三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

万寧市烏場郷春園村で

2007年10月17日 | 海南島史研究
 月塘村は、北側の月塘と南の太陽河にはさまれています。月塘村から太陽河に沿って北東に10キロほど行くと、烏場郷です。
 月塘村虐殺をおこなったのと同じ海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵たちは、1945年5月2日(農暦3月21日)の月塘村虐殺の1か月あまり後の6月5日(農暦4月27日)、烏場郷でも、住民虐殺をおこなっていました。
 そのことに、ふれた記述は、2005年4月にだされた烏場郷志編纂委員会編『烏場郷誌』だけです。
 わたしたちは、10月6日に、烏場郷春園村委員会書記の劉紹学さんから『烏場郷誌』の当該記述をはじめて示されました。その翌日、わたしたちは、烏場郷春園村出身で万寧市内に住む劉光清さんに案内されて、烏場郷春園村で3人のかたから話をきかせていただくことができました。3人の証言は、つぎのとおりです。劉勝雄さんは、劉光清さんのお兄さんです。
                          佐藤正人

劉開全さん(1925年生)
 「日本兵が来たのは朝だった。2人か3人来た。母が日本兵に殺された。開朗の妻の弟の妻も殺された。
 日本軍が襲って来たのは、烏場の2人が日本軍のところに行って春園のみんな山に行って共産党に入ったと報告したからだった。それで、日本軍が村に入ってきて共産党を捜し、関係のない村人26人を殺したのだ。
 日本兵がわたしの家に来たとき、家の入り口にいた母はすぐに胸のあたりを刀できりつけられて殺された。わたしは部屋のなかに積んであった稲束の中に隠れて助かった。
 日本兵は人を見たら殺したが、家の中は捜索しようとしなかった。
日本兵は、あのとき、銃剣で刺殺した。発砲するとその音を聞いてみんなが逃げるからだ。
 あの日、壁を隔てた隣の家に1歳にならない赤ん坊がゆりかごで眠っていた。その赤ん坊を見つけると、日本兵は銃剣で突き刺して、かざした。
 日本兵がいなくなってから、2人の姉と母の遺体を草のむしろにくるんで埋めた。

 日本軍に軍用道路建設をさせられたことがある。数か月間だった。毎日ではなかった。大きなくわで土を掘らされた。日本軍は、金も食べるものもくれなかった。
 日本兵は、女性を見つけると、強姦した。
 ある日、万城の女性が親戚をたずねて村に来た。3人の日本兵がその女性をつかまえ、わたしの家で強姦した。当時、わたしは村の女性たちが日本兵を避けて歩くのを助けていたが、その女性を助けることはできなかった。
 近くの烏場港の高台に日本軍は望楼をつくって駐屯していた。10人あまりいた。日本兵はそこから毎日降りてきて、女性をさがし、共産党をさがした。
 日本軍は食料も奪った。日本軍は、村人が魚を捕るのを見つけると、いちばん大きな魚を奪った。それがいやだという人を、日本兵は、犬にかませた。
 日本軍のことを思い出すと、いまでも怖い。日本軍はとても悪かった。理由なく人を殺し、放火した。
 当時は飢饉だった。何か月も飢えて過ごした。食べるものがなく、パパイヤの樹をけずって食べたこともある。
 1947年に革命に参加した」。

占振鵬さん(1924年生)
 「1945年農暦4月27日、日本軍が村に来たとき、畑から家にもどる途中だった。
 家に戻ると日本軍はすでにいなくなっていたが、家のなかの物が奪われ、父が床に倒れていた。すでに息がなかった。手首を切られ、心臓を刺されて即死していた。父の名は、占維賢。ちょうど60歳だった。母は、その前に病死していた。
 あの日、日本兵は、占家輪と占振后を銃で撃って殺した。父の占家輪に抱かれていた1歳の子どもの修雄が、父の身体の血をなめているのを、わたしは家に帰る途中に見た。
 日本兵は、占振楓、占振裕、振裕の妻の3人も銃で殺した。

 わたしは、日本軍に道路をつくらされたことがある。仕事にいかないとなにをされるかわからないので、行かないわけにはいかなかった。金はくれなかった。食べ物もくれなかった。毎日ではなく、交代で働かされた。数か月働かされた。女も働かされていた。女の数は、あまり多くなかった。工事排水路を掘ったり、土盛りをさせられた。女も働かされていた。みんな、一日仕事をして、殴られないと、その日は幸運だと感じていた。
 1944年の飢饉のときには、ほんとうに苦しかった。村人がおおぜい餓死した。一家が全員餓死した家もあった。さつまいもの葉、パパイヤの樹の幹など、なんでも食べた。わたしの祖父は、丘にさつまいもを植えたが、まだ小さいうちに全部盗まれてしまった。
 ジブンギャ ナゥティウー(日本仔を徹底的に憎む)。思い出すだけで、怖い。
 若い女性は、年寄りのような格好をしていた。そうしなければ、みつかったら強姦された。
 日本軍がいなくなってからは、それまでのように怖がらなくてもよくなり、みんな安心して暮らせるようになった」。

劉勝雄さん(1939年生)。 
 「兄と瓜に水をやるために水を担いで行く途中、日本軍に出会った。わたしたちは日本軍に敬礼したので、殺されなかった。そのあと、日本軍は村に入った。銃声がなんども聞こえた。その少し後に、お爺さんが村から逃げて出てきた。そのお爺さんになにが起こったかと聞くと、村人を日本軍がおおぜい殺していると言った。
 それで恐ろしくなって草むらに隠れた。
 1時間ほどたつと、銃声が聞こえなくなったので、村に戻った。7人か8人の遺体があった。日本軍は、奪った食料を入れた竹でつくった籠を、烏場村の村人に担がせて運ばせていた。
 わたしの家にあった200キロのもみも全部日本軍に奪い去られていた。
 わたしの家には田んぼがなかったので、あのもみは、母がどこからか交換してきたものだった。
   
 当時、わたしの家の家族は8人だった。食べものがなくなったので、父と兄とわたしの3人は別のところにいって物乞いをした。あのときはそれ以外に方法がなかった。父はわたしをほかの人に預けようとしたが、その人は断った。
 母は、飯や米麺(コメ粉でつくった太い麺)などをつくって売り、それで家の人たちのめんどうをみていた。しかし、家の人の人数が多くなって、めんどうをみきれなくなり、弟が餓死した。
 日本軍がいなくなってからは、村人は安心して農業をして生活した。
 日本軍は、性格が荒く、凶暴だった。
 強く日本軍を恨む」。
コメント
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