三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島「現地調査」報告 2015年11月18日―24日  (2)

2015年12月14日 | 海南島近現代史研究会
■11月20日(金)
 今年8月19日の『南国都市報』に、抗戦勝利70周年特別報道(不能忘却的歴史)五として「东方“万人坑”遗址 3万具尸骨埋葬于此 幸存者至今难以名状的伤痛」と題する記事が掲載され、東方市八所村に住む張老桃さんと張仁常さんの証言が報道されました(このブログの9月21日の「东方“万人坑”遗址」をみてください)。
 東方市博物館の秦魏館長がこのお二人を知っているというので、朝8時半に訪ねました。
 東方市博物館は新築開館を準備中で、現在は事務室のみでした。

 秦魏さんに案内されて八所村の張老桃さん(92歳)宅を10時前に訪問しました。初対面の挨拶のとき、金靜美さんが朝鮮人であると知った張老桃さんは、金靜美さんの手をしばらく離さず、70年あまり前に一緒に日本軍に仕事をさせられていた朝鮮人のことを話し始めました。海南島近現代史研究会の会員が海南島で証言を聞かせてもらうとき、その会員が朝鮮人であるか日本人であるかによって証言してくださる人の姿勢は、しばしば違います。
 高齢なので短時間の訪問にしなければならないと思っていましたが、張さんは力強い声で、1時間半話してくださいました。
   「八所港で仕事をさせられた。いろんな人と一緒に仕事をした。朝鮮人とも一緒に仕
   事をした。鉄道のレールを運ぶ仕事で、みんなで‘アイオッソ―’と掛け声をかけて
   運んだ。朝鮮人は作業服を着ていた。作業服の色はいろいろだった。朝鮮人は日本語
   をしゃべっており、少し話が聞き取れた。‘わたしは朝鮮人で、捕まってここに連れ
   てこられた’、と言っていた。朝鮮人とは親しかった。朝鮮人の仕事はレールや鉄鉱
   石を運ぶ仕事だった。大変な仕事だったがやらなければ仕方がなかった。
    上海の人たちもつかまって何千人も連れてこられていた。その中には大学生もかな
   りいた。学生は知識があり上海の労働者を組織して抵抗する恐れがあるので、日本軍
   は注射をして殺し、死体を火で焼いた。わたしは学生に注射をするところをこの目で見
   た。それを見て悲しくて泣いたが、日本兵は泣くな、と怒り、泣くとお前にも注射するぞ、
   と脅した。八所の港のとなりで万人坑に近いところで注射をした。
    わたしは香港の労働者が食べるコメや水を運ぶ仕事をした。八所の港に労働者の宿
   舎があり、この宿舎に食料と水を運んだ。私も含めて2-3人の若い女性で何10人分の
   食事を作った。宿舎の掃除もさせられた。二つの大きな鍋でコメや野菜を煮た。コメは
   日本軍がもってきた。‘メシ、メシ’、‘ブタ’、‘タベル’という日本語は今も覚えている。
   この仕事をしたときはお金をもらえなかった。水を運ぶ、ご飯を炊く、野菜を煮るなど
   の仕事をした。
    香港の労働者の責任者だった男性が病気になったとき、伝染病の疑いがあるという
   ことで動けないその人を運んで火に投げ込み、焼き殺そうとした。その人はまだ動け
   たので熱くて火から飛び出してきたが、また火のところに強引に何度も連れ戻して押
   し込み、焼き殺した。私はそれを見て泣いた。焼かれた場所は香港の労働者の宿舎の
   近くだった。そこから焼かれた場所が見えた。
    宿舎は立派な宿舎も、みすぼらしい宿舎もあり、よく働く人は立派な宿舎に、怠けた
   り抵抗する人はみすぼらしい宿舎に入れられた。港であたりを見回すと、港じゅうが
   人の頭だらけで、色々なところから来た人が働いていた。朝鮮人、台湾人、香港人、上
   海人、イギリス人、アメリカ人、インド人などだ。
    反抗する者は捕まえられてトラックで連れて行かれ、穴を掘って軍刀で切り殺され
   埋められた。蜂起を企てた香港人の夫婦がいて、監獄に閉じ込められた。ふたりには
   7歳の娘がいて、わたしはその娘がふびんでその子を養子にして育てたい、と日本軍に
   申し出た。しかし、夫婦が悪い以上、子どもも同罪だと言って許されず、娘も夫婦と一
   緒に殺された。
    八所の村からはたくさんの人が働きに行った。村から八所港まで毎日歩いて働きに行
   った。1日に5毛をもらった。14歳から16歳のときは砂やレンガを運んで宿舎を作るため
   の仕事をし、お金をもらった。宿舎を作ったのは台湾の労働者たちだった。宿舎に住ん
   でいたのは香港人が一番多かった。香港の労働者は多くが騙されて連れてこられたひと
   たちだった。17-18歳になるとコメが炊けるようになったので食事の支度をする仕事を
   した。宿舎には鉄条網を張った宿舎はなかった。
    八所港には監獄跡があるが、そこは死んだ人の骨を置いておく場所で、骨の入った箱
   がたくさん積んであるのを見たことがある。監獄を建てたのは台湾人だった。人を閉じ
   込めておく監獄は必要ない。なぜならすぐ殺してしまうからだ。
    万人坑のあったところは死体を捨てた場所で骨がたくさんあった。骨を足で踏んだこ
   ともある。死体を捨てるところを見たこともある(傍で聞いていた秦魏さんが、‘子ども
   のころその近くに遊びに行って人骨を見たことがある’、と話しました)。骨は2002年こ
   ろまでたくさんあったが、2005年ころになるとあまり見なくなった。
    日本軍がいなくなったのはわたしが20歳のときだった。しかしそのときはなぜいなく
   なったのかわからなかった。日本の敗戦後に、香港から来た人たちは戻った人もいれば、
   周辺の村に住みついた人もいる。
    わたしが解放後日本人を見たのはあなたたちが初めてだ。解放後に結婚し、4人の男の
   子と2人の女の子を生み育てた。夫は37歳で亡くなった」。

