46歳)が銃剣で刺し殺されるのを目の前で見ました。3人の兄も日本兵に切られて負傷し、そのうち一番上の兄は障害が残りました。
 温さんはこう強調します。「過去の歴史を恨みとするのではなく、教訓にして、中日友好を大事にしたい。中国と日本は絶対に戦争してはいけない」

★廠窖虐殺事件
 中国を侵略した日本軍が1943年5月9~11日に湖南省南県廠窖で起こした虐殺事件。中国側の調査によると、南北10キロ、東西5キロの50平方キロの範囲を中心に3万人以上が死亡。当時、日本軍は長江(揚子江)の水運を確保するための江南せん滅作戦を展開。湖北省南部から湖南省北部の国民党軍をせん滅する過程で、民間人も無差別に虐殺したとみられています。



http://news.163.com/15/0825/14/B1SC2RRH00014AEE.html
「网易」 2015-08-25 14:11:04  来源: 红网(长沙)
■南县厂窖惨案遇难同胞纪念馆8月31日重新开馆(图)

     【相片】南县厂窖惨案遇难同胞纪念馆

  红网南县站8月25日讯(通讯员 盛婷)8月24日,南县召开抗战胜利70周年暨厂窖惨案遇难同胞纪念馆重新开馆相关部门协调会。
  与会人员首先实地查看了厂窖惨案遇难同胞纪念馆的提质改造工作,馆内展厅关于厂窖惨案的图片、资料和文物已经全部完成陈列。灯光和其他设备的微调也已全部完成。南县纪念抗战胜利70周年暨厂窖惨案遇难同胞纪念馆重新开馆大会将于8月31日十点在厂窖惨案遇难同胞纪念碑前广场举行。开馆后,将免费向社会各界开放。
  随后召开座谈会,县委常委、宣传部部长周建新就南县纪念抗战胜利70周年暨厂窖惨案遇难同胞纪念馆重新开馆进行了部署,明确了相关单位部门的职责分工。并要求各单位部门要把集镇环境卫生秩序整治到位,做好安全保卫和信访维稳工作,共同做好迎接省、市来宾及社会各界人士的准备。
  县委副书记宁勇华要求,各级各部门要在思想上高度重视,认真做好宣传报道,弘扬主旋律,传播正能量,营造浓厚的舆论氛围。要以“隆重、安全、节俭”为原则,加强协同配合、搞好工作衔接,全面、细致、周密做好各项工作。要把全部力量动员起来,以最高标准、最严要求、最强措施、最佳状态做好抗战胜利70周年暨厂窖惨案遇难同胞纪念馆重新开馆大会活动,确保纪念活动精彩、圆满、成功。



http://hn.rednet.cn/c/2015/08/31/3780099.htm
「红网」 2015-08-31 13:48:17  作者:黎鑫 编辑:康晓乔
■厂窖惨案遇难同胞纪念馆重新开馆 全面展示日军残酷罪行

【相片】8月31日上午,经过近1年时间的提质改造之后,益阳南县厂窖惨案遇难同胞纪念馆重新开馆
【相片】数千名百姓自发前来纪念馆缅怀遇难同胞
【相片】湖南省委宣传部副部长、省文明办主任宋智富[左]为厂窖惨案遇难同胞纪念馆揭牌
【相片】1943年,日军对聚集在厂窖的军民进行疯狂屠杀,仅仅3天时间,杀害我军民3万余人
【相片】当地百姓在厂窖惨案遇难同胞纪念馆内参观)

  红网南县8月31日讯(时刻新闻记者 黎鑫) 今天上午,经过近1年时间的提质改造之后,益阳南县厂窖惨案遇难同胞纪念馆重新开馆。新馆不仅扩大了展厅面积,完善了周边配套环境,更加了图片、文物和大型场景展示等篇章,全方位展示日军在厂窖犯下的滔天罪行和人民不屈的抗争精神。

  湖南省委宣传部副部长宋智富出席揭牌仪式。
  1943年5月8日,日军出动兵力三千余众,分水陆空三方位对厂窖地区实行军事大合围,中国军队、数万难民与当地百姓被围困在厂窖。5月9日,日军对聚集在厂窖的军民进行疯狂屠杀,仅仅3天时间,杀害我军民3万余人,创下人类历史上一天杀人数量之最。
  为纪念惨死的遇难同胞,1985年,当地政府利用旧房设立了简易的厂窖惨案遇难同胞纪念馆;2010年,总投资2600万,建筑面积2600平方米的新馆落成,并免费对外开放,每年接待游客80多万人次。 
  由于考虑到纪念馆设施陈旧、布局不合理,2014年,南县县委、县政府投入1500万元对纪念馆进行提质改造。目前,改造完成后的厂窖惨案遇难同胞纪念馆,展厅面积由原来的800平方米扩大至1600平方米,展览内容分“罪侵中华,祸殃洞庭”“疯狂屠戮,惨绝人寰”“英勇不屈,奋起反抗”“铁证如山,不容篡改”“铭记历史,珍爱和平”五个部分。纪念馆内还通过350余幅图片、160余件文物、10余幅绘画作品和3处大型场景展示,配合电子沙盘、视频、空中翻书系统,力求使纪念馆成为一个融纪念性、独创性、故事性、艺术性和互动性于一体的全新展示空间。
厂窖惨案遇难同胞纪念馆馆长郭卫表示,接下来,纪念馆将继续完善馆藏,特别是对幸存者口述史进行整理,留下这一段珍贵的历史资料。



