真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「おしやぶり天国 汚れた唇」(1995『人妻・OL・未亡人 新・性愛実話』の2005年旧作改題版/製作・配給:新東宝映画/監督:深町章/脚本:双美零/企画:中田新太郎/撮影:稲吉雅志/照明:伊和手健/編集:酒井正次/助監督:田尻裕司/監督助手:菅沼隆/撮影助手:片山浩/照明助手:小田求/スチール:津田一郎/録音:シネ・キャビン/現像:東映化学/出演:三橋里絵・樹かず・風間あきら・平岡きみたけ・林由美香・杉原みさお・杉本まこと)。出演者中風間あきらが、ポスターには風間晶。
 パリの土産物屋で、飛鳥(林)はセックスの願ひが叶ふとかいふお守りを手に入れる。モテにモテ倒したパリからの帰国後、飛鳥はお守りを友人で未亡人の萌子(三橋)に貸す。無論、飛鳥がフランス男にモテまくるパリ・パートが、欠片も描かれはしないのはいふまでもなからう。独り遊びの味も覚え、こんなもの必要ないと思ひながらも、萌子はお守りを手にひとまづ帰宅。したところに、長く日本を離れ発掘作業中の考古学者の義弟・柾郎(樹)が急に帰国。オアシスで義姉さんを想ひながらオナニーしてゐたんだ、といふ柾郎に迫られるまゝに、萌子は柾郎とセックロス。事が済むと、義姉さんも僕のことを想ひながらオナニーしててね、と無茶苦茶な置手紙を残し柾郎は再び旅立つて行く。
 それぞれ悩みを抱へる女々の手を渡る、セックスの願ひを叶へて呉れるお守り。てな塩梅で女達が体験するめくるめく色事の数々を、オムニバス風に描いた一篇。正味な話各篇の殆どは濡れ場で占められてあり、右から一昨日に流れて行く一作でもある。画調も女優陣もただ単に古臭いといふだけで、林由美香の映画を観るのも案外久し振りだなあ、といふ以外に、所々数へるばかりの断片的な見所以外にこれといつた何某かがある訳でもない。
 OLの茂美(風間)が、萌子からお守りを又貸しされる。いはゆる尽くすタイプの女なのだが、その分都合のいい女として扱はれがちなことに茂美は悩んでゐた。けふも彼氏・浩二(平岡)にいいやうに扱はれる。浩二は、出すだけ出すとそゝくさとホテルを後にしようとする。「中々良かつたよ」といふ浩二の投げやりな台詞に何故だか急に激昂した茂美は、人が変つたかのやうな女王様キャラに豹変。実はMなのだかどうかは判らないが浩二を木端微塵に蹂躙、どうした次第だか二人はラブラブになる。流石に御都合にもほどがあるやうな気もしつつ、茂美が豹変する瞬間に挿み込まれる、引張られた赤い糸がプツンと千切れるイメージ・ショットがポップすぎて却つて可笑しい。
 手元に戻つたお守りを飛鳥が自慢してゐると、今度はセックスレスに悩む先輩で人妻の青田みのり(杉原)に持つて行かれてしまふ。飛鳥は激しく後悔する。何となれば、飛鳥の不倫相手といふのはほかでもない、みのりの夫・耕作(杉本)であつたからだ。みのりがお守りを手にボンヤリと夫の帰りを待つてゐるとチャイムが鳴る。耕作の帰宅かとぬか喜んだのも束の間、単なる宅急便であつた。ただ届いたのは、送つてみたレディコミの懸賞で当たつたジョイトイの数々。仕方なく、みのりは自らを慰め始める。杉原みさおは、首から上は判り易く不細工なのだが、首から下は本当に綺麗な体をしてゐる。一方その頃耕作は、相変らずか案の定、残業と偽り飛鳥と逢瀬の真最中。性具で自らを慰め強烈に夫を求めるみのりの叫びが、物理的隔たりを無視して耕作の耳に届く。耕作は飛鳥を捨て妻の下に戻り、夫婦は熱く結ばれる。みのりのシャウトが耕作の耳に届く瞬間映画は偶さか正調のエモーションを手にし、「バカーッ★」と激しくむくれる林由美香の可愛らしさは時代を超える。
 受付のユミちやん(一切登場しない)をゲットしようとした耕作の他愛もない小細工は功を奏せず、お守りは然るべき持ち主の手元へ再び戻る。

 萌子篇で一番面白いのは、遺影としてのみ登場の亡夫・タクロウ役で、クレジットには一切掠りもされない伊藤猛が飛び込んで来るサプライズ。


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 「好色ドクター 不倫のすすめ」(1993『人妻不倫 濡れ濡れ』の2005年旧作改題版/製作・配給:新東宝映画/監督・脚本:深町章/撮影:稲吉雅志/編集:酒井正次/助監督:今岡信治/出演:石川恵美・林由美香・扇まや・杉原みさお・池島ゆたか・平賀勘一)。
 実のところは、散発的にエクセスが提供するロマンポルノの方がモノとしては古い訳であるが、中身が乏しいのと撮影がチャチなこととが相俟つて、今作の方が火に油を注いで古びて見える。即ち、一言で片付けてしまふならば旧作を改題するならするで、もつと他に映画は幾らもあるぢやろが、さういふ一作ではある。
 あまりに古過ぎて、役名その他映画に関するスペック・データを調べようにも全く出て来ない。池島ゆたかが父親で、女癖の悪さが始末に終へない医者。石川恵美が夫の度重なる浮気に終に精神の平定を乱してしまひ、新興宗教に没頭して家庭のことも半ば顧みなくなつてしまふ母。そして林由美香は娘でOL、さういふ家庭をメインに据ゑたホーム・ドラマである。扇まやは池島ゆたかの患者兼浮気相手の和服人妻、杉原みさおは池島ゆたかの医院のノーパン看護婦。冒頭の絡み―池島ゆたかの夢オチ―は池島ゆたかVS扇まや&杉原みさおの3Pで、扇まやと杉原みさおに両側から抱へ上げられた池島ゆたかが床の間から庭に向かつて放尿する、といふピンク映画史上に残る醜いシークエンスを展開する。どうでもいいが、扇まやと杉原みさおは女二人でよく池島ゆたかを持ち上げたものだと思ふ。そんな池島ゆたかの午睡は、団扇みたいな太鼓―何ていふのだ、ああいふの?―を乱打しながら妙法蓮華経を連呼する、石川恵美によつて破られる。
 平賀勘一は、妻子ある林由美香の上司。由美香とは、不倫関係にある。ラストのネタバレとしては、<娘の不倫を知つた池島ゆたかが、自らも気が触れ太鼓を叩き妙法蓮華経を連呼し始める>、といふもの。ここで石川恵美が一言かけるのがオチになつてゐる筈なのであるが、終始ヒステリック気味に喚き散らす石川恵美の台詞は何をいつてゐるのか聞き取れず、ネタが機能してゐない。

 因みに本作は元尺から五十二分、しかもあちらこちらフィルムが飛ぶと五十分にも満たずに、アッといふ間に映画は明後日から一昨日へと流れ去つてしまふ。


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 「覗いてみたい夫婦の寝室」(1993『いんらん家族 若妻・絶倫・熟女』の2006年旧作改題版/製作・配給:新東宝映画/脚本・監督:深町章/企画:森あきら/撮影:稲吉雅志/照明:伊和手健/編集:酒井正次/助監督:原田兼一郎/監督助手:河口智幸/撮影助手:郷田有/照明助手:広瀬寛巳/スチール:津田一郎/録音:銀座サウンド/現像:東映化学/出演:池島ゆたか・林由美香・荒木太郎・石川恵美・杉原みさお・しのざきさとみ・井上あんり)。
 新之助(池島)は妻は既に亡くし、息子・新一郎(荒木)、嫁のみゆき(林)と同居してゐる。なかなか息子夫婦が子宝を授かれずにゐるのが悩みの種の新之助は、家に出入りする壷売りのタカ子(石川)に救ひの手を求める。
 最早鮮やかなまでに、ハウス・スタジオから一歩も外たりとて出でない桃色ホーム・ドラマであるが、今作兎にも角にもまるで解せないのは、そもそも壷売り女とは何ぞや?といふ、序盤に落とされる巨大かつ致命的な謎。結局は初々しい林由美香と荒木太郎の若夫婦と、池島ゆたかのエロ親爺ぶりまでは全く順当であつたものの、手際よく基本設定を整理した夕餉から新一郎とみゆきの子作り挿んで、タカ子登場からは結局全篇を貫き最後まで疑問は払拭されないまゝ、ダラダラとした濡れ場がたて続くだけの苦行に展開は堕してしまふ。
 杉原みさおはタカ子の放つ一の矢、役名不明。みゆきの懐妊が主眼である筈なのに、新之助の衰へぬ性欲を処理して終り、何しに出て来たのだか全く判らない。しのざきさとみと井上あんりは、二の矢の霊感マッサージ師・千夏と千秋。ここから更に、メリハリを欠いた時代を超える術も持たない絡みが延々と続き、何の脈略もないオチが投げ放されて終幕。流石に映画自体が救ひやうもない以前に、そもそもこの期に、わざわざこんなものを見せられてゐる方が全く救はれない。

