真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ブラックレイン」(1989/米/監督:リドリー・スコット/撮影:ヤン・デ・ポン/出演:マイケル・ダグラス、健さん、松田優作、アンディ・ガルシア、富さん、ケイト・キャプショー、内田裕也、國村隼、安岡力也、神山繁、小野みゆき、島木譲二、ガッツ石松、他)。ビデオやDVDで見たのではない。小屋で上映されてゐるのを観に行つたのである。何で又この期に「ブラックレイン」、なのかといふと。パラマウント映画が福岡だか九州の何処だかに、映画のテーマパークを建設しようとしてゐる動きがあり、その、プロモーションの一環だといふことである。何にせよ、優作や裕也の姿が小屋で観られることは、何にも増して目出度いことである。

 上映は、商業地のど真ん中に建つファッション・ビルの、七階に入る小屋であつた。世界の中心に建つファッション・ビルといふことで、ダメ人間軍所属の小生ドロップアウトとしては、かつてはどうしても立ち入ること叶はない場所であつた。現在では攻略済みであるが、ジャッキー・チェンの「レッドブロンクス」(1995)が掛かつた時に、意を決して漸く突入した、どうでもいい思ひ出のある小屋である。その小屋は、三枚のスクリーンを擁する。最も大きいスクリーンは、そこそこ以上の大きさで、且つボディ・ソニック・システムとかいふ、音響に合はせて客席がブルブル震へる、特に効果も無いシステムも備へるスクリーンであつたので、秘かに期待してゐたのだが。「ブラックレイン」は三枚ある中で、一番小さいスクリーンでやつてゐた。ナめやがつて、とも思つたが、客席は思ひのほか埋まらなかつた。精々二十人程であらうか。悔しいが小屋側の選択は正しかつた、と言はざるを得ない。何度も見てゐる映画だとはいへ、それがスクリーンで観られるとなれば、もう一度観たくならないものであらうか。私は観たい。観る。例へば「Mr.Boo」のやうに、別に態々小屋まで観に行くこともなからう、とも思へなくもないやうな映画であつたとしても、もしも小屋で観られる機会があつたならば、矢張り観に行くと思ふ。因みに「Mr.Boo」の場合は、字幕版よりは広川太一郎の吹き替へ版の方を希望。流石に「超能力学園Z」まで来ると、私もわざわざ観に行きはしないかも知れないが。

 ともあれ再見した。どこから持つて来たのか、所々で画面が飛びすらする結構痛んだプリントではあつたが、まあそれはそれで、ある意味映画を観てゐる気分になれもするので良しとしよう。
 「松田優作の遺作が、ブラックレインでは、ちと寂しい」、とすら言ふ人も居る。私も、かつては優作の遺作といふことで、過大評価する弊だけは避けなくてはならない、と思つてゐた。が改めて観てみると、まあまあ以上に面白かつた。最終決戦。俺たちの優作が、女たらしで権勢と金の権化のマイケル・ダグラスのやうなクソ野郎に、殴り負けてしまふところは何度見ても納得は確かに行かないが、画は全篇カッコよく、十分に楽しめた。何よりも、優作と裕也が若い。若い優作と裕也とが、バジェットのデカい映画の中で思ふ存分大暴れしてゐる姿は、ただそれだけで私を心の底からワクワクさせて呉れた。
 優作と裕也が若い、と言つたがそれは正確ではない。優作はこの映画の公開直後に死んでしまつた。若いもへつたくれもない。優作の時間は「ブラックレイン」、から止まつたままなのだ。
 対して裕也は、「ブラックレイン」から現在までの十六年間に、壮年からおじいちやんへの橋を渡つてゐる。裕也の若さは本当の若さである。唐沢俊一氏の「裏モノ日記」の、2005年七月六日分にかうある。永島慎二の死に触れたマクラに続いて、赤塚不二夫に関して氏は言ふ。少年マンガの黄金時代。三十代に短か過ぎる全盛期をスタンピートした赤塚は、長い晩年を送り、現在はもう二年以上、病院のベッドの上で昏睡状態にある。
>不思議なことに人間は、万全に生き、 終はりをまつたうした人の一生にロマンや夢を感じない。ある一時期にエクスプロー ジョンし、人生を燃やし尽くした一生の方に、絶対に魅力を感じる。(原文は珍かな)
 裕也が万全に生き、てゐるかといへばそれもそれで大いに疑問ではあるが(笑)、私はここで、「ブラックレイン」公開後間もなく時間の止まつてしまつた優作と、今だ生き永らへて壮年からおじいちやんへの橋を渡つた裕也とを、敢へて比較しようとは全く思はない。最終的には、それは結果論かも知れないが選択可能性なんて、人の人生に於いて選択可能性などといふものは、最終的には殆ど存在しないやうな気もしないではないからである。何もある一時期にエクスプロー ジョンしよう、ある一時期に人生を燃やし尽くさうと思つて優作も早死にした訳ではないと思ふ。何もエクスプロージョンし損なつて、裕也(昭和14年生、因みに優作は24年)は今も生きてゐるといふ訳でもなからう。そんなバカな話があるものか。それが優作の一生で、それが裕也の人生である。さういふことなのであらう。そんなことを、画面一杯にはつちやけてゐる若い優作と裕也とを観ながら思つた。

