真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ハサミ男」(2004/監督:池田敏春/脚本:池田敏春&香川まさひと/原作:殊能将之/脚本協力:長谷川和彦・山口セツ・相米慎二/出演:麻生久美子・豊川悦司・阿部寛、他)。よくある、“映像化不可能”とか謳はれたミステリー小説を原作とする映画である。以下、ネタバレに関してはほぼ手放しにつき。
 成績が優秀で容姿にも恵まれた女子高生ばかり選んで、その喉に鋭利に研ぎ澄ましたハサミを突き立て殺害する連続猟奇殺人鬼・ハサミ男(豊川)。と、その助手格で自殺未遂を繰り返す知夏(麻生)。二人が次のターゲットに選んだ女子高生が、ハサミ男が手を下すよりも先に、ハサミ男の犯行を模した殺害方法によつて殺された。ハサミ男と知夏は、危険を冒しながらも真犯人を捜さうと決意する・・・といふストーリー。結末を真正面から堂々とネタバレしてのけると、ハサミ男とは<実は知夏が高校生の時に、知夏の眼前飛び降り自殺した父親(が、トヨエツ)>。即ち、ハサミ男の犯行は要は<多重人格症の知夏の、別人格として発現した父親>の凶行であつた。といふものである、堂々とするにもほどがある。
 原作に目を通さず書いてゐるので(通せ)正確なところは判らないが、原作は事件の真相にケリが付くところまでで、映画にはある更にその先といふのは、原作小説にはないものである。といふ書き込みを、公開当時に余所様の掲示板で見た覚えがある。

 知夏―とハサミ男―は、偽ハサミ男に殺害された女子高生の遺体の第一発見者に偶然なるのだが、もう一人別にゐた同率第一発見者・日高(斎藤歩)に、知夏は知夏こそがハサミ男であると見破られてしまふ。見破られてしまひつつ、知夏は日高をあつさり始末。そこに現れた偽ハサミ男@警視庁のサイコアナリスト・堀之内(阿部)と、堀之内を追つて来た刑事。知夏は堀之内の拳銃で自殺を図り重傷を負ひ、堀之内(彼が偽ハサミ男である旨は、実は所轄に感付かれてゐた)も追ひ詰められドミノ式スーサイド、堀之内は即死する。結局、真相を知る二人が各々死んでしまつたゆゑ、死んだ日高がハサミ男である、といふ方向で事件は処理される、原作はそこまでで終るらしい。
 映画の方はまだ続き、その後病院に入院した知夏のエピソードがある。その件が、原作にはない部分だといふ。加へて私が目にした書き込みでは、それが余計であるとする憤慨が述べられてあつた。が、そこが素晴らしい、入院した知夏のエピソードこそが素晴らしい。原作にはないといふことは、それはわざわざ池田敏春がどうしても描きたかつた節が脊髄で折り返して想像し得る。だからなほさら、といふ訳ではないが素晴らしい。狂ほしいほどに美しく、燃え上がるやうにエモーショナルな一幕なのである。

 知夏の多重人格症は器用な多重人格症で、自殺した父親の別人格と、知夏の元人格は同時に並立する。さういふ現象ないし症状が実際にあるのかどうかは知らないし、この際現実には存在しなかつたとて特に大きな問題ではない。画面の中では概ね常に、知夏の傍らには実際には存在しないトヨエツがあたかも存してゐるかのやうに描かれる。病室で、知夏のベッドにハサミ男も横たはつてゐる。そこに知夏の母親が見舞ひに現れる。ハサミ男<あるいは知夏の父親>は、「それでは僕は消えるね」と一旦姿を消す(知夏の意識の中から消滅する)。のちに、病院の屋上にて知夏はハサミ男と再会する。
 知夏の父親は、借金苦から自殺したものである。だが、知夏は誤解してゐた。知夏は、中学の時から不登校になつてゐた。知夏は父親が飛び降り自殺したのを目撃したショックから、父親が自分を嫌ひになつたから自殺したのだと思ひ込んでゐた。「私が勉強が出来なくて頭が悪いから、お父さんは自殺してしまつたの!?」、「違ふ」。「私が学校に行かなくなつて、髪もボサボサで可愛くないからお父さんは自殺してしまつたの!?」、「違ふ」。身を切られるやうに切なくも、熱く、重い優しさに満ち溢れた遣り取りが胸を貫く。これまで決定的な代表作に必ずしも恵まれなかつたのが玉に瑕とはいへ、麻生久美子の素晴らしさに関しては論を俟つまい。が、更にそれに加へて、麻生久美子のエモーションに引き摺られただけだといつて済ませばそれまでかも知れないが、初めて豊川悦司も普通に高く評価する気になつた。
 自殺した父親の人格を、知夏は自らの中に宿しともに生きる。麻生久美子は最早少女といふ齢ではないが、いはばくるくる少女といへよう。くるくる少女とは、8thアルバム「UFOと恋人」の中に収録されてゐる、筋肉少女帯の必殺曲のことである(詞:大槻ケンヂ/曲:橘高文彦、筋肉少女帯/編曲:筋肉少女帯)。ここでの必殺曲とは、この曲を聴いて魂が震へないやうな腐つた感性の持ち主は、B'Zかサザンでも聴いてやがれ、といふ必聴の大名曲であることをいふ。現実には存在しない、妄想の中の恋人と恋愛をする少女を歌つた曲である。