 火に油を注がん勢ひで、腹立たしいのも通り越し恐ろしくすらなるのは、今作、実は1999年に「いんらん家族 息子の嫁さん」と既に少なくとも一度旧作改題されてをり、今回は恐らく二度目の新版公開である点。全く、勘弁して欲しい、とでもしか残る言葉も見当たらない、演者のメモリアルとして以外には一切世紀を跨ぐに値しまい凡作である。


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 「3人の痴女 電車の中で」(1992『痴漢電車 熟女の太股』の2007年旧作改題版/製作・配給:新東宝映画/監督:深町章/脚本:周知安/製作:伊能竜/撮影:稲吉雅志/照明:伊和手健/編集:酒井正次/助監督:国分章弘/監督助手:原田兼一郎/撮影助手:斉藤博/照明助手:小田求/スチール:津田一郎/現像:東映化学/録音:銀座サウンド/出演:橋本杏子・久保新二・南城千秋・しのざきさとみ・久須美欽一・荒木太郎・小川真実・杉本まこと・深田みき)。脚本の周知安と製作の伊能竜は、それぞれ片岡修二と向井寛の変名。あと出演者で、ポスターにのみ飛田翔。
 袖摺り合ふも他生の縁、とは申しますが。満員電車に揺られる現代人には、“袖摺り合ふ”だなどと悠長なことはいつてられません・・・。大略そんな感じの、名調子のナレーションにより綴られる三篇のオムニバス。このナレーションが、誰によるものなのかが判らない。声色を変へた久保新二に聞こえなくもないのだが、この人さういふ芸もあるのかなあ?
 第一篇、英単語の参考書片手に満員電車に揺られる長髪イケメン高校生のヒトシ(南城)が、痴女(橋本)の毒牙にかかる。女に引き摺られるまゝ電車を降りたはいいものの、駅を出たところで強面のお兄さん(この人が飛田翔?)登場。いはゆる美人局に、ヒトシは有り金全部を奪はれる。一年後、浪人生になつたヒトシは、母親とは離婚した大学教授の父親・ハタヤ(久保)から、結婚する予定であるといふ女性を紹介される。実はハタヤの教へ子でもある、女子大生のカスミを前にしたヒトシは目を疑ふ。カスミこそは、一年前にヒトシが酷い目に遭はされた痴女であつたのである。「俺はあの女を、あの女を、絶対に・・・・」、“認めない”と続くものかと思ひきや、「絶対に強姦してやる」と無茶苦茶な決意を胸にカスミを呼び出したヒトシではあつたが、気勢を制せられると連れ込みで精を絞り取られ返り討ちに。「親子が兄弟になつてどうするんだよ」、と投げやりなヒトシのモノローグで締める。
 橋本杏子といふ人は、正直小生のリアルタイムよりは完全に以前の女優ではあるが、判り易く欲情に潤んだ芝居ぶりは、近いところでは泉由紀子に似てゐるやうな気もする。必死にイケメンを演じようとしてみせるのが微笑ましい南城千秋は、その実実にユニークな顔立ちをしてゐる。
 第二篇、アキコ(しのざき)の母親は既に亡く、父親(久須美)と二人暮らし。劇中設定年齢は因みに二十七なのだが、しのざきさとみが恐ろしく若い。父親は婚期を逃し気味のアキコが気が気でなく、アキコ自身も男一人の父親を気にかけつつ、矢張り幾許かの焦りは感じてゐた。満員電車の車中、アキコは隣り合つた純情青年(荒木)を、ついつい軽い気持ちで逆痴漢する。電車を降り後を追つて来た青年と、アキコはホテルに。ぎこちない青年に、アキコは尋ねる。「あなた童貞ちやん?」、「一応、童貞です」、「何よ“一応”つて、童貞ちやんがカッコつけなくてもいいぢやないの」。“何時もの癖で”と後門に挿入しようとする巧みな伏線を挿んだ上で、事が済むと青年は衝撃的な事実をカミングアウトする。何と青年は、ゲイであるといふのだ。目を白黒させるアキコに、青年はヘテロ・セクシュアルの素晴らしさに目覚めたと交際を申し込む。勿論、現在のゲイ・パートナーとは別れた上で。次の日、ちやんと青年が別れられたかしら、と満更でもない風情で上機嫌で帰宅したアキコは、更なる衝撃的な光景に驚愕する。父親の和室では、別れ話を切り出した青年を、父親が後ろ手に縛り上げ責めてゐたのだ、ついでに二人とも全裸。青年のゲイの相手とは、何とアキコの父親であつた。激昂したアキコが、二人に悪口雑言の限りを投げつけて終り。電車パートに入る前の、「親の説教と冷酒は後で効く」といふナレーションが染みる。冒頭母親の遺影を手に、「お前が最後の女」と語りかける父親のショットもラストに巧みに繋がる。伏線の貼り具合、短篇ながら起承転結に於ける転の飛翔力と結の更にそれを上回る破壊力。この第二篇が最も、そして素晴らしく充実してゐる。
 第三篇、「ホモがゐるならレズもゐる」、と随分にもほどがある御機嫌な切り口にてスタート。車中でお気に入りの娘・フユミ(深田)を見つけるた、真性ビアンのマキコ(小川)は痴漢行為を仕掛ける。小川真実の、若さ以前にメイクと髪型とに、時代が感じられる。俄に意気投合した、二人は同棲を始める。も、要は元々ビアンではなかつたフユミが、男に興味を持つと自分の下を去つてしまふかも知れない、と危惧するマキコは気が気でない。一計を案じて、マキコは付き合ひのあるスケコマシ(杉本)に接近する。フユミを誑かし金を巻き上げ、男にすつかり幻滅させて欲しいといふのである。するとスケコマシ曰く「その女、コマしていいのか?」、黒い杉本まこと(現:なかみつせいじ)がスパークする。普通ならば読点のところで、句点ばりにタップリと間をもたせるのが今も変らぬ杉本節。慌てて否定するマキコを、スケコマシは代りに抱かせて呉れるやう求める。仕方なく、マキコは渋々嫌々応じる。とはいへ結局、一世風靡セピアのやうな装ひでフユミに近づいたスケコマシではあつたが、フユミの純真さに情を絆され、騙して金を巻き上げるのを途中で放棄する。男が出来たフユミは、マキコの下を離れる。一方、そんなマキコではあつたが、スケコマシに抱かれた結果男の味を覚え、彼との電車内痴漢プレイに燃えるのであつた。
 勢ひで逐一を一通りトレースしてのけたが、軽妙なナレーションにさりげなくも丹念に彩られた三篇は、工芸品の趣すら感じられる。偶々同時に上映された、加藤義一処女作「牝監房 汚された人妻」(2002)も踏まへると、十年の時を超えた小川真実と杉本まことの濡れ場を一時に味はへるといふのも、それはそれとして感慨深いものがある。

 あくまで未確認ではあるが、今作、以前に一度「痴漢電車 人妻・ハイミス・熟女編」と旧作改題されてゐるかも、即ち今回は、二度目の新版公開となるのやも知れない。
 
 付記< ものの弾みでex.DMM復習したところ、ナレーションの主は何てことない、普通に久保チンである


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 「CODE46」(2003/英/監督:マイケル・ウィンターボトム/主演:ティム・ロビンス、サマンサ・モートン)、を観に行つた。マイケル・ウィンターボトムの最高傑作、といつてしまへば成程さうであるやも知れないが、それでも最終的にはこの程度か、ここ止まりか、といつた印象を強く受けた。「バタフライ・キス」(1995)、の時もさうであつたが、大変に魅力的なテーマを取り扱つてゐて、フライヤーを見てゐるとそれだけで泣けて来さうなくらゐに、もうどうしやうもないくらゐに面白さうなのに、実際劇場に足を運んでみるとそれ程でもなかつたりする、そんなことばかりである。突き詰めてみると、私はこんな(ウィンターボトム)の映画では泣けない。一応断つておくと、広島弁を理解しない向きには真つ直ぐ読解出来ない文章である。

 と、いふことで「CODE46」を観てボロ泣きした、といふ映画譚でもお届けしようと事前には思つてゐたのだがさうはならなかつたので、去年ボロ泣きした映画。もう世間一般的にはこつ酷く、四方八方から、徹底的に酷評されてゐもするが、個人的には断固として78年の(昭和換算)ナンバー・ワン、「バトル・ロワイアルⅡ」について、今回は採り上げる。

 映画には、ここから先に行つては映画が駄目になる。この向かう側に行つてしまつては映画がアホになる、安くなる、壊れてしまふといふ線(ライン)がある。何も映画に限つたことでもないが。加へて別に必ずしも線、に譬へる必要もない。壁でも枠でもそこは何でも構はない。そこから向かうに行つてしまつては駄目になる、アホになる、安くなる、壊れてしまふ。さういふ境界がある。さうとは知らずに易々とその境界を越えてしまふのは、殆ど全ての場合といつてしまつてもいいくらゐに、天才であるかあるいは多くはただのバカである。バカであつたとてちつとも構ひはしないが。
 時に、駄目になる、アホになる、安くなる、壊れてしまふ、さうと判つてゐても、要約するならば純粋な技術論の観点からは負け戦になつてしまふと判つてゐたとしても、なほ敢へてラインを越えて行かねばならぬ時もある。そこに、即ちラインの向かう側に、向かう側にこそ真のエモーションが存する場合もあるからである。