 力也に用意された、爆発する高級車をバックに銃弾を何発も喰らつて、しかもスローモーションで死んで行く、死に際は字義通りエクストリームである。役者人生最高の死に様であらう。


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 「リンダ リンダ リンダ」 (2005/監督:山下敦弘/脚本:向井康介・宮下和雅子・山下敦弘/『バーランマウム』プロデュース:白井良明《ムーンライダーズ》/出演:香椎由宇、関根史織《Base Ball Bear》、ペ・ドゥナ、前田亜季、他)。
 高校生活最後の文化祭を目前に、ギターが指を怪我してしまふ。代はりのGを入れる入れないで、キーボード(香椎)とボーカルが対立。演奏が出来なくなつてしまつたGに続いて、Voまでもが抜けてしまつた女子高生バンドが、急遽KeyがGに回り、Voは誰か新メンバーを急拵へることでどうにか文化祭のステージに望まうとする、さういふ物語である。

 のつけからしくじつてしまつたのが、うつかり忘れてゐた。ドロップアウトには青春映画は御法度である。キラキラと輝きながらフラフラしてゐる女子高生の姿についついうつとりしながらも、うつかり忘れてゐた大事なことに、開始五分で私はフと気が付いた。私には何故に青春映画が御法度であるのかといふと、最短距離の更にこちら側でいふ。私は、人並みの明るくて楽しい青春なんぞ、終ぞ通つて来たことのない人間である。改めて断るほどのことでもないかも知れないが。
 全うな人並みで明るくて楽しい青春に、真正面から火の点いたダイナマイトを全力投球でど真ん中に投げ込む、全盛期のウィノナ・ライダーの映画、のやうな映画であつたならば心から安心して、エモーションのアクセル全開でボロ泣きしながら観てゐられるのだが、多少フラついてみたりモタついてみる程度で、最終的にはポジティブな、凡そ肯定的な青春映画なんてうつかり観てゐると、もう何と言つたら良いのか、絶望的に寂しくなつてしまふのである。何故か(笑)、一種追ひ詰められるやうな気持ちにすら追ひ込まれてしまふ。ハッキリ言ふが、否、いいのか悪いのかはよく判らないが、これも又ひとつの機会であらう。全速力でハッキリ言ふ。あるやなしやの(どちらかといはなくても無し)私の全てを賭してハッキリ言ふ。「独りで映画館に行くのは寂しい」。さういふ戯言をヌカす者が居る。冗談ではない。独りで映画館に行くのが寂しい、などと、そんなものは、寂しがり屋にしては甘ちやんもいいところである。素人以下のさみしがり屋である。そのやうな脆弱で怠惰な精神の持ち主に、どの面を下げてか「寂しい」、などといふ言葉を使はれるとそれだけでもう、ストレートにキルつてやらうかとすら思ふ。
 「独りで映画館に行くのは寂しい」。そのやうなことを言つてゐられるのは、一緒に映画館に映画を観に行く連れを、手近に手頃にいくらでも調達することが現実的に可能な者である。真の寂しさは、いふまでもなくその更に向かう側にある。孤独の本物なんて、考へてみれば無いなら無いに越したこともないやうな気もするが。独りで映画館に行く寂しさ、その更に向かう側に、そんな悠長なことをいつてゐられないくらゐの、一層切迫した絶望的なさみしさがある。独りでも寂し気でもしみつたれてゐても、映画でも観てゐないととても保ち堪へられなくて、やつてられないくらゐのさみしさがある。飯と水を摂つて出して、寝て起きたら次は映画でも観に行つてゐないと死んでしまふのである。そのくらゐさみしいのである。もしも生まれ変はりがあるとするならば、次の人生は、「独りで映画館に行くのは寂しい」、そんな呑気なことを言つてゐられる人生がいい。