 張老桃さんは以上のように貴重な体験を話してくださいましたが、秦魏さんは朝鮮人についての張さんの話を今まで聞いたことがなかったということで、同じ八所の村の中でも若い世代に当時の事が詳細に伝えられていないことが分かります。
 万人坑はかつての場所から移されてしまいましたが、この万人坑の移設はマンション建設という不動産業の利益のために役人が強行したことで、博物館館長の秦魏さんはこれに強く反対したのですが、省政府の命令で強行に押し通された、と憤慨していました。

 続いて、張仁常さん(90歳)宅を訪問し、話を伺いました。
   「わたしは15-16歳の頃、八所の港で仕事をした。薪や土や鉄鉱石を運ぶ仕事をした。
   豚のえさを運んだり豚のふんを捨てる仕事もした。朝から夜まで働いて、1日3毛もらっ
   た。3毛というのは油を少し買えるくらいのお金だ。お金は親に渡して、たまると服を買っ
   てもらった。村長の命令で、村からはたくさんの人が働きに行った。 
    仕事中にたくさんの日本語を覚えた。「おとうさん、おかあさん、おじいさん、さとう、しお、
   くつ、くつした、にほんじん、あっちいけ、おはよー、しゃつ」という言葉をいまでも覚えてい
   る。港にある宿舎で住人の世話をする仕事をしたが、そこに住んでいたのは軍服ではな
   く普通の服を着た日本人だった(西松組の社員ではないだろうか―斉藤)。
    宿舎では大きな桶に水を入れて風呂をわかす仕事をした。宿舎のひとたちは食事をした
   後、車でどこかに出かけたが、どんな仕事をしていたのかは知らない。
    港では、朝鮮人、台湾人、香港人、上海人、イギリス人、アメリカ人、インド人などいろん
   な人が働いていた。体が大きい人は大きな木を切る仕事した。
    朝鮮人は何でもやった。その人が朝鮮人だ、ということは本人から聞いた。若い20代の
   女性の朝鮮人もいた。彼女たちはそんなに数多くはないし、どこに住んでいたかもわから
   ない。彼女たちが散歩しているところを見たことがある。仕事はしていなかった。日本人
   か、と聞いたら、朝鮮人だと答えた。八所の港で朝鮮人の住んでいる家の周りを掃除し
   たこともあった。便所のそうじもした。そのときその女性が「わたしは日本人ではない、
   朝鮮人だ」、と言った。
    上海人は食事が割合豊かで、豚や鶏を食べきれないときには捨てずにこっそりと土の
   中に埋めた、後になってそれを掘り起こして食べた。どうして埋めたかと言うと、日本
   人に見つかると食事を減らされる恐れがあったからだ。
    上海の労働者は皮膚病になった。不衛生のために皮膚病になったのではなく、日本人
   に注射を打たれたためだ。皮膚から泡が噴き出ていた。なぜ上海人をそのようにして虐
   待したのかは知らない。上海人は体が大きかった。
    わたしは5年くらい仕事をして日本が敗戦した。1年目は土運びやごみ処理の仕事をし
   た。2年目は鉄鉱石や水を運ぶ仕事をした。列車に荷物を運ぶ仕事もした。3年目はトラ
   ックに乗って宿舎にでかけ、日本人のために風呂の水を入れる仕事をした。宿舎は木で
   できた立派な家だった。4年目は食事の支度をした。トラック3-4台分のコメを運んでき
   て、20人分くらいのコメを炊いた。野菜を調理したり、掃除の仕事もした。野菜は大根
   を干したものや白菜などを使った。
    日本兵は港で働いている労働者を殴るなど虐待した。けがをして動けなくなった人を
   万人坑に生きたまま捨てた。捨てられたひとはそのままやがて死んでしまう。
    餓死した人、けがをしている人を、死んだ人も生きている人も捨てた。日本人はひど
   いことをした。埋めずにただ捨てるだけだ。そこは砂丘で、人の住んでいないところだっ
   た。そこが万人坑になった。そこには霊魂がさまよっているというので怖くて近寄れなか
   った。砂丘なので強風で砂が飛ぶと埋まっている人骨が地表に出てくる。
    日本軍の仕事をする前、15歳になる前だったか、日本兵が労働者を殺すところを見た
   ことがある。労働者をトラック3台に乗せて、川のそばに運び、そこで穴を掘らせて、首
   を切り、その穴に埋めた。上海の労働者のようだった。その中には大学生もいた。牛追
   いの仕事の途中で自分の眼で見た。上海の労働者が反抗を計画していたため反抗者の
   名簿を作り、その名簿の労働者をトラックで運んで殺した。骨は洪水の時に海に流され
   てしまったので、いまはもうない」。