 最も判り易い例を挙げるならば、「ソラリス」で、予告篇では堂々と流してゐたメイン・テーマ中一番エモーショナルな大サビを、本篇においては終に使用しなかつた、スティーブン・ソダーバーグである。エンド・ロール時に於いてすら使はなかつた。ソダーバーグはクレバーな、決してラインを越えない映画監督である。徹底していはゆるベタ、を排する。彼は正しい映画しか撮らない。奴は決して負け戦を戦はない。私に言はせれば、だからソダーバーグには絶対に、真にエモーショナルな映画は撮れない。

 「BRⅡ」に話を戻す。公開当時基本的には袋叩きにされた「BRⅡ」に於いて中でも一番こつ酷くバカにされた、藤原竜也がアジトから電波ジャックして全世界に向けてアジるシーン。ある一定のメッセージを殆ど作為の欠片も無く、そのままにアジテーションとして遣らかしてしまつたシーンである。確かにアホである。青臭いことこの上ない。芸が無いにも程がある。芸事に関する議論は技術論を以て行ふことを旨とする、といふ立場に立つならば(誤解の無きやうに断つておくが、私はその立場を正当なものとして承認する。私の議論は例によつて間違つた議論である)、0点映画である。
 だが然し、そこでそんなアホな映画をアホであるとバカにすることは容易い。それこそそんなことはバカにでも出来る。ただ、あのシーンにおいて藤原竜也が、といふか七原秋也が伝へようとしてゐたメッセージ。「世界には六十億もの人の心があるといふのに、どうして正義はどこかの誰かが勝手に決めた、ひとつきりしか無いんだ !?」といふメッセージは、よしんば形式的にだけでなくその内容すらもがどんなに青臭くてどうしやうもないものだとしても、それでもなほ、そのメッセージは絶対に正しいことを言つてゐると私は思ふ。
 「世界には六十億の人の心があるといふのに、どうして正義はどこかの誰かが勝手に決めた、ひとつきりしか無いんだ !?」。先に私の議論は間違つた議論である、と言つた。これから間違ひの本丸に突入する。何も映画に限つたことでは勿論ないが、何の為に作るのか、誰の為に作るのか、何を伝へる為に作るのか、といつたところこそが最も肝要なポイントである、とするならば。時にどうしても伝へたい事柄があり、伝へたい相手があり、何とはあつても伝へようとするならば、結果として出来上がつたものがろくでもないものに成り下がつてしまふことが100%判つてゐたとしても、なほのことラインを越えねばならぬ時もある。負け戦を負け戦と承知の上で、なほのこと戦はなければならぬ時もある。「BRⅡ」はその時些かの怯みを見せることもなく、敢然とそのラインを越えてみせた。その結果、私は何度観に行つても何とはあつても「BRⅡ」が伝へようとしたメッセージに撃ち抜かれてボロ泣きし、敢然とラインを越えてみせたその姿勢こそが、私が「BRⅡ」を断固としてナンバー・ワンに推すところの所以である。

 竹内力扮する教師リキの最期のシーンも、無茶苦茶を通り越して出鱈目ですらある。冒頭では「人生においては勝ち組と負け組みしかない」、と生徒をバトル・ロワイアルに無理から追ひ込んでゐたのが、最後の最期になると、「人生においては勝ち組と負け組みしかない」、「だが果たしてさうだらうか《あんたがさう言つてゐたんだよ!/ドロップアウト注》?その答へはこれから《お前達が》行くこの先にある」、と七原達を(結局)戦場に再び送り返して(大した教育者である)、自らは「トラーイ !!!!!!!!」と爆死する。出鱈目すら通り越して酷いやうな気すらして来るが、それでゐてもなほ、「人生においては勝ち組と負け組みしかない、だが果たしてさうだらうか?」といふメッセージを伝へる為に、さうしてその答へはこの先お前達が、即ち観客である我々若い世代が自らの足で進み行くその先で、自らの力で探し、掴み取れといふエールを送る為に、半歩も後退りすることなくラインを越えてみせたのである。全く天晴である。全うな映画理論が決してその姿勢には首を縦に振らないとしても、構はない。私は支持する。私は全うではない。

 最後に、強引に元の話に繋げて纏めると、ソダーバーグの場合は小賢しくて嫌な奴であるといふ理由で、そのラインを決して越えないものであるのに対し、ウィンターボトムの場合は、体力が無くしてそのラインを越えられないものである、とみるところである。


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 「青いうた~のど自慢 青春編~」(2006/下北フィルムコミッション第一回協力作品/監督:金田敬/脚本:斉藤ひろし/撮影:志賀葉一/照明:吉角荘介/音楽:加藤和彦/美術:石毛朗/出演:濱田岳・冨浦智嗣・寺島咲・落合扶樹・緑魔子・斉藤由貴・豊原功補・団時朗・甲本雅裕・赤城麗子《室井滋》、他)。ピンク映画のフィールドに於いては松岡邦彦、下元哲らに提供した脚本で知られる、金田敬の一般映画初監督作品である。
 舞台は青森県むつ市。少年院に入り中学から一年留年した達也(濱田)、一つ下で知能の発達の遅れた弟・良太(冨浦)の同級生兄弟に、恵梨香(寺島)と俊介(落合)を加へた四人は、皆と上手く馴染んで歌ふことが出来ずに合唱部から追ひ出されてしまつた良太の強引な発案で、四人で“リョーターズ”を結成し卒業パーティで「ケ・セラ・セラ」を歌ふことになる。卒業パーティ当日、緊張しつつもステージに立つ四人ではあつたが、達也と敵対する不良グループの襲撃を受け、歌を歌ふことすら叶はなかつた。卒業後、達也は町工場に、良太は中華料理屋に就職する。恵梨香は昼間は美容院でアルバイトをしながら美容学校に通ひ、俊介は獣医の志望を反対されつつも、医師である父親の敷いたレールに乗り、東京に進学する。達也と恵梨香は付き合ひ始める。達也の父親は中古車販売業を営んでをり、幼少時は家庭も裕福であつたが、やがてチェーン系の大手系列店に敗れ父親の会社は倒産。父の自殺後、一家は残された借金でさんざ苦労する。その為達也には金銭への執着と強烈な上昇志向とがあり、やがて達也は町工場での地道な仕事を捨て、一旗揚げるべく東京に旅立つ。四人は何時しかバラバラになる。そんな折、むつ市にのど自慢大会がやつて来る。良太はもう一度、今度こそ「ケ・セラ・セラ」を歌ふ為に、四人で昔のやうに集まる為に四人の名前で応募する。恵梨香の母・留美(斉藤)、苦労して功為し名を遂げた後(のち)に故郷に帰つて来た通称“教授先生”(団)も、それぞれの想ひを歌に込めてのど自慢大会に出場する。
 “音楽の富を奪取せよ”―然しこの男もいふことが古いな―とばかりに登場人物がそれぞれ抱へたテーマを仮託した曲をのど自慢大会で歌ふ、といふ大胆かつ最短距離なプロット―井筒和幸の元祖にしてからがさうなのであらうが―は愚直にラインを超えてゐる。冷静に考へてみればそれ程大した映画でもないやうな気がしないでもないが、ストレートに泣かされたことも又、個人的にではあつても事実である。とりわけ、「親鸞 白い道」(1987)以来凡そ二十年振りの映画出演となる、流暢過ぎて何をいつてゐるのか中国人の私などには殆ど全く判らない下北弁を駆使する緑魔子と、斉藤由貴が良かつた。緑魔子の役は、達也と良太の祖母。
 留美は、夫(即ち恵梨香の父)を喪つてゐた。夫亡き後、遺されたデコトラを女だてらに駆り、女手ひとつで恵梨香を育ててゐた。さうはいつても、時には誰かに縋りつきたくもなる。郵便配達員(甲本雅裕、役名は失念)と交際してをり、結婚も考へてゐた。が、恵梨香の少女特有の潔癖は、それを許さなかつた。留美は結局、恵梨香の気持ちを慮り甲本雅裕に別れを告げる。
 アイドル時代をリアルタイムで知る割には全く素通りして来たものだつたが、今に至つての斉藤由貴の色気が素晴らしい。母親としての強さと、女としての弱さとを巧みに銀幕に刻み込む。何よりもエクストリームに心を震はされたのはクライマックスののど自慢大会で歌ふ、達也と恵梨香とに捧げた「木綿のハンカチーフ」!アイドル時代、ヒット曲を量産してゐた当時は使用あるいは習得してゐなかつたとも思はれる、昭和歌謡の王道を驀進する朗々とした歌唱法で名曲を披露する。ハッキリいつて、この斉藤由貴の「木綿のハンカチーフ」を聴く為にだけでも、木戸銭を払つて小屋に足を運ぶ値打ちはある。惜しむらくは、「木綿のハンカチーフ」に乗せて東京の達也が、<ヤクの取引に出張つた先で虫ケラのやうに殺されて>呉れでもすれば映画のエモーションが更に増したやうな気もするが、いはゆる今時の御当地映画で、さうした70年代の暗黒テレビドラマのやうな展開は許されないであらう。