>くるくる少女は 膨らむ胸に  彼からの電波受信機がある
>アア 天秤座 夜  踊つた二人  夢なんかぢやない
>内面!ぐるぐる  内面!変はつたわ  内面!彼とのおしやべり
>内面!貰つた  内面!プレゼント ママが捨てた
>内面!夢でも  内面!ウソでも 恋してた♪   等といつた大槻の書いた狂つた、そして狂つてゐる分だけエクストリームに美しい歌詞に、橘高文彦がメタル全開の激情的な曲を付けた正しくキラーチューンである。
 
 麻生久美子が素晴らしい。くるくる少女の麻生久美子が素晴らしい。もうどうしやうもないくらゐに素晴らしい。息も詰まりさうなくらゐに素晴らしい。自らの心の中にしか存在しない、自らの心の中にのみ存在する死んでしまつた父親と知夏はともに生きる。危なつかしく、儚く脆い。然し時に、過剰なまでに強い。くるくる少女は他の何者にも依存しない、完全に独立したシステムである、だから弱い。当たり前の現し世とは異なり他の何者とも相互補完しない以上逃げ場がない、だから脆い。だけれども、他の何者にも頼ることなく独り屹立してゐる以上、そこには何程かの強さも同時に存する。全うではないとしても、並の人間には出来ない真似をやつてのけてゐる訳である。さういふ二律背反を、麻生久美子はエモーショナルに体現してゐる。
 原作にはなかつたシーンは更に続く。ハサミ男は、知夏の中に、<知夏の中にのみ生き続ける知夏が高校生の時に死んだ父親>は、もうこれからは独りで生きよ、ともう一度知夏の眼前病院の屋上から飛び降り、今度こそ完全に消滅する。飛び降りる前に、これ見よがしに大きく両腕を十字に拡げ、トヨエツが見得を切る。その姿と90°に開いたハサミのイメージとが、十字架にオーバーラップする。それは、くるくる少女達やくるくる少年達に対する、池田敏春のメッセージなのではなからうか。恐らくは「バトルロワイアル」で深作がガキ共に伝へようとしたのと同様な、熱く重い、次世代に対するメッセージである。「生きろ」だとか「ガンバレ」だとかいふ言葉は大嫌ひなので私は殺されても使はないが、我々次世代に対するメッセージである。俺には未来なんてないけれど、そのメッセージは敢て受け止めさせて呉れ。
 どうも私には、「バットマンリターンズ」や「BRⅡ」や「バタフライエフェクト」のやうに、壊れ気味かもしくは完全に壊れた映画にのみ、といふか映画に特に心を揺さぶられる傾向があるので今回も単にそれだけの、惰性に似た性行に過ぎないにせよ、美しく、素晴らしい映画であつた。やゝもすると、麻生久美子が美しく、素晴らしかつただけなのかも知れないが。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 「人妻を濡らす蛇 -SM至極編-」(2005/制作:セメントマッチ/提供:オーピー映画/監督:池島ゆたか/原作・脚本:五代暁子『呪縛の屋敷』より 桃園書房刊SM小説『蛇』掲載/撮影:清水正二/編集:酒井正次/音楽:大場一魅/助監督:森山茂雄/監督助手:高田宝重・中川大資・松本一真/撮影助手:海津真也・中村純一/協力:後藤大輔、他一社/緊縛:狩野千秋/出演:山口真里・水沢ゆりな・華沢レモン・紅蘭・竹本泰志・中川大輔・神戸顕一・牧村耕次)。出演者中、神戸顕一は本篇クレジットのみ。
 舞台は前篇の三年後、ゆうな(山口)は渋谷武彦(牧村)との交はりも絶ち、現在は平凡な主婦として生活してゐた。ところが夫・水島(中川)の急な仕事により、キャンセルになつてしまつた夫婦のグアム旅行の埋め合はせの温泉一人旅を口実に、ゆうなは再び渋谷の下を訪れ、二度とは引き返せぬ魔界への扉を開いてしまふ、といふ後篇である。
 至極編には、渋谷の知識と技術の全てを受け継いだ弟子・森沢真悦(竹本)と、開華編で大暴れしたエリカ女王様(紅蘭)は電話越しの東京に止(とど)まり、代つて妹分のリョウ女王様(華沢)が新たに登場。竹本泰志には特に心配もないのだが、華沢レモンが女王様として登場して来た時には、前作紅蘭の伊達ではない本職ぶりが印象に強い分、正直些か以上の不安を覚えたものである。ものの、それは完全なる杞憂であつた。中々以上に堂に入つた女王様である、平板にギャルギャルしてゐるやうに見えて、結構カンのいい女優さんでもあるのであらうか。加へて、ゆうなの調教に際し暴走の余り渋谷に逆らひ逆鱗に触れ、挙句エリカ女王様にも見限られ真悦からゆうな以上の苛烈な責めを受ける。といふエクストリームな展開には、ストレートに感動した。
 「バットマンビギンズ」や「亡国のイージス」といつた大作映画―バジェットは一桁違ふが―が、のうのうと何が映つてゐるのかよく判らないポンチ画面を曝してゐたりもする中、何が映つてゐるのかがギリギリ判別出来る暗さの画面をキッチリ撮り上げた、撮影の清水正二は流石の匠を披露。バジェットでいふならば「亡イー」とでも二桁の、「ビギンズ」とならば三桁の差があらう、三桁て。
 ゆうなの美しく、且つ壮絶な野外での吊りを見せた後、自らの死期を悟つた渋谷はSM発祥の地で最期を迎へると書き残し、真悦を伴ひヨーロッパへと旅立つ。魔王然としたSMの権化が、その発祥の地、欧州を死地に選ぶとは。何とも泣かせる脚本である。五代暁子の癖にどうしたのか、消える間際のロウソクか?   >失礼
 結局ゆうなは、東京でエリカがリョウと共に経営するSMクラブに身を寄せることに。亀甲縛りで彩られた肉体にコートを一枚羽織つただけで、妻が急に失踪し荒んでゐた水島の前に姿を現し、夫に自らの真実の姿を晒す、といふのがラスト・シーンである。