 すつかり訳の判らない方向に話が反れてしまつたので、ゲーリー・オブライトが無理からジャーマン・スープレックスを引つこ抜くかのやうに話を元に戻す。人並みの青春も知らず、さみしくてさみしくて仕方が無いから映画を観に行つてゐる私は(段々リアルにデスりたくなつて来た)、うつかり銀幕から明るい青春なんぞを見せつけられてしまふと、ストレートに心が負けてしまふのである。さみしくてさみしくて映画を観に行つてゐるのに、更に一層絶望的に寂しくなつてしまふのである。映画に裏切られた、そんなお門違ひで、八つ当たりもいいところの気持ちにさへなつてしまふ。

 といふ訳で、ドロップアウトには青春映画は御法度であることは、単なる個人的な特殊事情と私のミスでしかないのだが、もうひとつ引つ掛かつた点がある。主人公達のバンドは急遽GとVoが抜け、KeyがGに回つてVoは新メンバーを急拵へることになる。そこで、当初の予定であつた元々のバンドのオリジナル曲は演奏出来ない。さて、それならばカバーとなると何を演つたものか、といふことでブルーハーツ、「リンダリンダ」、といふことになるのであるが、そこでそもそもが何故に「リンダリンダ」なのか、といつたことが全く欠如してゐる点が更に問題(?)である。
 ああでもないかうでもない、より正確にいふとあれも出来ない、これも出来ないと(軽音楽)部室にあるバンドスコアを取つ替へ引つ繰り返してゐると、古いカセットテープが出て来る。その中のジッタリンジンのテープを戯れに聴かうとしたところ、ケースの中に入つてゐたのはジッタリンジンですらなくブルーハーツであつた。要はそれだけである。
 リアルタイムの女子高生が、ブルーハーツを「これならコピー出来る」、と「リンダリンダ」を選んだ。確かにそれだけのシークエンスであるならば、それもそれだけでリアルであるのかも知れない。ただ、オッサン臭い物言ひになつてしまひ大変恐縮であるが、といふかリアルに既にオッサンであるので仕方も無いと居直つてもよいのだが。とまれ、リアルタイムで「リンダリンダ」を通つて来た世代としては、それはそれだけでは済まない問題なのである。「リンダリンダ」、といふ曲は特別な曲なのである。おいそれと拝借されては敵はない曲なのである。
 バカでも知つてゐる名フレーズ、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」。当時殆ど正確には理解されなかつた歌詞である。恥づかしながら、私も真にその意味に辿り着いた(つもりになれた)のは遅ればせながらブルーハーツの既に解散後である。遅れて馳せ参じるにも程があるやうな気もするが、「リンダリンダ」がカラオケ定番のはつちやけソング(劇中でも女子高生にそのやうなものとして取り扱はられる)、としての扱ひに甘んじる昨今、結局今でもその歌詞は、殆ど全く正確には理解されてゐないのかも知れない。
 「ドブネズミみたいに誰よりもやさしい」
 「ドブネズミみたいに何よりもあたたかく」
 日本映画史上最も美しい映画「淫行タクシー ひわいな女たち」(2000/監督:関根和美/脚本:金泥駒/主演:佐々木基子・町田政則)、の感想の中で過去に述べた。折に触れ形を変へ、何時も何時も相変はらず同んなじことを独り言ちてゐるだけでもあるのだが。要は、ダメなものにはダメなものなりの意味が有つた。ダメなものにはダメなものなりの美しさが有つた。ダメなものにも、ダメなものにしか辿り着けない真実といふものがあつたのである。私は私なりの、ひとつの歪んだ歴史観の下に議論をしてゐるので、ここでは敢へて過去形で述べてゐるが、ダメなものもただダメなだけでは決してない。ダメなものにも、ダメなものなりの意味が、真実が、美しさがあるのである。断じてあるのである。「リンダリンダ」といふ曲は、さういふ曲であると私は捉へてゐる。さういつた意味も含めて、特別な曲なのである、おいそれと拝借されては敵はないのである。
 何故に「リンダリンダ」なのか、といつた点が全く欠如してゐる。といつて、矢張りそれはいはゆる繰言に過ぎないのかも知れない、と我ながら思はぬでもないこともない。勿論、我々にとつて「リンダリンダ」、とは特別な曲である。そのことに関して自ら疑ひを差し挟むつもりは毛頭無い。但し、真実は真実として差し措いて、現実問題としてのリアルさ、としてはそれで、即ちリアルタイムの女子高生にとつては、「リンダリンダ」も単なる演奏の簡単なはつちやけソングに過ぎない、といつてしまへばさういふ議論も成り立つてしまふやうな気もする。
 但し、これも「淫行タクシー ひわいな女たち」の感想の中で述べたことではあるが、リアルな現実と、嘘でも真実ならば、どちらを取るのかと問はれたならば私は一欠片の躊躇も無く、後者の方を選び取る。