 ピンク勢からの出撃は、那波隆史が東京の進学校での俊介の担任役。石川雄也の名前がクレジットには有つたが、画面の上では確認出来なかつた。撮影の志賀葉一とは、清水正二の別名義である。


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 「巨乳DOLL わいせつ飼育」(2006/製作:旦々舎/提供:オーピー映画/監督:浜野佐知/脚本:山邦紀/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:大江泰介/照明助手:金沢勇大/助監督:加藤義一・横江宏樹/音楽:中空龍/出演:綾乃梓・なかみつせいじ・吉岡睦雄・平川直大・椿まや)。
 倫理に反した研究の果てに学会を追放された、異端のロボット工学者・菊田恭二(なかみつ)。菊田は某国軍隊の資金援助を受け、菊田ロボテクノ研究室にて“人間の女の快楽を全てインプットしたセックス・ドール”の一号機・イヴ(綾乃)を完成させる。イヴの開発に必要なデータは、孤児であつたものを養女にした、ミロ(椿)の調教によつて得たものだつた。早速菊田は、代理人の石堂五郎(吉岡)を介して、イヴを戦場の兵士の慰安婦として出荷する手筈を整へる。一方ミロは、総合商社の海外駐在員用のセックス・メイドとして派遣されることになる。菊田はそのことに因つて得た資金で、セックス・ドールの量産化を目論んでゐた。石堂はイヴと、商社の担当者・市川俊介(平川)はミロと、それぞれ機能チェックと面接とを兼ねて寝る。ミロがセックス・アンドロイドではなく実の人間であることに衝撃を受けた市川は、人身売買にも似た契約に疑問を感じ、ミロと共に逃げることを決意する。
 主演女優二人の演技そのままに、何処かしらたどたどしい映画を救つたのは、池島ゆたかの「昭和エロ浪漫 生娘の恥ぢらひ」(2006)でも目を引いた、平川直大が有する真つ直ぐなエモーション。忽ちミロに恋に落ちた市川は、二人手と手を取り姿を消す。たとへ愚直でありながらも、平川直大には映画を手中に収める決定力がある。個人的にはそのまま、平川直大が「卒業」のダスティン・ホフマンばりのエモーションをモノにする物語を期待したものではあつたのだが、よくよく考へてみれば、山邦紀であつたならば判らないが、これは浜野佐知の映画である。男が主導権を握つて、そのまま物語が展開して行く訳がない。プログラム修正の要が発生し、石堂へのイヴの納品は遅れることになる。代りにミロを繋ぎとする為に、軍隊は姿を消した二人を追ふ。石堂に恫喝された市川は、呆気なくミロを捨て逃げる。結局イヴとミロは、二人だけで菊田の呪縛を逃れ、何処行く当ても無いままに、自由と希望だけを手に冬の街へと消えて行く。美しく雪舞ふ新宿、まるで祝福でもされたかのやうに恵まれたロケーションが、映画を愛ほし気に締め括る。
 と、このまま首を縦に振つて筆を擱きたいところではあつたが、残念ながらさうは行かない。今作の最大の敗因は、エキセントリックの何たるかを完全に履き違へた憤懣やるかたない大馬鹿者・吉岡睦雄。演技未然のカラ騒ぎで、完全に映画を壊してしまつてゐる。何故おとなしく、柳東史ではいけないのか。あるいは山本清彦といふ名前に現実性が欠けるならば、甲斐太郎でも栗原良でも、依然ピンク現役である筈だ。浜野佐知にしても山邦紀にしても、その映画の肝となるのは強固な作家性、の陰にしばしば隠れがちな冷静な論理性こそではなからうか。それは詰まるところは、商業作家としては至極当たり前に要請されるべき属性に過ぎなくもあるのだが。ともあれ。オーソドックスも満足にこなせないやうなチンピラ役者は、旦々舎の作品にあつてはその完成を阻害するだけに過ぎまい。純然たる一素人につき、かういふ配役が一体どのやうな力学の下に決定されるものであるのかに関しては全く与り知らないが、結果としては、あくまで無様なミスキャストである。断固として再考を促したい。

 それはそれとして。市川と切り離され研究室に連れ戻されたミロに対し、イヴもミロも自分の芸術作品だ、とその人格を否定する菊田が言ひ放つた名台詞、「お前は私が育て、イヴは私が造つた!」。書いた山邦紀も偉ければ、見事に決めてみせたなかみつせいじは矢張り流石の千両役者である。
 ミロが五年前の菊田との出会ひを回想するシーンにて、ガード下でミロを陵辱する男達が二名登場する。多分加藤義一と横江宏樹か。


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 「巨乳妻メイド倶楽部 ご主人様、いつぱい出して」(2006/製作:旦々舎/配給:新東宝映画/監督:的場ちせ/脚本:山﨑邦紀/企画:福俵満/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:大江泰介・藤田朋則/照明助手:広瀬寛巳/編集:㈲フィルム・クラフト/音楽:中空龍/助監督:小川隆史/応援:田中康文・広瀬寛巳/録音:シネ・キャビン/現像:東映ラボ・テック/出演:綾乃梓・鏡麗子・風間今日子・柳東史・平川直大・なかみつせいじ)。
 開巻、早速のなかみつせいじと爆乳女とのセックス。も、爆乳女はポスターを単騎でブチ抜くビリング頭の綾乃梓、ではなく御存知風間今日子。丸川多喜男(なかみつ)と、妻・美都(風間)の夫婦生活。美都はさんざ御自慢の巨乳で夫をそゝり、さあていよいよインサート。としたところが、多喜男の男性自身は例によつて起動しない。会社を潰してしまつてからといふもの、多喜男は不能になつてゐた。不貞寝する美都と、ショボ暮れる多喜男。そんな多喜男に、心配した友人―声の主不明、若いから小川隆史辺り?―から電話が入る。「メイドの館」、を紹介するものだつた。「メイドの館」、またの名を「癒しの館」あるいは「敗者復活の館」。美しくオッパイの大きなメイドが、館を訪れた傷つき、倒れた男達を御主人様として精神的にも、時には、といひながら要は常に肉体的にも支へ、再起を促す。当人達は風俗ではない、と頑なに言ひ張る売春宿を舞台にした物語である   >実も蓋もねえ
 鏡麗子は「メイドの館」の女主人・マダム。綾乃梓は、メイドとして働くために館―例によつて浜野佐知(=的場ちせ)自宅―を訪れた、新人メイドのアリス。出演女優三人合はせてバスト3m!と別に謳はれてゐる訳ではないが、あながち誇張でもなからう。うち一名<人造が含まれてゐる点については>、この期には不問に付す。
 主演で、今作最強の究極兵器・綾乃梓。兎にも角にもスペック・データが尋常ではない。身長:179cm、スリーサイズは、上から101(70J)、58、90。実際の画面から窺ふに、この数値はほゞ鵜呑みにしても構ふまい。映画館の大スクリーンにも納まりきらぬ、文字通りのスーパー・ボディである。浜野佐知一流の、女体の美しさへの攻撃性すら感じさせる偏愛に支へられた豪快にエロい濡れ場では、エロさをも通り越したダイナミックなスペクタクルが展開される。お芝居は上手ではないものの最低限度下手でもないが、この人、正直首から上には難アリである。目鼻口、どれも致命的ではないにせよ微妙に間違つてゐる。中でもアグレッシブに甚だしいのは、口角と顎の歪み。これで歯並びが綺麗なのは最早不思議ですらあれ、簡単にいふとホームベースに博多にはかの面を載せたやうなルックスである。とはいへ、そんなこんなは元より、エクストリームですらあるプロポーションの前では取るに足らない瑣末であらう。たゞそんな綾乃梓、公式ブログによると残念ながら六月で引退されてしまつた模様。
 「メイドの館」を訪れるのは順に、資産家の父親の指示でやつて来た、ニートの葛井英治(平川)。ジムをお払ひ箱になつた、野良犬ボクサーの畑山圭吾(柳)、多喜男は三番目。三人ともお馴染みの面子に、役柄もジャスト・フィットした正しく盤石の男優部。初めは乗り気でなかつた葛井が、メイドは肉体的にも御主人様を支へる、とかいふアリスの言葉に途端に「いゝの!?」と目を輝かせるカット。同じく畑山も、初めは乗り気ではない。俺は拳闘屋だ、女の助けなんか借りねえ、とマダムを痩せ我慢で突つ撥ねる。後に葛井は、公園での<店外>デートにアリスを誘ふ。アリスに惚れた葛井の、熱を帯び突つ込んだ視線。詰まるところは凡庸でもあるプロットを、全く充実させ見せきる。
 最終的には、三人それぞれ再起の途を歩み始める。葛井はアリスの御主人様として相応しい男になる、と就職し、畑山はロードワークを再開。多喜男は銀行からの融資が受けられる。お手軽といつてしまへばそれまでではあるが、志向するエモーションは全うで、風間今日子、鏡麗子まで含め最強の布陣に支へられドラマの安定感は抜群。突出した何某かは特に見当たらないまゝに、なほ珠玉のピンクにさうゐない。
 多喜男が「メイドの館」を訪れた際、夫の様子を心配した美都はこつそりついて来てゐた。マダムに誘はれ、美都も館に入る。見るからに怪しげな夫とアリスの様子を別室で目の当たりにしながら、風間今日子一流のボーン・トゥ・ビー・アバウト芝居で、「ま、いゝか」と夫を残し館を後にする。何だこりや、いい加減な脚本だなあ、と一度は呆れかけたが、御見それ致した。そこはそれ、相手は岡輝男ではない。我らが最強、山﨑邦紀。ラストで思ひも寄らぬエモーションに、キッチリ着地させてみせた、流石である。

