三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告

2007年10月15日 | 月塘村追悼碑
 10月7日、月塘村に「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」がはりだされました。
 それは、10月6日付けで籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組によって作成されたもので、「籌建(チョウジェン)」とは、計画して建設をすすめるという意味の漢語です。
 そこには、
   一、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組が成立したこと、
   二、建設費は、1、村民全員の捐献、2、海南島近現代史研究
    会の協力によること、
   三、建碑地は、月塘朱氏祖祠の西側であること、
   四、建碑地にいまある樹木や建物などは、商議して移転するか
    取り壊すこと、
   五、日寇殺害村民の実数と名前を確認すること、
の五項目が書かれています。
 籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の組長は、月塘村委員会書記の朱進平さん、副組長は朱振華さんと朱学基さんで、成員は朱進春さん、朱建華さん、朱全治さんら「幸存者」をふくむ15人です。

 10月6日午後2時半から、朱振華さんと朱学基さんらが立ち会って、風水師による追悼碑建立予定地の観測がおこなわれました。その場所は、追悼碑を建てるのにたいへんよいとのことでした。
 そこは、月塘に面した広場で、日本軍が襲ってきたとき朱学平さんの家があった場所のすぐ近くです。62年まえは、深い林だったそうです。

 その前日、10月5日に、わたしたちは、朱学孔さん(1934年生)に、虐殺現場で話を聞かせてもらいました。朱学孔さんは、ときどき声をつまらせながら、つぎのように話しました。
    「あのとき、日本軍が家の門から侵入し、すぐに小さな部屋で
   殺人をはじめた。9人が殺された。母、父の2番目の弟(朱開賢)、
   朱開賢さんの妻、朱学訓の父(朱開椿)、華蓮、東魯、朱学遊の
   母(呉氏)、学遊の兄(名前はまだなかった)、鴻勝が、庭で銃
   で撃たれて殺された。家のなかも、庭も、血だらけだった。
    日本兵が来たとき、母はわたしを寝台の下に隠し、自分は戸
   板で体を隠した。当時の戸板は、竹でできていたので、日本兵
   が家を焼いたとき、母は見つかってしまった。
    日本兵は母を刀で何度も刺した。母は、気を失ったが、醒め
   て水がほしくなって、わたしを抱いて水のところに行った。這
   って水のところに行って、一口飲んだら、すぐに母は死んだ。
    一人の大人が二人の子どもの遺体をかごにいれて運び、大人
   の遺体は二人の大人がかごで運んで、いっしょに埋めた。
    日本が敗けたあと、遺骨を探して、埋葬しなおした。
    あの日、父と弟は、やまに芋を見張りに行っていたので助かっ
   た。そうでなければ、家にいて殺されただろう」。
                                  佐藤正人
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