 開華編の出来がよかつた分、監督:池島ゆたか&脚本:五代暁子といふコンビからするとどこまで期待してよいものかといふのは、直截にいへば半信半疑以下といつたところでもあつたのだが、それもいい意味で完全に裏切られた。よくて適温のエンターテイナー、といふのが個人的には池島ゆたかに対するこれまでの評価ではあつたが、暗さと歪みのテンションが肝のSM映画を十二分に暗く、歪めてモノにしてゐた。

 一点補足< 前篇、「襦袢を濡らす蛇」に於いては、美術評論家の渋谷(牧村耕次)を激昂させてしまつた若手編集者の小田切(平川直大)が、侘びを入れに渋谷宅を訪れるも苛烈極まりない責めによつて人格を崩壊する。といふ件があるのはいいとして、尺の都合によるものなのかも知れないが、肝心の小田切が渋谷に粗相を仕出かす発端が欠けてゐるのは如何なものか、と述べた。同様に、後篇「人妻を濡らす蛇」に於いても、矢張り足りないと思はれる一幕が大きくひとつばかりある。
 新たに登場するリョウ女王様(華沢レモン)が、主人公ゆうな(山口真里)の調教に際して暴走の余り渋谷の逆鱗に触れ、挙句の果てに姉貴筋のエリカ女王様(紅蘭)にも見限られてしまひ、渋谷の弟子・真悦(竹本泰志)にゆうな以上の苛烈な責めを受ける、といふ展開にはストレートに萌えた燃えたものではあつた。当の暴走の中身といふのが、未だ処女であるゆうなの後門にバイブを捻じ込まうとして、ゆうなのアナル・バージンは後々自らが頂かうと目論んでゐた渋谷の制止を受けるもそれに従はなかつた、といふものである。それならば当然に、渋谷がゆうなに二度目の破瓜の痛みを味ははせるシーンがあつて然るべきであらうと思はれるところなのだが、それがなかつた。それはSM映画の勘所あるいは見せ場といふ意味合ひの上でも、結構致命的な欠損であるやうに見受けられる。