 以下は旧作改題版を再見時の付記< 「若妻 巨乳でご奉仕」なる新題での2011年新版公開に際しては、綾乃梓の名前をポスター上では綾乃文と、豪快な誤記をやらかしてゐる。主演女優の名義を間違へるといふのも随分な話ではあるが、そもそも、そのぞんざいも通り越したプリミティブな新題ももう少しどうにかならないものか


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 「乱交団地妻 スワップ同好会」(2006/製作:旦々舎/配給:新東宝映画/監督:的場ちせ/脚本:山邦紀/企画:福俵満/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:邊母木伸治・藤田朋則/音楽:中空龍/助監督:小川隆史/応援:田中康文・広瀬寛巳/出演:環あかり・華沢レモン・風間今日子・平川直大・柳東史・なかみつせいじ)。
 互ひにさうとは知らず、同じ団地に住む山梨亜希子(環)、川並ハルカ(華沢)、谷本冬美(風間)。三人とも様々に、夫との性生活に満たされぬものを感じてゐた。
 亜希子の夫・九里市(なかみつ)は、亜希子と結婚する為に修行してゐた仏の道を捨てた。亜希子は堅物で気難しい九里市に対し結婚生活に、夫婦の夜の営みにさへ、捨てた筈の仏道の修行を形を変へ持ち込んで来てゐるやうに感じてゐた。特にマゾヒストでもないのに伊藤晴雨の責め絵を見ては、亜希子は自分の中の非充足感がムクムクと大きくなり、やがては抑へ切れぬ怪物のやうな代物に姿を変へつつあることを予感する。ハルカの夫は、中学校教師の達夫(平川)。AVの見過ぎか口内射精か顔射ばかりを偏好する達夫のSEXに、ハルカは嫌気が差してゐた。冬美の夫は、銀行員の大吉(柳)。大吉は「一日に一回突つ込まないと気が狂ひさうになる」だなどと自ら豪語する、良くいへば絶倫男である。とはいへ催すと食事中でも前戯もそこそこに挿入して来ようとする大吉に、冬美はすつかり呆れ果ててゐた。そんな中ハルカは、“スプリング”といふハンドルでブログ「おしやべり金魚」を始める。世の他の人妻達は一体どのやうな夫との性生活を送つてゐるのか、そして果たしてそれに満足してゐるのか、がテーマだつた。亜希子が“オータム”、冬美が“ウィンター”といふハンドルでハルカのブログに書き込んだことから、三人に交流が生まれる。やがて三人は、それぞれの夫婦でスワッピングをしようと考へるやうになる。
 妻たちが銘々の夫との満たされない夫婦生活を打開する為に、自ら夫婦交換を企図する。ピンク映画といふ基本的には男性客のみを購買層とした商業ポルノグラフィーの中にあつて、如何にも常々女の側からの、女が気持ちよくなる為のSEXを描く、と堂々と公言して憚らない的場ちせ=浜野佐知らしい映画である。又この人が偉いのは、かといつて観てゐてフェミ臭い何とも喰へない映画を撮るのではなく、女体の美しさが好きだ、といふ主旨の発言もあるがヤル気のない男の監督の映画なんぞ裸足で逃げ出してしまふやうな、観てゐてまあエロいことエロいことこの上ない素敵な桃色映画を撮つてしまふところにある。自らの女性主義のテーマは常に明確に映画の中に通しつつ、なほかつ同時に商業的要請も必ず果たす。私は彼女を、ピンク最強とも日本映画界最強ともいはない、世界最強の女流監督に推したい。百数十本といふ監督本数―製作まで含めると三百本近くになるらしい―だけでも、既にその資格は十分であらう。
 といつて今作が百点満点のピンクであるのかといふと、残念ながらさうはならない。最大のウイークポイントは主演の環あかり、今時の熟女AV嬢らしい。世間一般に於いて、どのくらゐの人気があるのかは全く与り知らない。良くいへば愁ひを帯びた表情―直截にいへば硬い無表情―に雰囲気がなくもないが、お芝居は殆ど出来はしない。斯様な人間を主演に据ゑたところで、どうにも映画に背骨がもう一本通らない。“背骨がもう一本”とはどういふことか、背骨が二本も三本もある脊椎動物は地球上には存在しない。兎も角、どちらかといはなくとも陽性の達夫や大吉とは対照的に、一人陰々滅々とした九里市にしても、なかみつせいじには決して非はないのだが、相方が素人ではどうしたとて絡み―濡れ場に限らず―が深まつては行かない。伊藤晴雨のギミックに至つては、山邦紀の趣味性であらうと片付けてしまへば実も蓋もないが、まるで効果的には機能してゐない。一方、セックス・バカの大吉と、大吉に呆れ果て半ば小バカにしてゐる冬美。風間今日子と柳東史なんて一体何本、しかも旦々舎の映画で競演してゐるのだ、といふ話でもあるのだが、役者同士が演じ慣れてゐる以前に脚本も書き慣れ、監督も撮り慣れてゐるのであらう。実に安定感がある。観てゐて何処に過不足を感じるでもなく、安心して楽しんでゐられる。
 まづ初めに、ハルカと亜希子が初めての夫婦交換を試みる。九里市は行くことを拒んだ為、亜希子は独りでハルカと達夫の下へ出向き、3Pを愉しむ。続いてラストでは、亜希子と冬美の夫婦でスワッピングする。今度は亜希子も、九里市を引つ張つて連れて行く。その頃ハルカは、おとなしく達夫とプレイ。ここは最後は、三夫婦入り乱れての6Pを見たかつたやうな気もするが、それではシークエンスが単なる乱交に堕してしまひ、夫婦生活を回復する為の夫婦交換、といふ本来のテーマがぼやけかねないといつた考慮が働いたものやも知れない。


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 「四十路の色気 しとやかな官能」(2005/製作:旦々舎/提供:オーピー映画/監督:浜野佐知/脚本:山邦紀/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:橋本彩子・藤田明生/助監督:加藤義一・横江宏樹・森内康博/音楽:中空龍/出演:美月ゆう子・佐々木麻由子・風間今日子・吉岡睦雄・平川直大・なかみつせいじ)。
 公園にて、ぼんやりとブランコに揺られる女(美月)の前に、自称“日本一ツイてない男”猪豚(吉岡)が現れる。負け犬呼ばはりされた女は、そのまま猪豚が生活する河原に張られたテントに連れて行かれ、そこでセックスする。猪豚のテントから姿を消した女は、七年前に離婚した、官能小説家の島浜兼六(平川)、十年前に女が看護婦をしてゐた時に、付き合つてゐた婦人科医の猿渡完治(なかみつ)、の下をそれぞれ訪ねる。島浜は、女と結婚してゐた時分には才気に溢れバリバリ書けてゐたのだが、離婚後、暴力妻のバキエ(風間今日子/何て役名だ>山邦紀)と再婚してからはスランプに悩んでゐた。猿渡も猿渡で、女を捨て勤務する病院院長の娘・ケシ子(佐々木麻由子/それにしても何て役名だ)と結婚してからといふもの、勃起不全に苦しんでゐた。
 キーワードでもある負け犬。冒頭女が猪豚から負け犬呼ばはりされる件に、シークエンスとしての説得力が全く欠けてしまふ点は致命的に苦しいところでもあるのだが、当サイト認定“2004’最も美しい映画”「乱痴女 美脚フェロモン」と同様、“何処から来て何処へ行く女”が、それぞれ悩みや苦しみを抱へる者達の前に不意に現れては、癒し救つて行くファンタジーである。女の正体は、特に目新しいものではないが、今回は語られる。
 以前には、書案の前で女に自慰をさせ、濡れそぼる女陰を見ながら官能小説を書き捲つてゐた島浜は、女との再会を経て、バキエに鞭打たれながら小説を書く、バイオレンス・スーパー・マゾ作家、として開眼する。本当に、山邦紀といふ人は頭がいいのかバカなのかよく判らない。大体、この帰結には女との再会は必ずしも必要ないのでは?女と再会し、猿渡も男性機能を回復する。喜び勇んで、その気のないケシ子を無理矢理犯す。この件で浜野佐知は、凡百の男性監督や珠瑠美とは異なり、初めは嫌よ嫌よと抵抗してゐた女が、何時しか感じ始め最後にはアンアン啼き悶えながら自ら腰を使ふ、やうな濡れ場は決して描かない。浜野佐知は、少なくとも日本一、その作る映画に嘘のない映画監督である。