 と、ここでこの期に我に返つてみると、これは最早、映画の感想でも何でもない。


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 「悩殺若女将 色つぽい腰つき」(2006/製作:Blue Forest Film/提供:オーピー映画/監督:竹洞哲也/脚本:小松公典/撮影監督:創優和/助監督:山口大輔/監督助手:伊藤一平/撮影助手:原伸也/照明助手:宮永昭典/題字:吉沢明歩/音楽:與語一平/挿入歌:『LIFE』作詞・作曲・唄:ニナザワールド/協力:菊屋うどん・加藤映像工房・小山悟・安達守・津田篤・膳場岳人・小松のヨメ、他多数/出演:吉沢明歩・青山えりな・倖田李梨・柳東史・松浦祐也・サーモン鮭山・岡田智宏・甲斐太郎・なかみつせいじ)。『PG』誌主催による2006年度ピンク映画ベストテン、作品部門第一位の受賞作である、因みに封切られたのは十二月。
 デリヘル嬢の北村花子(吉沢)は、自称青年実業家の高田信雄(サーモン)に、なけなしの全財産百万円を結婚新居の建築資金と偽り持ち逃げされる。帰る家も持たないのか、当て無く彷徨ふ花子は終に空腹に力尽き行き倒れてしまふ。箕輪一義(なかみつ)に助け起こされうどんを振舞はれた花子は、恩返しと称して半ば強引に一義のうどん屋に住み込みで働き始める。
 コメディ・タッチの鶴ならぬ蛙の恩返しは、一義の幼馴染・五味隆(柳)のドラマの深化から、夫婦、親子、そして男と女。通ひ合ひ結び合ふ心と心とを描いた、オーソドックスな人間ドラマへとシフトする。といふと、実は同日に小屋をハシゴして観てゐる、加藤義一の「混浴温泉 湯けむりで艶あそび」(2006/主演:上原空)と、全く似たやうな感想になつてみたりもするのだが。勿論決して悪くはなく、要素要素のバランスのよく取れた良質の娯楽映画ではあるものの、正直なところ2006ピンク映画ベストテン第一位といふのは、些かながら如何なものかと首を傾げぬでもない。全体的な構成の緩み、あるいは求心力の欠如が見られなくないこともあり、それだけの決定力を有する映画にはあまり思へない。とはいへひとまづ、加藤義一+竹洞哲也のオーピー若手ツートップが担ふ、王道娯楽映画路線への強い支持、とここは好意的に捉へておかう。叩かなくてもよいのを通り越し叩かぬ方が望ましい憎まれ口を矢張り叩くと、あれだけ木端微塵であつた2005年の竹洞哲也に監督賞を受賞させてゐる時点で、そもそも件のベストテン自体に、個人的にはあまり重く信頼を置いてはゐなくもある。
 登場順に松浦祐也は一義のうどん屋の、頭の弱い店員・番田礼。志村けんとコントに興じる際の柄本明ばりの怪演で、コミック・リリーフを好演。同時に、さりげなくも松浦祐也の必殺が今作火を噴くのは、幸(後述)からの久々の手紙を、一義が受け取る場面。一義に手渡す前に勝手に封を開けてみせるテンポの良い小ネタを挿みつつ、生き別れた娘から不意に届いた手紙を、半々の期待と不安とを胸に一義は繙く。そんな主人を心配さうに固唾を呑んで見守りながら、一義にとつて喜ばしい中身であつたことを看て取るや「大将バンザーイ!」と歓喜を爆発させる、ところまでを背中で演じ切る。松浦祐也の確かな地力が、威力を発揮した一幕である。倖田李梨は、夫の隆と商店街で書店を営む茜。劇中登場する書店は、松浦祐也の実家であるとのこと。出前に書店を訪れがてらエロ本を立ち読みする番田の妄想の中では、倖田李梨見参!を銀幕に刻み込む剛腕のエロ女ぶりがクリーン・ヒット。明るい書店内で堂々と、茜は倖田李梨十八番のエロダンスを披露。扇情的に男に跨る、ところで「ダメーッ!」と番田が自らのエプロンを引き上げ下から結合部を隠すアクションは、規制を逆手に取つた小気味良いギャグである。
 餞別が泣かせる、店を潰し町を去る隆と茜の件から、家を出て以降生き別れの状態にある一義の娘に物語が流れるやうに移行する件は見事の一言。青山えりなは、一義の娘・幸。真心をぶつきらぼうに包み隠した不器用な青年に扮する岡田智宏は、結婚を一義に反対され、幸と駆け落ちする若い料理人・須藤憲二。青山えりなの充実は映画に強い力を与へはするのだが、これでもう少し、同時に軽目の役柄もこなせるやうになつたならば、いよいよ手のつけられなくなる最強に、手が届きもすると思ふのだが。ハリばかりでメリハリが、無いといへば無い。一方主演の吉沢明歩も、2003年のAVデビューから、ピンク出演も「人妻の秘密 覗き覗かれ」(2004/監督:竹洞哲也/脚本:小松公典・竹洞哲也)を始め何だカンだで足掛け三年五作目ともなる。正しくアイドル的な魅力がその間全く損なはれてゐない点は素晴らしいが、その分といふか何といふか、お芝居の方も相変らずアイドル然としてゐるといへなくもない。
 今回一日で小倉、八幡と小屋をハシゴして計五本のピンクをこなして来た中、竹洞組、加藤組、山内(大輔)組のそれぞれ新作三本共で正しく八面六臂の大活躍を見せるのは、いづれも“撮影監督”としてクレジットされる創優和。構図へのこだはりを見せる山内組での撮影に比して、店を畳み困難を共にする決意の上での茜と隆の濡れ場に際して、今作では映画的色調への追求を感じさせる。妄想シーンの雑な紗の掛け具合には、再考の余地が窺へなくもないが。一方加藤組での仕事にあつては特段何がどうといふこともありはしないのだが、それは実は同時に、大多数の観客に対し決して緊張を強ひることもない、大いなる安定を意味してもゐる。多彩且つ何れも高水準の仕事ぶりには、2006年度ピンク映画ベストテンの技術賞受賞も大いに肯けるところである、筆の根も乾かぬ内にいふやうだが。同じく青山えりなの女優賞は兎も角新人女優賞受賞に関しては、最早さて措く。ヒントとしては、涼樹れんて誰だつけ?
 