 以下は地元駅前ロマンにて再見を果たした上での付記<< 配役中神戸顕一は、三年前を正確にトレースしたカットでおむすびを食べながら登場する農夫。今回は道も尋ねずに真直ぐ渋谷邸に向かふゆうなを、何処かで見覚えがあるやうな風情で振り返る。冒頭の濡れ場を飾る水沢ゆりなは、真悦の元恋人で、老舗和菓子屋の若旦那との玉の輿に乗る為に、真悦を捨てた女・ミク。真悦のストーキングに関して渋谷の下を相談に訪れ、初めからそのつもりであつた渋谷に制裁の調教を受ける。この一幕も、渋谷の愛弟子にして女を苛烈に憎悪するサディスト・真悦の誕生シーンとして、開巻から輝かしい充実を見せる。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 2005年6月28日、林由美香が死んだ。享年34歳。未だ現段階では、細かいところは何も判らない。初めて知つた時は、怒らないから趣味の悪い冗談であつて呉れ、とも思つたが、どうやら逃げ場の無い事実のやうだ。詳細がどうあれ、逝つてしまつたものはもう戻つては来ない。天使は、天国へと旅立つて行つてしまつたのだ。

 林由美香、記事等ではAV女優と紹介されることが多い。確かに元々のデビュー自体はAVである。正直そつちのフィールドは丸つきり手付かず、といふかそこまで手が回らないのでよくは知らないが、勿論晩年でもさういふAVの仕事を多少はされてゐたやうである。が、矢張り我々ピンクス、といふか少なくとも私にとつて林由美香といへば、1989年のデビュー作(『貝如花 獲物』/監督:笠井雅裕/未見)以来、百数十本に出演して来たピンク映画の中にあつての林由美香、スクリーンの中の天使、として認識してゐるものである。スクリーンの中の天使、姿形が可愛らしいといふだけで天使だといふ訳ではない。確かに、とても可愛らしい女優さんである。より正確にいふと、二十歳そこらの頃は正直あまり可愛らしくはなかつた―失礼!―が、三十路前辺りから、若返つたのかと思へてしまふくらゐに本当に可愛らしくなつた。もう可愛くて可愛くて、出てる映画が多少詰まらなくとも林由美香が出てゐるからまあいいか、とさへ思へてしまへるくらゐに可愛らしかつた。
 けれども林由美香が天使であるところの―私が勝手に独りでさういつてゐるだけでもあるが―最大の所以は、その声にある。ああもう!可愛くて可愛くて身悶えする他に、もうどうしたらよいのか判らなくなつてしまふくらゐに。私は一体何をいつてゐるのだ?きつと天使といふ生き物はかういふ声で喋るに違ひない、と天使の存在の当否、などといふ無粋なテーマは黙殺の遥か彼方にどうでもよくなつてしまふ勢ひで、声も可愛い。声が可愛い。林由美香の映画を初めて観たのは果たしてどの映画であつたのか、今となつては記憶に全く定かではない。とはいへ、もう四捨五入すれば十年になるピンク映画を観始めた頃から、林由美香といへばエンジェル・ボイス!、と私の中で公式は勝手に定立してゐた。会話の中身なんてどうでもよかつた。といふか、寧ろどうでもいい方がよりよかつた、とすらいつてしまへるのかも知れない。今既に当たり前のやうにある現し世の中にどうにも身の遣り所を見付けられずに、潜り込んだピンクの小屋の暗がりの中、天使の声に、ただ純粋に美しい音に身を浸してゐられる時間は、あれやこれやといふか、あれもこれもの苦しみを、束の間忘れてゐられる至福の瞬間であつた。