 熟女AV女優として人気の美月ゆう子(ex.長瀬優子)、ピンク出演は、昨年末に観た坂本太(『未亡人と褌 -悦子の秘密-』)に続いて二本目か。以降にも順調に(?)主演作は控へてゐて(東京では既に二本共封切られてゐるが)、新東宝の佐藤吏はひとまづさて措き、オーピーの山邦紀新作は楽しみである。演技はといふと、水野将軍の次くらゐにたどたどしい台詞回し、とでもいつたレベルなのだが、とりあへず艶技の方は、まるで痙攣でもしてゐるかのやうに、終始全身を小刻みに震はせるのはエモーショナルにエロい。普通の洋服以外に和服姿の他、ナース服や全く意味不明なチャイナドレスまで披露する。
 どうでもよかないが、吉岡睦雄といふのは全く下品な役者である。薄らとぼけた国映若手勢がこの男を好んで使はうと最早どうでもいいが、吉岡睦雄が画面に姿を現すだけで、その映画の品位が下がりはしまいか。どうして、何時も通りの柳東史ではいけなかつたのかと、大いに問ひたいものである。


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 「乱痴女 美脚フェロモン」(2004/製作:丹々舎/提供:オーピー映画/監督:浜野佐知/脚本:山邦紀/撮影・照明:小山田勝治/撮影助手:橋本彩子・松澤直徹/照明助手:廣滝貴徳/撮影応援:赤池登志貴/助監督:田中康文・三浦麻貴/音楽:中空龍/スチール:岡崎一隆/キャスティング協力:株式会社スタジオ・ビコロール/出演:北川明花・風間今日子・鏡麗子・なかみつせいじ・平川直大・兵頭未来洋)。なほ今作は2007年に、「むつちり舞姫 ハメ放題」とぞんざい極まりない新題で改版公開されてゐる。
 結論から述べる、今年一年で最も美しい映画であつた。
 乙川由芽(北川)はかつて新体操の天才少女と騒がれるも、その後姿を消す。由芽が“遠くから来て遠くへ行く”女として、悲しい男や寂しい男、苦しい男の前に扇情的なレオタード姿で突如現れては、正直大して上手くはない新体操―北川明花は一応経験者―と、それはともあれ瑞々しい肉体とで慰め、癒して行く。たとへそれがどんなにチープで陳腐であれ、ドリーミングでエモーショナルなストーリーである。直截にいつて、当方ドロップアウトは貧しく清くなく美しくもないが、悲しくて寂しくて苦しい男である。冗談にもなりはしない、私の下にもどうか現れては呉れないものか。寝言はさて措く、実も蓋もない。
 監督・浜野佐知と脚本・山邦紀は、映画製作会社旦々舎の、ピンク映画ファンにとつては志村と加藤といつたくらゐお馴染みの名コンビ。浜野佐知(別名:的場ちせ)は女流監督である。この人はとてもユニークな女傑で、何処でどう転んだのだか、何をどう勘違ひしたものなのか、フェミニズムの観点からピンク映画を撮つてゐる。女の肉体の美しさ、であつたりとか、女の側からのSEX、更にはより進んで商業ポルノグラフィーといふ土俵―当然そこでは女の性を商品化して、それを消費してゐるのは男である―の上で、女の側へのSEX、女がしたいからするSEXへの解放、といつたテーマを一貫して描き続けてゐる、らしい。らしい、といふのは、確かにその思想はどの映画にも強く現れてゐないこともなくはないのだが、実際浜野佐知の映画といふのは、観てみると生半可な男の監督の撮つた映画よりも余程エロくてエロくて仕方のない、素敵な映画ばかりなのである。対して、私は断るまでもない、のかどうなのかはよく判らないが、アンチ・フェミニストである。正にその一点のみにおいて、内田裕也がマイセンを吸つてゐることを発見した時―裕也、マイセンはロックぢやねえよ―と同様、フェミニストであるといふアーネスト・ボーグナインに対して強力に落胆したくらゐである。何故かといふと、醜男が女に対して卑屈になつてゐるやうな気がしたから、小生の尻の穴はナノである。さういふ仕方のない人間ではあるが、別に浜野佐知の映画を観てゐて腹を立てたり嫌ひかといふと、そんなことは全くない、エロエロで素敵な映画を何時も喜んで楽しく観てゐるくらゐである。勿論、我が粗末な愚息はビンビンに我に撃つ用意あり、の状態にある、余計なことはいはんでよろしい。
 脚本の山邦紀、この人も自分で監督して映画を撮る。何はともあれ再び結論を先に述べてしまふと、私はこの人の映画が大好きである。ピンクに止(とど)まらず、山邦紀は日本映画界の中で極めて重要な人物であると思ふ。自分で監督する際などは特にさうなのだが、といふか殆ど100パーセントまづさうなのだが、この人の物語には兎にも角にもマトモな人間が出て来ない。主人公は殊更に、といふか明確に精神を病んだ人間ばかりである。頭のおかしな人間が訳の判らない観念に囚はれて、観てゐるこつちの頭もクラクラして来てしまひさうなストーリーが展開する、握り損なひの変化球―ただし、しかも剛速球―のやうな映画ばかり撮つてゐる。さういつた辺りを捕まへて、山邦紀のことを「日本のデビット・リンチ」と称する方もある。それは的を得てゐるのかも知れないし、成程判り易いとも思へる。ただ、さうはいつてもこの文章に触れて貰つてゐる諸兄の中に恐らくはさうさう、山邦紀の映画を十本以上観てゐる方など―二本や三本では多分判らない―をられさうにないので初めから伝はる訳もないのではあらうが、私には山邦紀といふ人は、実はストレートにロマンティックな脚本を書いて、ストレートに美しい映画を撮る人であるやうに思へる。“遠くから来て遠くへ行く”女。これは、謎の存在である乙川由芽が、「何処から来て何処へ行く」のかと、姿を消した超新星を追ふスポーツライターの樺島麻里子(風間)に問はれた際に答へる台詞である。「私は遠くから来て、遠くへ行くの」、まるでメーテルではないか。タイトルは失念してしまつた―又何時か何かの弾みで思ひ出す、かも―が、病的に勘違ひが激しくまるつきり痛い女が、偶さか巡り合つた男を運命の男と勘違ひし、ラストでは手と手を取り合ひ旧き日常を捨て飛び出して行く、さういふストーリーの映画もあつた。その映画のテーマはずばり、勘違ひボニーと思ひ込みクライドである。「あの二人つたら、勘違ひボニーと思ひ込みクライドね」といつた風に、青木こずえの台詞でも明確に語られる。勘違ひボニーと思ひ込みクライド、何だそりや。リンチが、そのやうな甘酸つぱくもストレートなエモーションを決して描くものか、否、描けるものか。

 「美脚フェロモン」、に話を戻す。悲しい男、学内での出世レースにほぼ敗れ気味な大学講師の水江志麻夫(なかみつ)が、川でぼんやりと釣りをしてゐるところに由芽が現れる場面の、キラキラと輝く水面。かういつたカットにこそ、比VTRでラチチュードの差が歴然と現れる。寂しい男、植物を愛すると称して全うな人間関係からはドロップアウト気味な公園の清掃員・筒井雅司(平川)の前に続いて姿を現す件―雅司には由芽が植物の精に見える―に於いては、ヒラヒラと舞ふ桜。そして浜野佐知は何時もの女体の美しさへの執着、あるいは偏愛を以てして、アクロバティックなポーズを採らせた北川明花の肢体を、これでもかこれでもかとフィルムに丹念に刻み込む。美しい、美しい映画である。撮影・照明の小山田勝治も、とても三百万で撮つてゐるやうには思はれない分厚い仕事を見せる。ひとつだけ難点なのは、苦しい男、仕事が望むやうに儘ならない編集者の日下部八郎役の兵頭未来洋、相も変らずまるで演技が下手糞である。いい加減な、もしくはライトな作りの映画であつたならば、特にわざわざ気にもならなかつたのかも知れないが、かういふ美しい映画の中にあつては、その大根ぶりが殊更に目につき、一息に興が醒めてしまふ。ここは、清掃員に柳東史を当てて平川直大を編集者役にスライドする―勿論その逆でも全くいい―か、もしくはそれならば余りにも何時もと面子が変らない、とでもいふのであるならば、八郎役に竹本泰志でも連れて来れば良かつたであらうに。鏡麗子は、志麻夫の妻・千鶴。

 以下は再見時の付記< 二点だけ触れておくと、経験者との触れ込みの北川明花の新体操が、記憶の中で大分美化されてゐたのか、ヨレヨレドタドタと、こんなにも不恰好だつたかなあ、といふのが改めての偽らざる感想である。ともあれ、体の柔軟さは買へる。悲しいひと、寂しいひと、疲れたひとをそれぞれ自宅マンションに引つ張り込んでは、ベッドの上で様々なアクロバティックなポーズを取り、レオタードに包んだムチムチの肢体をこれでもかどれでもだと見せつけて呉れるシーンのいやらしさは最早ヤバい。
 “寂しいひと”。生身の人間とコミュニケート出来ずに、世話をすることで植物としか通じ合へない―つもりの―公園の清掃員・筒井(平川)、の前に乙川由芽(北川)が現れる件。何時ものやうに筒井が公園の植物の世話をしてゐたところ、フと気が付くと公園の中でレオタードに身を包みフリフリと踊つてゐる由芽が。筒井の視線に気付いた由芽、「《新体操なんかしてちや》いけなかつたですか?ここでは」。すると筒井は、「いや・・・、厳密にいふと問題あるかも知れないけど、俺はここで植物の世話をしてるだけだから」。“厳密にいふと問題あるかも知れないけど”(笑)、問題あるよ、そりや。いいけどさ。