 前々作「乱姦調教 牝犬たちの肉宴」からの恒例か、女性ヴォーカルによる挿入歌は、前作「親友の母 生肌の色香」から引き続いて起用のニナザワールドの『LIFE』。ハマッつてゐるのか邪魔なのかが、個人的には物凄く微妙なところである。とりあへず、無くても別に困らないやうな気はする。繁盛する一義の店(ロケ先:菊屋うどん)の客役で、台詞と濡れ場もままある甲斐太郎他、多数見切れる、協力勢であらう。花子の胸の谷間に鼻の下を伸ばし一義にどやされるアツシは、実は今作が竹洞組初参戦の津田篤。小松公典の隣でうどんを喰ふ中上健次のやうな強面は、現在脚本家・港岳彦として活躍する膳場岳人。姿を消した筈の高田まで含めて、一度は別れた者も全て一義の店に再び集ふラスト・シーンは、映画の締め括りとしては正しく百点満点。その上で。創優和の撮影に関して触れた中で、青味を充溢させた隆と茜との濡れ場は、それまでの積み重ねも踏まへて身震ひさせられる程の決定力を有してゐる。反面、花子と一義とではなく、隆と茜のシーンで映画が頂点を迎へてゐるところに、今作が最終的には全般的な構成の勘所を取り逃がしてしまつてゐはしまいか、と感ずるものである。良くも悪くもアイドルアイドルした主人公の弱さに、全ては集約されるといつてしまへば実も蓋も無いが。なかみつせいじは兎も角、柳東史や青山えりなと吉沢明歩とを並べて比較した場合、勝敗は自ずと明らかであらう。そこを挽回出来るだけのシークエンスは、残念ながら竹洞哲也も小松公典も用意出来なかつた。


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