 林由美香といふピンク・アクトレス。甚だ故人、といふか天国へと旅立つて行つてしまつた天使に対して非礼であるやも知れぬが、荒木太郎といふ映画監督を評価しない個人的な立場からすれば、その膨大な出演本数に対して、決して、決定力のある代表作に恵まれてゐるとはいへない女優ではある。平野勝之の「由美香」(1997年/製作:V&Rプランニング)は、ギリギリ本腰を入れて映画を観始める以前で観てゐない。いまおかしんじの「熟女・発情 タマしゃぶり」(2004)に関しては、ちやうど生きるか死ぬかのレベルで金に苦しんでゐた時期に公開されたので、観ることが出来なかつた(後日観る機会に恵まれた)。どの道、エンジェル・ボイスに脳の髄まで痺れてしまつてゐる。作品全体の評価などと、瑣末な事柄は最早問題ではなかつた。

 とはいへ、特に思ひ出に残つてゐる映画も勿論なくはない。勇気を振り絞つてあへていふが、私にとつての林由美香思ひ出の一本といへば、「三十路の女将 くはへ泣き」(1999年/製作:サカエ企画/提供:Xces Film/監督:新田栄/脚本:岡輝男/企画:稲山悌二/撮影:千葉幸雄/照明:高原賢一/編集:酒井正次/助監督:加藤義一/音楽:レインボーサウンド/メーク:桜春美/監督助手:北村隆/撮影助手:池宮直弘/照明助手:大橋陽一郎/効果:中村半次郎/出演:水原かおり・林由美香・佐々木基子・平賀勘一・速見健二・平河ナオヒ・丘尚輝)である。憚りながら“思ひ出の一本”だとかいひつつ、林由美香主演作ではないのだが。
 商店街で評判の居酒屋「雲や」の美人女将、野口雪枝(水原)。彼女にゾッコンなスポーツ用品店店主の“源さん”こと佐藤源介(平賀)や、“正やん”こと魚屋でバツイチの鈴木正利(平河)は、「雲や」に通ひ詰めるのは勿論商店街の親睦旅行に誘つてみたりと、どうにかして雪枝を落とさうと必死である。ところが雪枝には、五年前に結婚を約束してゐながら、ム所に入つてしまひ離れ離れになつてゐる吉岡吾郎(速見)といふ心に決めた男が既に居た・・・
 そこで林由美香はといふと。吾郎は刑期を終へ出所したものの、ム所帰りの男が出入りして「雲や」に迷惑をかけてしまつてはマズいと、雪枝の下に戻りあぐねる。そんな吾郎を、拾つて自分のスナック「美風」に住まはせるママ・寺島美咲の役である。
 先に勇気を振り絞つて、といつたが、一体何に蛮勇を要するのかといふと。ピンク映画を観てゐない、観たことがないといふ方には説明も要しようが、監督の新田栄と脚本の岡輝男といへば、“御大”小林悟に劣るとも勝らないルーチンワークのエクストリームさがバーストする、最も禍々しいといふ意味で最強、ではなくして最凶コンビとして御馴染みの二人である。が、この映画、少なくとも今作に限つていへば、やれば出来るぢやないかといふか、偶々雷にでも打たれたか何か悪いものでも食つたのかと思へて来る―随分な言ひ草である―くらゐに、柄にもなく真心の込められたイイ映画なのである。雪枝にうつつを抜かしてゐる間に、女房・ますみ(佐々木)が独り身の淋しさから惨めにもバイブで自らを慰めてゐるのを目撃してしまつた源介が、心を入れ替へますみを抱く濡れ場。ラストには、「雲や」で雪枝と吾郎とを商店街の皆で祝福する宴席が開かれる。クライマックスは一同万歳!!のストップモーション。その中で源介は素直に手放しで雪枝と吾郎とを祝福してゐるが、源介の隣りで正利は何時までも諦め切れずに悔しさを噛み締めてゐる。とても何時もの最凶コンビの映画とは思へないやうな、登場人物一人一人の心情の微妙な襞までが、丹念に描かれてある映画なのである。
 中でも私が最も好きな場面は、何で新田栄の映画なんかで泣いてしまふのだ、と後で恥づかしくなつてしまつた一幕は、吾郎には雪枝といふ約束の相手が居ることを知つた美咲が、けんもほろろに吾郎を「美風」から追ひ出してしまふ件。美咲も吾郎に惚れてゐる。けれども吾郎には、元々雪枝といふ女が既に居た。矢張り吾郎は雪枝と結ばれた方が幸せになれるであらうことは、美咲にも判つてゐる。だから美咲は、前科持ちの吾郎が邪魔臭くなつてしまつた風を装ひ、わざと邪険にして追ひ出すのである。「さつさと雪枝とかいふ女の所に行つちまひな!」、と口に出してこそいはないが、惚れた男の幸せの為に、惚れた男を別の女の下へと追ひ返すのである。当然ピンク映画であるからして、美咲は吾郎と寝る。吾郎との別れ際、最後にもう一度だけと美咲は吾郎に抱かれる。都合のいい話である、歌謡曲のやうなシークエンスである。何処にそんな女が居るものか、何だ矢張り何時も通りの岡輝男のスチャラカ脚本ぢやないかと、いふ人もあるのかも知れない。さういはれてみればそれが正しいやうな気もしないでもないが、私は泣いた。二年も前に観た映画であるが、今でも深く心に残つてゐる。
 出演者中本篇クレジットのみの丘尚輝は、「雲や」の板前。他に計四名が、客役として店内に見切れる。