http://www.yywhyc.net/index.php?option=com_content&view=article&id=474:2015-09-01-08-14-19&catid=39:2012-04-04-06-09-49&Itemid=86
「益阳日报」 2015-09-01 08:10
■千人共祭厂窖惨案遇难同胞 纪念馆完成提质改造重新开馆
  烈日当空,静默致哀。8月31日,数千名社会各界人士和学生代表来到南县厂窖,在厂窖惨案遇难同胞纪念碑前敬献花圈,共同祭奠遇难同胞,并参观提质改造后重新开馆的厂窖惨案遇难同胞纪念馆。
  1943年5月9日至11日,日军在厂窖地区对国军、难民和当地居民进行惨无人道的大屠杀,3天时间屠杀我军民3万余人。为铭记历史、纪念遇难同胞,1985年,厂窖政府利用旧房设立了简易的纪念馆;1986年建成厂窖惨案遇难同胞纪念碑;2010年,建成建筑面积2600平方米的新纪念馆,每年接待游客80多万人次。今年3月,考虑到纪念馆布局不够合理,南县县委、县政府投入1500万元启动提质改造。
  改造后,纪念馆展陈面积由原来的800平方米扩大至1600平方米,展览分五个部分,分别是:罪侵中华,祸殃洞庭;疯狂屠戮,惨绝人寰;英勇不屈,奋起反抗;铁证如山,不容篡改;铭记历史,珍爱和平。通过350余幅图片、160余件文物、10余幅画作和3处大型场景展示,配合电子沙盘、视频、空中翻书系统,最大限度地向观展人员还原厂窖惨案历史。
  省委宣传部副部长宋智富、省文化厅副厅长孟庆善、省文物局副局长何强和市领导胡立安、黄东红、张文等与各界群众一同祭奠观展。



http://hn.rednet.cn/c/2015/09/01/3781227.htm
「湖南红网」2015-09-01 13:43:44  来源:三湘都市报 作者:戴鹏
■日寇在湘制造41起大屠杀 案卷曝光还原“洪山屠杀”

     【相片】1959年—1960年间“洪山惨案”的部分案卷。 记者 戴鹏 摄

★色档案
  南县厂窖,3天,日军屠杀无辜群众近3万人;
  岳阳营田,13天,日军屠杀无辜群众1076人;  
  岳阳洪山,7天,日军屠杀无辜群众1800余人; 
  常,日军发动细菌攻击,有记载的遇难者就达7643人。 
  …… 
  令人窒息的数字背后,是日军对湖南的1360次轰炸、集中屠杀百人以上的41起大惨案,92万余人死亡、超170万群众伤残。
  在这些包括老弱妇孺在内的无辜者中,577500多人直接死于侵华日军在湖南的屠杀。 
  日寇手段残忍至极:军犬撕咬、活埋、火焚、淋开水、机枪扫射、刀杀甚至剖腹、投放毒气弹……
  
★色链接
  仅次于南京! 
  厂窖河尸断水流
  3天,屠杀中国无辜群众近3万人!
  益阳南县的厂窖惨案更令人发指。1943年5月9日至11日,日军在此制造了仅次于南京大屠杀的惨案。  
  益阳南县的厂窖,位于荆江南岸、洞庭湖西北滨,三面临水、形如半岛。当年5月8日,日军出动数十架飞机从汉口、当阳等地起飞,分批窜至厂窖上空侦察轰炸,并配合分乘60多艘汽艇的3000多名日军,对厂窖进行合围。云集在厂窖地区的1万余名中国官兵和2万多名沦陷区的难民,加上15000名当地居民,除部分突围逃走外,其他都被合围在厂窖。  
  5月9日清晨起,日军在厂窖的水陆两面同时大烧杀:先搜索掠财,后杀人放火点屋烧船。  
  火光冲天,昼夜不熄。
  厂窖的龚家港河段,日寇堵住两头入湖口,聚集在此的上千条船只被连船带人烧得精光。 
  那天,这条长5公里的汊河,变成血河。 
  今年8月19日,岳阳县人民法院向三湘都市报记者独家提供了一份55年前的审判资料,日寇在湖南制造的惨案中唯一经过人民法院审判的“洪山惨案”的详细经过得以示人。
  