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 「やりたがる熟女」(2003『やりたい人妻たち2 昇天テクニック』の2006年旧作改題版/製作:旦々舎/配給:新東宝映画/監督:的場ちせ/脚本:山邦紀/企画:福俵満/撮影:小山田勝治・杉村高之/照明:小川満・小川大介/助監督:田中康文・伊藤一平/音楽:中空龍/協力:ホテル・アルパ/出演:桜田由加里・鏡麗子・佐々木基子・なかみつせいじ・柳東史・平川直大)。同じく2003年製作の「やりたい人妻たち」(出演:ゆき・鏡麗子・風間今日子、他/物語は全く異なる)も、矢張り06年に殆ど変化のない「やりまくる人妻」と新版公開されてゐる。
 ライターの川村絵里(桜田)は専業主婦は安逸を貪り社会に寄生する、夫に飼はれた家畜であると痛罵する『くそくらへ!専業主婦』を出版し話題を呼ぶ、あるいは物議を醸す。絵里を紹介するワイドショーを見て激しく敵対心を燃やした二人の専業主婦・梶珠代(鏡)と水田比呂子(佐々木)は、それぞれ別個に絵里に対する報復を誓ふ。
 オールバックに伊達なスーツの着こなしで、如何にもなキャラクターを巧みに造形するなかみつせいじは、絵里の担当編集・小宮隆志。絵里とは、男女の仲にもある。出版社の表で待ち伏せしてゐた珠代が、小宮を誘惑。ホテル・アルパpartⅡでの情事、激しい珠代のSEXに目を丸くした小宮は「君は・・・・?」、すると珠代はネットリと「専業主婦よう」。定石通りで先が読めてしまふともいへ、台詞が実に手堅い。一方比呂子は、ミニコミの編集者を装ひ、出版社から絵里の住所を聞き出す。それ、教へて呉れるのか?といふ以前に、教へちやいかんぢやろというのはとりあへずさて措け。比呂子は絵里の自宅前にてホーム・ビデオ片手に張り込み、絵里の年下の彼氏で作家志望の桑島孝司(平川)の姿を確認する。後に接近、絵里はして呉れないらしい尺八で、桑島を寝取る。柳東史は、珠代の夫・吾郎。『くそくらへ!専業主婦』の内容に憤慨する珠代に対し、吾郎は書かれてあることに一定の理解を示す。カメラは判り易い鏡麗子の仏頂面を捉へ、夫婦は擦れ違ふ。思想映画としての浜野佐知(=的場ちせ)の豪腕が成立し得るのは、かういふひとつひとつの細かい心理描写を疎かにしないところもその勝因のひとつに数へられよう、極めて当たり前のことでしかないのは恐縮ではあるが。
 女達の、文字通りの肉弾戦は苛烈に交錯する。絵里は桑島は比呂子に、小宮は珠代に奪はれる。『くそくらへ!専業主婦』続篇の企画は、何時の間にか珠代による『専業主婦の逆襲』に変つてしまつてゐた。反撃を期す絵里は吾郎に接近、ここで二人が交す会話の中での、吾郎の台詞が凄まじい。本当は絵里のやうな、自立した女性が好みだといふ吾郎が、とはいへ現実は、と吐き捨てる「発情した河馬を一頭飼つてゐる・・・・」。鏡麗子のことである   >“発情した河馬”
 最早何もいふこともあるまい、山邦紀の、解き放たれた清々しいまでの攻撃性に震へるのみである。この人一遍、本気で時代と刺し違へるつもりで脚本書いて呉れんかいな?とんでもないものが、出来上がりさうな気がするのだが。
 結局、最終的には絵里と珠代は互ひに認め合ひすらする形で、三人の女はそれぞれ、個々の性と自由とを謳歌する新しい道を歩み始める。それはそれで構はないのだが、よくよく考へてみるとひとつだけ疑問に残るのは。ガッチガチの職業婦人であり確か結婚してゐる、といふ話は聞いたことがない―後注:俺が知らなかつただけで昔から既婚である―浜野佐知個人が、専業主婦といふ存在に対してはどう思つてゐるのか、といふ点である。

 ところで新版ポスター、山邦紀の“”の字がMacでは出て来なかつた―確か機種依存文字であつたと思ふ―のか、山邦紀の名前が縦書きで“山_邦紀”となつてゐる、何て読めばいいんだよ(笑


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 どうやら世間の目は画期的にこの映画の方を向いてはゐないやうだが、そんな瑣末は一切ものともせず、「キャプテントキオ」(2007/監督・脚本・編集・出演:渡辺一志/撮影:岡雅一/照明:上田雅晴/美術:磯見俊裕・黒川利通/編集:加藤雄樹/音楽:PANTA/出演:ウエンツ瑛士・中尾明慶・泉谷しげる・いしだ壱成・渋川清彦・飯田一期・藤谷文子・山岡由美・日村勇紀《バナナマン》・設楽統《バナナマン》・車だん吉・石立鉄男、他)は真の傑作である。
 西暦20XX年、東京をマグニチュード10の未曾有の巨大地震が襲ふ。日本政府は木端微塵の東京の復興を断念、日本国から放逐する。荒野と化した東京には何時しか若者達が集ひ、独自の文化圏を構築して行く。さうして様々な芸術文化の最前線となつた自由と暴力とが支配する地獄の楽園、それが今作の舞台・新東京都である。
 新東京都に内地から二人の高校生・映画好きのフルタ(ウエンツ)とロック・キッズのニッタ(中尾)が、開催が噂される巨大ロック・イベント目当てにやつて来る。とはいへ二人を早々に、手荒い洗礼が襲ふ。警官ファッション・マニアの追剥ぎ(車)に身包みを剥がれたフルタとニッタは、人買ひに売られる。何処へ連れて行かれるとも知れぬ軽トラの荷台で途方に暮れる二人は、滅茶苦茶な手法で映画を撮影するアウトローの映画集団と巡り会ふ。ジャリタレ主演の青春アイドル映画、といふのが企画の基本線でその上でも立派に成功を遂げてゐるのだが、この、アウトロー映画集団が兎にも角にも魅力的。面々は、チェ・ゲバラのやうな扮装でエキセントリックの斜め上を行く映画監督・映画屋(渡辺)。ワイルド7でいふとヘポピーな巨漢カメラマン・タムラ(飯田)に、ガッチガチのロンドン・パンク録音技師・モヒカン(渋川)。実は映画なんて殆ど観たことがない、映画屋とは腐れ縁のプロデューサー・アロハ(石田)。二人と、映画屋達との出会ひのシーンといふのがいきなりトップ・ギアで痛快。カー・スタントシーンを撮影中の映画屋組、そこに、フルタとニッタを乗せた人買ひのトラックが走つて来る。「良さ気なトラック来たぞ」(アロハ談)といふことで、撮影スタート。映画屋がバズーカ砲でトラックを吹き飛ばし、それをそのまま撮るといふのである。他にもイカし過ぎてゐるのは、映画屋の吐く台詞は映画史に残る名台詞ばかりなのだが中でも格別なのは、本番を撮影しようとしたところ、モヒカンが空を指差し飛行機が飛んでゐるといふ、すると「馬鹿野郎、そんなもん撃ち落せよ!」。
 そんな映画屋達ではあつたが、新東京都のPR映画を撮つて欲しい、といふ都知事(泉谷)の申し出を「コマーシャルなんかやつてられつか」(映画屋談)とけんもほろろに断つたころ、指名手配される。実は母親思ひな孝行息子のタムラは撮影への参加を断念、タムラの代りにフルタのカメラで撮影は続行されるも、独善的な映画屋の態度に今度は映画屋とモヒカンとが衝突、撮影チームはバラバラになつてしまふ。フィルムの調達もままならぬ中、それでもアロハはダチである映画屋の為に奔走する。やつとこさ五巻の16mmフィルムを手に入れたのも束の間、都知事の手の者により、アロハは非業の死を遂げる。フルタが血染めのアロハシャツに包まれたフィルムを映画屋に送り届けた時、映画屋組は再結集する。決起した映画屋とフルタとモヒカンに、タムラも合流。権力に虫ケラのやうにブチ殺された仲間の為に、ショット・ガン片手に横一文字で死地へと赴くその姿は、正しくデス・マーチ。ジャリタレ主演の青春アイドル映画であることなど何時しか忘れ、一人、又一人と壮絶に死んで行くタムラ、モヒカン、映画屋。勘のいい方ならば既にお察し頂けようか、頑強に権力に立ち向かふ不屈の反骨心。やさぐれたならず者達の、終には口に出されることのない、暴力によつてしか語られ得ぬ愛。さうまるで、この映画は、ペキンパーの映画のやうぢやないか!
 それでゐて、恐らくは周到に計算され尽くしたであらう脚本により、同時に青春映画としても立派に機能は果たしてゐる。色恋沙汰の要素はチと薄いが、青春の夢と挫折、そして再起はしつかりと描かれる。都知事の下に殴り込んだものの、タムラとモヒカンは死に、映画屋は重傷を負ふ。右往左往するフルタに映画屋は言ふ、「監督はお前だ。自分で決めろ」。一方ニッタは、汚れた金を手にライブ会場に向かふ。も、結局はチケットは手にせず、追剥ぎに奪はれてゐたギターを買ひ戻し「オーディエンスぢや駄目なんだよな」、と何時の日かロック・スターとして観客としてではなく、演者としてステージに立つことを胸に誓ひ会場を後にする。ニッタが挫折とデス・マーチへの呼び水とはいへ、取り返しのつかない裏切りを犯してしまつてゐることは致命的な脚本の設計ミスのやうに思へなくもないが、細かいことは気にするな。減点法なんぞ、近代的個人の採る手法だ。前のめりの映画は、こちらも前のめりに観る。それもひとつの、出来上がつた作品への礼儀であらう。
 どういふ撮り方をしてゐるのだか技術的なことはよく判らないが、充溢する黒が素晴らしく映画的で美しい撮影、ところどころのギャグ演出も絶好調、加へて飛び道具としての石立鉄男も100%有効。有りものの音源を使つてゐるだけとはいへ、頭脳警察がカッコよくない訳がない。因みにPANTAも、ロック・イベント目玉のカリスマ・ロッカーとして少しだけ出て来る。寡聞にしてこれまで渡辺一志といふ男の名は恥づかしながら存じ上げなかつたものではあるが、一発で覚えた。俳優業も兎も角、是非とも次の映画も観たい。早く観たい、長谷川和彦の「連合赤軍」よりも観たい、何ぢやそりや。