 一度だけ、生の林由美香さんを拝見する機会に恵まれたことがある。何の映画であつたか思ひ出すことが今は出来ないが、故福岡オークラ劇場にて開かれた上映会に、林由美香さんがゲストとして来福されたことがあつた。仕事終りに駆けつけるには少々早い開始時間ではあつたが、台風で到着が遅れて、ちやうどいい時間に間に合へたことを覚えてゐる。元々はAV畑の出身であつたので、擬似が主体のピンクの現場で、初めての時にいきなり本番を仕出かしうつかり名を馳せてしまつた、といふエピソード等を御紹介されてゐた。
 天使は天国へと旅立つて行つてしまつた。虎は死して皮を残す。女優は死ねども映画は残る。これからも、銀幕の中から林由美香はエンジェル・ボイスを行き逸れた私達、といふか行き逸れてゐるのは俺の極私的な事情か、とまれエンジェル・ボイスを、私達に囁きかけたり笑ひかけたりして呉れる。合掌。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 「ラブホテル 朝まで生だし」(2005/製作:杉の子プロダクション/提供:オーピー映画/監督・音楽:杉浦昭嘉/脚本:丸本昌子・杉浦昭嘉/撮影・照明:小山田勝治/編集:酒井正次/助監督:小川隆史/監督助手:福本明日香/撮影助手:赤池登志貴・花村也寸志/照明助手:永井左紋/現場応援:広瀬寛巳/スチール:梶原英輔/効果:梅沢身知子/フィルム:報映産業/録音:シネキャビン/現像:東映ラボ・テック/出演:せりざわ愛蘭・三茶詩まや・桐島秋子・幸野賀一・柳東史・井上淳一・皆木正純)。
 杉浦昭嘉といふ人は、世代的にはバリバリの若手であるにも関らず、小林悟や小川欽也、十本のうち九本のヤル気を出してゐない時の関根和美らと同じく、どちらかといはなくともネガティブな意味合での大蔵映画(現:オーピー映画)本流に棹差す存在として、広く決して高く評価されてゐない映画監督ではある。尤も、そもそもピンク映画を観てゐる母集団の大きさが小さゝにつき、“広く”もへつたくれもないといつてしまへばそれまででもある。ともあれ、当サイト的には2002年の「独身OL 欲しくて、濡れて」(主演:木下美菜)辺りから、そこはかとなさ過ぎる体裁に隠された、実は一貫して志向されてあるのかも知れない穏やかで順当なエモーションに注目して、新作が公開される度にその人と意識して小屋に足を運んでゐたものである。ところで話は戻るが、小川欽也の和久との名義の使ひ分けには、何某かの主体的、あるいは実質的な線引きといふものは存するのであらうか。心持ち、欽也時よりは和久の時の方が幾分良心的なやうな気がしなくもない。