 お二人の話を聞いた後、午後は四更鎮英顕村を訪問しました。そこで、ことし3月にお会いした村民委員会の書記の趙順華さんに会いました。この村でも80人ほどの村人が殺されていて、その名簿を作っていただくよう頼んでいたのですが、まだ名簿はできていない、と言うことでした。
 3月に証言を聞かせていただいた103歳になる趙開毅さんの家を訪ねたのですが、体調が悪くて呼吸も困難な状態で話を伺うことが難しいと分かりました。そのほかに、92歳の方が存命ですが、現在は八所に住んでいるとのことで、お会いすることができませんでした。
 英顕村を離れて、八所鎮新街村に行きました。ここは横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の司令部があったところで、日本語教育も行われていました。そこで子供の頃日本語学校に通ったことのある傀定平さん(79歳、男性)のお宅を訪ねました。傀定平さんのお宅は2002年以来の再訪でしたが、お元気な姿で再会することができました。
 傀定平さんに案内されて、墩頭村に行きました。墩頭村は新街村のとなりで傀さんが生まれ育った村です。その港のそばの日本軍の望楼跡や爆撃を受けた小学校があった場所などを見ました。
 墩頭村の魚港で傀定平さんは次のように話しました。
   「ここに日本軍の望楼と兵舎があった。望楼から新街の街や墩頭湾を見下ろすことができ
   た。望楼に入るときはお辞儀をして入った。私の日本語の教師だった近藤はここに住んで
   いた。かれは軍人だったが、日本語の教師もしていた。馬に乗りひげをつけていた。1945
   年8月から捕虜として海南島にいて、1947年に日本に帰った。帰るときは教え子だった12
   人が見送った」。
                                  三亜市泊

■11月21日(土)
 9時に三亜市から「朝鮮村」に到着し、「朝鮮報国隊」として海南島に連行された朝鮮人の遺骨が埋められている現場に向かいました。
 追悼碑のまえの土地は、前回来た時には背の高い草が茂っていたのですが、さつまいも畑に変わっていました。展示館の建物はそのまま残っていましたが、なかの展示物はガラスケースの人骨をはじめ展示物のほとんどが持ち去られています。ガラスケースの上には砕かれた骨の入った陶器の骨壺が65個、奥のガラスケースの上に17個、合計82個の骨壺が置かれています。そしてそれとは別に、床に骨壺が207個置かれていました。その中には骨の入っていない空の骨壺もありました。
 近くにある小学校は改築され、三亜市吉阳区南丁小学校となっていました。小学校の3階に上がらせていただいて教室の窓からのぞくと、以前に骨壺が収められていた建物の跡が見えました。
 そのあと、わたしたちに朝鮮人の虐殺の様子を詳しく話してくださった周学勤さん(1936年生)のお宅を訪問しましたが、周さんは2014年4月に亡くなられていました。わたしたちは2014年3月末に「朝鮮村」を訪問し、病床で寝たままの周さんを見舞っているので、わたしたちが訪問したすぐ後に亡くなられたのです。
娘さんの周梅美さん(1969年生)が、位牌の前で、
   「日本軍が朝鮮人を殺したことは、小さいころに父から聞いた。骨も見たことが
   ある。学校の近くの道で路面に骨が出ていたのを見たことがある。酸梅樹の木に
   朝鮮人をつるして殴り殺した、という話も聞いた」
と話しました。
 そのあと、周さんのお隣りに住む符亜輪さん(1916年生)宅を訪問しました、符さんはお元気でしたが、あまり話されませんでした。ご子息から話を聞きました。
   「最近は追悼碑の場所を訪問する人はいない。あのあたりの土地は政府のもので
   村では土地を使えない。朝鮮人犠牲者の記念碑はもっときれいにすべきだ。遺骨
   が埋められている場所に製陶工場が出来た時も、人骨が出てきて、人骨を運んで
   捨てた、と聞いている。骨は大切に扱うべきで、外事課に話してはどうか」。