  ■记者 戴鹏
  
【死亡名单】营田屠村,最小遇难者1岁 
  在“洪山惨案”发生前,日军已在岳阳营田制造血腥屠杀。 
  “易春芝1岁,年龄最小的遇难者……易怡兴54岁、易隆周30岁、易凤起28岁、易鸿成24岁、易得成17岁,父亲及四子全家灭门……” 
  这份死亡名单由湖南理工学院教授钟兴勇整理,名单多达253人。他们的死亡时间均为1939年9月23日,地点在岳阳营田。 
  钟兴勇说,他们都惨死于日军的屠杀。1939年9月23日凌晨3点,日军登陆营口,此后13天,他们屠杀无辜百姓1076人,占全镇人口的三分之一,烧毁房屋1700余间。这就是惨绝人寰的“营田惨案”。 
  现年88岁的易阳葭在此目睹22名平民被惨杀;96岁的吴胜保目击了日军对营田老巷口吴一家14人的杀戮;李望华见证了27人被日军屠杀,那年他才7岁…… 
  “我们每次宿营时,都先扫荡村子,杀掉农民,然后睡觉。”日本老兵的《东史郎日记》描述了这种杀戮,“农民之死可以保障我们睡眠的安全。我们往往仅仅为了天亮前睡3个小时而让许多农民去死。” 
  而今的营田,“白骨塔”耸立,提醒后人勿忘前耻。这是日寇侵湘的第一宗血腥屠杀,但非最后一次。
  
【行凶者说】“挥刀而上,让他们死得不明不白” 
  “洪山惨案”是日寇在湖南制造的惨案中,唯一经过人民法院审判、国内参与者全部归案伏法的案件。 
  1942年侵华日军第三次进攻长沙惨败,胡春台、胡坤部游击队多次成功突袭日军。日军第六师团师团长神田再一次把“泄恨”的屠刀砍向了无辜群众。
  “神田纠集1200多人,下令:10月18日中秋节当晚包围洪山一带,等这些中国人爬山累了、菊花酒喝醉了、深夜熟睡了行动,挥刀而上,让他们死得不明不白。”这是“洪山惨案”的参与者熊玉贵(化名)接受审判时的供述。
  自1942年10月19日到25日的7天时间里,岳阳洪山一带被日军残忍杀害的无辜群众达1800多人,其中全家被灭门的有72户,计330多人。 
  在“洪山惨案”的审判资料中,这样描述当时的情景,“其中仅八斗丘一个屠杀地点,就陈尸300多具,地上凝血一寸多厚。”  
  今年8月19日,岳阳县人民法院向三湘都市报记者独家提供了这份55年前的审判资料,“洪山惨案”的详细经过才得以示人。
  
【血腥诱骗】不伤百姓?不论男女老幼,当场格杀! 
  1942年10月18日深夜,岳阳楼哨子尖叫,日军宪兵队、岳阳伪保安团、伪警察局和伪青年团,共计1200余人紧急集合,分4路秘密进发洪山方向。 
  次日拂晓,日、伪军抵达洪山一带,严密包围,而此时当地多数群众尚在睡梦之中,仅有少数青壮年慌忙躲进山中。  
  “日军包围洪山一带后,为达到‘三光’的目的,没立即开始屠杀,而是命令伪青年团宣传队逐户敲门,将群众集中。”“洪山惨案”的主犯之一章杰(化名)供述。 
  此后两天,章杰带人敲着锣,上山呼喊躲藏的群众回村,并向群众谎称:“日军只抓捕游击队员,不伤害良民百姓。”以此诱骗逃离的群众下山。 
  10月21日,洪山被日军包围的第三天凌晨,群众全部陆续下山回村。但,“回家没事,还有好吃的”的诺言并未兑现。
  天刚泛白,神田集合军队,开始“清乡”。他训话说:“不论男女老幼,一律当场格杀,不能跑掉一个人。见屋就烧,绝不留给游击队住。”
  
【百姓之死】“杀人比赛,杀累了搬出机枪”
  数百名群众被分组集中,屠杀开始。  
  “一开始用东洋刀砍头、用刺刀捅死,进行杀人比赛。但速度太慢,一天才杀了200多人。后来我们杀累了,就搬出机枪扫射。”章杰供述。 
  第6天,日、伪军已经杀害了1500多名无辜群众,洪山、昆山一带再也抓不到几个老百姓了。 
  搜索在继续,日军发现幸存者就给他们发一点点钱,诱骗说:“为清剿游击队烧了百姓的房子,现在发救济款,请转告其他人到我们的驻地去领取。” 
  日军又骗来了70多名无辜群众,于当晚连同此前关押在叶家坳的300多名无辜群众,杀害在八斗丘,地沟里凝结了1寸多厚的血块。  
  七天,日军在洪山一带制造集中屠杀84处。1800多名无辜百姓惨遭杀害,2000多间房屋化为灰烬。  
  湖南抗战研究学者唐华元告诉记者,除了屠杀无辜百姓,仅“洪山惨案”中,日军就抢走耕牛996头、生猪4400多头,用具、瓷器、衣服22担。
  
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■通讯员 李劲宏 记者 郭云飞
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