 脱サラした遊間虎太郎(幸野)は妻のアカリ(桐島秋子/『義父の指遊び 抜かないで!』に於けるダイナマイト・エロ芝居が鮮烈に印象に残る)を伴ひ、営業を停止してゐたラブホテル「ガウディ」の雇はれ支配人を住み込みで働き始める。ガウディの301号室には「何か」がゐて、301号室でセックスするとその何者かの影響で女が感じ易くなる、とかいふ評判が客の間では流れてゐた。さうはいへ虎太郎もアカリも、そんな噂を鵜呑みになどしてゐなかつた。ある日、虎太郎が客の帰つた後の301号室を掃除してゐると、何処からか降つて来るコスモスの花びらと、せりざわ愛蘭の幻想を見る。虎太郎が、過去に301号室で何か事件があつたのではないかと調べてみたところ、五年前、主婦売春を繰り返す女が、301号室で客の男に絞殺される。そして殺された女・千春(せりざわ)の夫・倉本三郎(柳東史)は、農場でキバナコスモスを栽培してゐた。霊媒師(井上淳一/『くの一忍法帖 柳生外伝』で小沢仁志と共同脚本の井上淳一と同一人物?)を呼んでみると、千春の霊は成仏せず301号室に漂つてゐるといふ。虎太郎は倉本を探し出し、ガウディに連れて来る。301号室に独り放り込まれた倉本は未だ、千春のことを許してはゐなかつた。やがてコスモスの花びら舞ふ中、千春の霊が倉本の前に姿を現す。そして赦し合ひ、愛し合ふ二人。千春の霊は成仏した、301号室にはもう何もゐない。ものの評判だけは残り、ホテルは相変らずどうにか繁盛してゐた。開巻インポ気味だつた虎太郎もすつかり回復し、アカリと慈愛に満ちた夫婦生活を完遂し映画は幕を閉ぢる。
 とか何とか、何とはなしに全篇大まかにトレースしてのけたが、杉浦昭嘉映画の主力装備のひとつは、自身でつけてゐるその音楽にあると思ふ。音楽的なサムシングを正確に語る用語も能力の持ち合はせもないのだが、有体に聞いたまゝを言葉にすると、如何にも安物のシンセで適当にこしらへた、安いことこの上ないフニャフニャした劇伴である。が、こゝに断ずる。杉浦昭嘉の音楽は、絶対にヒサイシ・ジョーなんかよりもエモーショナだ、少なくとも小生にとつては。倉本と千春との濡れ場、どうして五年間許してゐなかつた女とコロッと結ばれ得るのか、説明も蓋然性の欠片もない。だが然し、杉浦サウンドによつて、全ては然るべき流れとしてすつかりシークエンスが成立してしまふ。まるつきり納得させられて、ついうつかり感動すらして観てしまふ。音楽的にはよしんば決して高級な代物ではないにせよ、杉浦昭嘉の音楽は劇伴としてさういふ説得力を有してゐる、と私は思ふ。正直さういふ私見に、あまり自信を持てるものでもないのだが。
 要は相も変らない、杉浦昭嘉を評価してゐない向きからしてみれば又ぞろな、何でもない映画でしかないのかも知れない。が、プログラム・ピクチャーといふカテゴリーの中で、何でもないけれど実は案外誠実、といふ映画を撮り続ける営為はそれはそれで矢張り尊くもあり、またそれは目先の何でもなさに囚はれてゐては、決して見えて来ないのではなからうか。といふのも蛮勇を振り絞り、ここで強く訴へたい、一体誰に対して、何に向かつて。
 素晴らしいオッパイの三茶詩まやと普通にイケメンの皆木正純は、レイプ体験に基くセックス恐怖症を克服するべく噂を頼りにガウディを訪れる水鳥薫と、彼氏の中田松彦。もう一組絡みは見せずに見切れる301号室のカップル客は、スタッフ動員か。となると女の方は、福本明日香?映画の最初と終盤にもう一度、虎太郎に「儲かりまつか?」と声をかける往来なのに首からタオルを提げた浴衣が杉浦昭嘉。

 付記< 今作に俳優部で登場する井上淳一は、何かと面倒臭さうな御仁の井上淳一とは単なる同姓同名のレッドな別人


コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




 「重甲ビーファイター」第十五話、「翔んだアイドル」(1995年 5年14日放送/監督: 渡辺勝也/脚本:扇澤延男)。この脚本の扇澤延男といふ人、今回この雑文を書くに当たつてあれこれと調べてみたところ、これも又私の大好きだつたドラマ、「刑事追ふ!」の中でも一番ダークだつた第四話「陰画」や、屈指のストーリーの完成度を誇る第六話「籠城」の脚本も手掛けてゐる、その筋では結構それとして名の通つた人でもあるやうだ。

 「重甲ビーファイター」。特に必要もないので説明は最小限度に止(とど)める。甲虫をモチーフにしたメタル・ヒーローであるビーファイターが、地球の平和を守る為に異次元からの侵略者ジャマールと戦ふ物語である。