 「朝鮮村」を離れ、隣の中村を久しぶりに訪問しました。
 2002年にお会いした符永青さんは2015年10月4日に55歳で病死したとのことでした。お連れ合いとその子息にお会いしました。2002年3月26日に、南丁山にいっしょに登った方々です。

 三亜市に戻って昼食をとった後、陵水県英州鎮大坡村を訪問しました。
 2000年春と2003年春に話を聞かせていただき日本軍飛行場あとなどを案内していただいた胡京宏さん(1927年生)は2008年3月に亡くなられていました。
 お宅に伺い、長男の胡林海さん(1960年生)に話を伺いました。
   「父は中国大陸の汕頭から海南島に連行され、解放後も海南島に住み続けた。汕頭
   語や海南語だけでなく客家語、日本語などたくさんの言葉を話せる優れた能力の持
   ち主で、村人からも尊敬されていた」。

 そのあと、胡林海さんに案内をしていただいて、日本軍が作ったトーチカに案内していただきました。そこのトーチカは頑丈にできていて、中にダイナマイトを入れて破壊しようとしたが壊すことができず、そのため今でもそのままにしてあるそうです。トーチカの下側は2段ほどがレンガでできていて、そのほかはすべてセメントでできていました。
 このトーチカのすぐそばに住む陳内田さん(86歳、女性)からつぎのような話を伺うことができました。
   「わたしは英州鎮村仔の出身で、17歳頃にその村で日本軍のために仕事をさせられ、
   19歳の時にこの大坡村に嫁いできた。日本軍の仕事は、洗濯をしたり、ヤシの実やコ
   メを運んだり、良いコメと悪いコメに選別する、などの仕事だった。
    日本軍は飛行場をつくるためにヤシの木を切り、それを浜辺まで運ぶ仕事をさせた。
   6人ないし8人で一組になり、太い椰子の木を浜辺まで運んだ。距離は2-3キロはあっ
   たと思う。肩が痛くて時々休んだ。浜辺に運んで砂を固めるやめにヤシの木を敷いた。
   近くの村や本土から来た人たちも働いた。
    言われた仕事ができないときはひどく殴られた。例えば、靴を修理しろ、と言われて
   できなかったので殴られた。日本軍が万人坑で人を焼き殺すのを見たことがある。 
    日本軍は村の近くに住んでいて、床板が木の家に住んでいたので、日本兵が歩くと
   大きな音がするので、その音を聞くたびに怖いおもいをした」。

 そのあと、殺された人が多数に埋められている万人坑に案内をしていただきました。
 そこには2012年に英州鎮大坡村委員会などが建てた新しい碑がありました。「英州日軍殺害八千同胞遺址」と刻まれています。碑の横の説明板には、1942-45年に朝鮮、南洋などから労工8000人余りが連れてこられ犠牲になった、と書かれています。しかし8000人の名前はほとんどわかっていません。
 胡林海さんの話では、胡京宏さんは毎年春の清明節に胡林海さんを連れて、かならず万人坑に来たそうです。万人坑に埋められている犠牲者の追悼は村民委員会としてはおこなっていないということでした。胡京宏さんは個人的に追悼を毎年行ってきました。
 ここには多くの人の遺骨が埋められていますが、胡京宏さんは動けなくなりここに捨てられて焼き殺されようとしたが、幸いに雨が降って火が消えたために生き延びることができた方です。
 万人坑のある場所から遠くに2003年に胡京宏さんに案内をしていただいたときの飛行場跡の塩がにじみ出ていたあたりが見えました。そこには高層アパートが建てられていました(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』57頁参照)。
                                  万寧泊
                                             斉藤日出治 記
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