 二週限定―尤も、私の住む地方都市では公開は二週で終了してしまふのだが―で本篇終了後に上映される短篇の内、二週目上映の映画屋達の映画「メキシコの烙印」も、ふざけてゐるやうで実は秀逸。ジャリタレ主演のアイドル青春映画でありながら、その主演のジャリタレ二人が「死ね!」といひながら撃ち合つて二人とも死ぬ。といふ非道い無茶をさりげなくやつてのけてゐる、こちらの方も必見。


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 「川奈まり子 牝猫義母」(2002/製作:旦々舎/提供:Xces Film/監督:浜野佐知/脚本:山﨑邦紀/企画:稲山悌二/撮影:小山田勝治・長谷川卓・市川修・赤池登志貴/音楽:中空龍/編集:フィルム・クラフト/助監督:松岡誠・栗林直人/制作:鈴木静夫/録音:シネキャビン/現像:東映化学/出演:川奈まり子・佐々木基子・風間今日子・なかみつせいじ・柳東史・平川直大・銀座流石・久須美欽一)。出演者中、銀座流石は本篇クレジットのみ。逆にスチールを担当したとされる岡崎一隆が、本クレには見当たらない。
 “史上最強女性監督VS空前絶後<川奈まり子>”、“オンナ二人!!恐るべし性の追求!”とポスターに踊る威勢のいい惹句。これで全く看板に偽りない辺りが、“女帝”浜野佐知の恐ろしいところである。
 山梨県は甲州市、大菩薩山麓の名家・眉山家。因みにさういふ次第で、眉山邸は御馴染み水上荘。ライターの澄江(川奈)が、当主・左門(久須美)の伝記作成のために雇はれる。取材を進めるにつれ、旧家の家長として権勢を奮ふ男の内に秘められた孤独に触れた澄江は、左門との結婚を決意する。眉山家長男の民生(なかみつ)とその妻・文子(佐々木)、同じく旧家の古川家に養子として出てゐる次男・卓一(柳東史)らからの財産目当てだとの非難もものともせず、財産分与は放棄して、澄江は眉山家に入る。ところが結婚した途端、藪から棒に左門は不能に。荒れた左門は、澄江に暴力を振るふ。左門は下男の青木黄次(平川)に、澄江を犯させようとする。抵抗した澄江が突き飛ばしたところ、左門は床の間の柱で後頭部を痛打。その時以来、左門は眠つたまゝ目覚めなくなつてしまふ。松岡誠の変名らしい銀座流石は、医学的には眠つてゐるとしかいへない左門を診察する医師。
 冒頭から、タンクトップにアーミーパンツ、などといふ安い、安すぎるアマゾネス・コマンドーな扮装の澄江が、卓一の妻・由子(風間)も交へた眉山家団欒のスナップ写真を、連射式のライフル銃で蜂の巣にするイメージが繰り返し繰り返し挿入される。即ち、今回の浜野佐知は何時もの性の女への解放、と同時に旧来の家制度への対決も挑んでゐる訳である、正に面目躍如といへよう。これが単にそれだけに止(とど)まるならば虫も喰はぬいけ好かない教条映画に過ぎないところだが、それを煽情性はマキシマムの立派なピンク映画としても両立せしめてみせる商業作家としての逞しさが、浜野佐知の正しく“史上最強女性監督”たる所以にさうゐない。
 微妙にネタは明かさないが、最終的に澄江、文子、由子の女三人は左門、民生、卓一の男三人を袖に振り眉山家を意気揚々と後にする。最後の夜には、お祭りと称して民生所蔵のジョイトイを駆使しての男共を貪り尽くす大乱交も華々しく展開される。中盤一瞬澄江が、左門昏睡の秘密を知る青木とイイ仲になりかけたりもするのだが、ラストには、別れの一瞥を呉れるだけでアッサリ去つて行く。個人的にも途中までは澄江が青木を連れて行くのだらう、と何となく思ひながら観てゐたものだが、浜野佐知の豪腕は、そのやうな軟弱な感情移入なんぞ截然と許さない。それはそれで、実に清々しい。
 脚本の山﨑邦紀も、端折られたのでなければ今回は一切のアクロバティックを封印、浜野佐知の思想に粛々と奉仕してゐる。


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 「義母の告白 禁断の絶頂5秒前」(1997『義母のONANIE 発情露出』の2006年旧作改題版/製作:旦々舎/提供:Xces Film/監督:浜野佐知/脚本:山﨑邦紀/企画:稲山悌二《エクセス・フィルム》/撮影:田中譲二・岩崎智之・桑田泰行/照明:上妻敏厚・稲垣従道/編集:⦅有⦆フィルム・クラフト/音楽:中空龍/助監督:加藤義一・松岡誠/制作:鈴木静男/スチール:岡崎一隆/録音:シネキャビン/現像:東映化学/出演:浅倉麗・青木こずえ・田口あゆみ・山本清彦・甲斐太郎・杉本まこと)。
 テレビ番組にて、山根多可志(山本)が父・沢田逸朗(杉本)と十数年ぶりの再会を果たす。幼い頃逸郎が家族を捨て家を出て以来、多可志は長く苦労させられたものではあつたが、現在は下着デザイナーとして妻・千絵見(青木)の祖父・陣市(甲斐)の自宅―まあ、要は例によつて浜野佐知の自宅なのだが―に事務所を構へ、千絵見と有能な販売員の桑島由宇(田口)と共に、事業の経営も軌道に乗つてゐた。再会を機に逸郎は若い義母の里津子(浅倉)を伴なひ、多可志の近くに越して来る。これまでの罪滅ぼしに仕事を手伝ひたいと、転居間もないマンションでの多可志がデザインした下着の頒布会を申し出る。戸惑ひながらも好意的に受け取る多可志に対し、千絵見は何処か釈然としないものを感じる。
 悪魔のやうな父親と魔女のやうな義母とが、一度は捨てた筈の成功を遂げた息子に目をつけ接近し、全てを奪ひ尽くして行く邪悪な物語。勧善懲悪からは全く外れた徹底した外道物語ながら、無駄のない尺遣ひの中に悪のプロセスは高密度に描かれ、実に見応へがある。いふまでもなく、奸計は極彩色の桃色に彩られてゐる。浜野佐知と山﨑邦紀、旦々舎といふ制作プロダクションのスペックの高さを改めて実感させられる一作。卑劣に改心を偽る杉本まことの悪漢ぶりの見事さは予想の範囲内ともいへ、文字通りの妖しさを銀幕に刻み込む浅倉麗は思はぬ拾ひ物。スケールから少々間違へた曲がり気味のルックスは、決してストレートな美人とはいへないのだが、濡れ場に突入するや絶妙に妖しく輝く。淫靡な自慰で多可志を誘惑する件に加へ、里津子の対陣市攻略戦。薄い下着越しにモザイクレスの張形をチロチロ口唇愛撫するショットには、思はず気持ち良さが疑似体験出来てしまへるほどの威力がある。当サイトは一体、何を死力を尽くし筆を滑らせてゐるのだか。

 抑へを切らした浜野佐知の作家性が過発露し、偶さか映画が軸足を失ひかけるのは由宇の頒布会の一幕。会議室風の会場、由宇はハチャメチャなセクシー下着で僅かに肌を隠した姿で主婦達の前に立つと、“ランジェリーによる意識革命”を堂々と説いてみせるのである。まあ何が何だかよく判らないが、エロ下着を身に着けることにより、女達が性を自らの手中に収め、新しい自己を発見したりしなかつたりするさうだ。私は近代非人につき、さういつた洒落臭い思考法とは一切無縁ではあるものだが、さういふ要は勇み足が浜野佐知の浜野佐知たる所以であると思へば、微笑ましくもある。主婦連要員で、一体どういつた伝で集めて来たのか、実際に婦人センターなりカルセン辺りでこの手の色んなセミナーに参加してゐさうな面々が、それなりの数登場する。劇中都合二度開かれる頒布会に際して、会場も面子も使ひ回しなのは安普請ならではの御愛嬌。


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