 「翔んだアイドル」、主人公は町工場で働く工員の守。壊れたおもちやを直してあげたりと子供達からは人気者であるが、同僚からは苛められてゐる。母親を養ふ為にも、辛い日々を辛抱して過ごしてゐる。守の唯一の心の支へは、アイドル歌手の矢野かおる。矢野かおるが出演するテレビに守が噛り付いてゐると、他の工員からは「矢野かおるも守なんかがファンぢや迷惑だよな」、などと酷い揶揄を受ける。
 ジャマールが今回投入する怪人は、その名もブーブーブー(ここで笑ふのはあへてナシにしよう)。ブーブーブーが鼻から噴出するガスを吸ふと、人間は「ブーブーブー」としか言へなくなつてしまふ。そのことによつてコミュニケーションを根本から阻害し、社会を大混乱に陥れようといふのが、今回ジャマールが展開する高尚なのだか下らないのだかよく判らない作戦である。
 矢野かおるがブーブーブーガスを吸つてしまひ、「ブーブーブー」としか言へなくなつてしまふ。パパラッチに追はれ、逃げ隠れしてゐるところをかおるは守と出会ふ。パンク・ミーツ・アイドル、「ブーブーブー」としか言へないかおるはとても人前には出て行けぬ、かおるを連れて守は逃げる。守はかおるを守る為に、そして憧れのアイドルを独り占めする為に、ビーファイターとの戦闘で不時着し半壊したジャマール戦闘機を修理する。かおると二人で誰も居ない、何処か二人だけの世界へ逃げるのだ。
 どうにか修理を終へ、守はかおるを乗せジャマール戦闘機で飛び立つ。一方、ビーファイターは撃墜した筈のジャマール戦闘機の飛行を察知する。三人のビーファイターのメンバーの中から、紅一点のレッドルが追ふ。
 守とかおるの前に現れたレッドル、レッドルは守に言ふ。予め断つておく、ここから先は、正確な台詞の一言一句を覚えてゐる訳ではない、基本的に大意である。レッドルは守に言ふ、「ブーブーブーを倒せばかおるちやんも元に戻る、大丈夫よ」。守はレッドルに答へた、「それならばブーブーブーを倒さないでお呉れ。元に戻つてしまへば、かおるちやんは再び僕の元を去つてしまふ」。当然、レッドルはそんな守を激しく叱責する。「相手の不幸につけこむような、そんな寂しい夢は見ないで!私は怪物を倒す、被害に苦しんでいる人の為に。そして、マモさん、あなたの間違った夢を終らせる為にも !!!!!!!!」。この台詞に関しては色々と調べてゐたら出て来た、大体実際にこんな感じの台詞であつたと思はれる。
 抗弁するでなく、守は振り絞る。(自分が間違つた夢を抱いてゐることは承知の上で)「間違つた夢でも、そんなものしか縋り付くもののない人間だつてゐるんだ」。この瞬間扇澤延男は三十分の子供番組で、三十分丸々コマーシャルに毛の生えたやうな特撮番組で、100%の覚悟を見せた。世界の99%を全て捨てても、残りの1%に全力を懸ける100%の覚悟を見せた。

 日本一の名評論、田恆存の『一匹と九十九匹と―ひとつの反時代的考察―』(昭和22年2月)からの孫引きである。新約ルカ伝より、「なんじらのうちたれか、百匹の羊を持たんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや」。親鸞上人の「善人往生を遂ぐ いはんや悪人をや」といふのも、甲本ヒロトが「君が救はれないんなら 世界中救はれないよ」と歌つたのも、全く同じ意味であると私は理解してゐる。因みに『一匹と九十九匹と』、は前出引用からかう続く。「文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか」。間違つた夢にしか縋り付くもののない、失せたる一匹の為に、ここで扇澤延男は全てのエモーションを懸けたのだ。

 結局、ビーファイターはブーブーブーを倒す。「ブーブーブー」、としか言へなかつた人々も元に戻り、社会は平穏を取り戻す。元に戻つたかおるも、「これで又歌へる」と一言礼を残し呆気なく守の下を去る。置き土産といふ訳でもないが、ジャマール戦闘機を修理してゐた時にかおるが汗を拭いて呉れたタオルを見詰め、「仕方がないけどこんなもんか」と守はションボりする。
 ラスト・シーン。工場で、何時ものやうに働いてゐる守を、不意にかおるが訪ねて来る。これから二人の、本当の関係が始まるのだ。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )