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真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「大日本人」(2007/製作:吉本興業/配給:松竹/企画・監督・脚本・主演:松本人志/脚本:高須光聖)。その時々で、シネコンの中でも最も入つてゐるスクリーンの前に座ることは、個人的には極めて珍しいことではある。
 各地に出没する巨大獣と、体に高圧電流を流すことによつて巨大化し対決する“大日本人”。かつては国民からの支持も得て栄へてゐたものであつたが、現在は大日本人の家系も大佐藤家一家を残すのみとなり、声援はおろか迫害すら受ける始末であつた。大日本人と巨大獣との対決シーンを除いては基本的に大佐藤家六代目・大(まさる/松本)に対するインタビューといふ形で進められる、ドキュメンタリーを模した形式の映画である。
 公開前に劇場で予告を観る機会には残念ながら恵まれなかつたことから、一応事前にPCで予告篇に目を通しておいた。その時からPC画質ながらに何となく危惧してゐたことであり、いつてしまへばテレビ・タレントが撮るものであるから容易に予想出来たことでもあらう、といふ言ひ方もしてしまへるのかも知れないが、だから映画ならフィルムで撮れよ、カス。開巻秒殺で、危惧はまんまと的中した。
 ところが、といふ話も変な話ではあるが、中身の方は予想外に面白かつた。ビデオ撮りであることも勘弁してやらうかといふ気にすらなつてしまふくらゐに、結構な出来であつた、ラスト五分までは。。
 時代に取り残されて行きつつある男の悲喜劇が、淡々としてゐるやうでラストに向けて着実に積み上げられて行く構成には普通に感心した。少なくとも、観客を煙に巻いて悦に入る、引き合ひに出されることも多い同じくお笑ひ出身の某監督の不誠実な映画なんぞよりは、ビデオ撮りであることに目を瞑れば余程評価出来た。ラスト五分までは
 ところが松本人志といふ人はどうやら天才の振りをした本物のバカのやうなので、ラスト五分、折角それまで積み重ねて来たものを、自ら無惨にブチ壊してしまふ。開いた口が塞がらず、最早腹すら立たなかつた。あんなザマならば、大佐藤大が焼肉屋を後にするシーンで締めてゐた方が一兆倍マシ。物語は何処にも着地してゐないかも知れないが、別れ際の台詞が鮮やかに決まる分、少なくとも余韻は残る。
 一体何処のバカが始めて続く更なるバカが被れたものかは知らないが、物語の結末をキチンと描かずに、描かないことを以てして好しとする悪弊に対しては、最大出力で如何なものかと思ふものである。それは明確に、最も骨の折れる作業を回避してゐるだけである。最も体力を要する過程を放棄してゐるだけである。それが作家性なのかゲージュツなのかcoolなのか。馬鹿か。怠惰あるいは逃避でしかない。

 吉本興業の人間の発言に、才能のある奴は放つておいても売れる、才能の無い奴を売るのが会社の仕事(大意)、といふものがある。出来上がりがどうであれ、何とはしてでも客を集めてみせる手腕だけならば評価出来る。今作の続篇も含めて、松本人志には続く幾つかの企画が既に動いてゐるやうである。「大日本人」の続篇であるならば観に行きたくならないこともないが、ちやんと物語を締め括つてゐるのかどうか、次は最低限そこのところは見極めてから動くことにしよう。


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 「刺青~堕ちた女郎蜘蛛~」(2006/製作:円谷エンターテインメント/配給:アートポート/監督:瀬々敬久/脚本:井土紀州/原作:谷崎潤一郎『刺青』《中央公論新社刊》/撮影:芦澤明子《J.S.C》/照明:佐々木英二/VE:野村俊樹/音楽監督:中川孝/助監督:村田啓一郎/劇中刺青:田中光司/出演:川島令美・和田聰宏・光石研・嶋田久作・松重豊、他)。
 まづ最初に、昨今は感想を書いてゐない以前にそもそも一般映画にまで中々手が回らないので久し振りではあるが、定番の一言。

 フィルムで撮れ、カス。

 集団催眠染みた、といふか集団催眠そのものの自己啓発セミナーの虜になる二ノ宮(和田)。不倫相手のマンションに押しかけ、ポリスの御厄介になるアサミ(川島)。すつかり取り込まれた二ノ宮はセミナーの勧誘員になり、一方、アスカは出会ひ系サイトのサクラをしてゐた。他愛も無い嘘返信を送り続けるアサミは、仕事の合間に二ノ宮が送つて来た、車の中に迷ひ込んで来たアゲハ蝶の画像に心惹かれる。禁を破り、アサミは二ノ宮と会ふ。二ノ宮が手にした『SPA!』誌を目印に、待ち合はせる二人。二ノ宮にとつても、アスカはカモである。喫茶店で、自分が出会つたセミナーを熱烈に勧誘する二ノ宮。正直戸惑ひ気味のアサミを、代表者の奥島(松重)に引き会はせる。アスカは奥島と寝る。奥島の紹介で、アスカは彫師の彫光(嶋田)の下へと連れて行かれる。訳も判らぬままに薬で眠らされ、彫光に下絵を施されるアスカ。彫光も、アスカの肌に一目で惚れ込む。意識を取り戻したアスカは、背中に女郎蜘蛛を背負ふことを決意する。
 どうにも心許ない主演の二人そのままに、ドラマは何時まで経つても定着しない。展開自体も粗雑で、一人の若い女が、背一面の大きな刺青を背負ふことを決意するに至る過程といふものが全く説得力を持ち得てゐない。出足が上手く決まらなかつたままに、その後の展開も右からきのふへと流れて行くまま。女郎蜘蛛を背負ふことによつて、アスカが生まれ変つたことの強度は欠片も見受けられず、奥島が退場した後残り尺三十分程の、俄かに二ノ宮とアスカとが世界の中心でブルース・ブラザーズを叫び始める展開もまるで意味不明。嶋田久作が重低音をバクチクさせる存在感で一人気を吐くのみの、ルーズなVシネである。興が冷める距離感を感じさせる録音も適当な劇伴も、正しくVシネ品質。登場人物が黙つて座つてゐるだけのショットでも、矢鱈とグチャグチャ動くカメラは全く理解不能。おとなしくフィックスで撮れよ、プロジェク太が壊れたのかと思つた。川島令美はとても綺麗な体をしてゐるのだが、背の女郎蜘蛛だけならば流石にキチンと押さへはするものの、数だけならばこなしてゐる割には前からのショットを殆どマトモに押さへもしない濡れ場は、ピクリとも心をときめかせては呉れない。オッパイをロクに揉みもしないといふのは一体如何なものか。ピンク出自といふことはひとまづさて措くとしても、観客の見たいものを見せる、それが商業作家としての、最低限度の良心である筈だ。色んなものが何処かに置き忘れられて来てしまつた今作、全方位的に凡作の烙印を押さざるを得ない。
 のんびりとするにも程があるのかも知れないが、そろそろ私達は知つておいた方がいいのかも知れない。「肌の隙間」(2004)の時には持ち直したやうにも思へたが、かつて我々を轟かせた、瀬々敬久はもう居ない。今あるのは、スペックの低い同姓同名の弟が撮つてゐるものに違ひない。

 ピンク勢からは川瀬陽太が、台詞も少しだけあるチョイ役でワン・シーンのみ出撃。


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 「プロジェクトBB」(2006/香港・支那合作/製作・脚本・監督:ベニー・チャン/製作・脚本・アクション監督:ジャッキー・チェン/原案・脚本:アラン・ユン/アクション担当:リー・チュンチ・ジャッキー・チェン アクション・チーム“成家班”/出演:ジャッキー・チェン、ルイス・クー、マイケル・ホイ、ユン・ピョウ、マシュー・メドヴェデフ、カオ・ユェン・ユェン、シャーリーン・チョイ、他)。
 誘拐・殺人・放火はしない身上のサンダル(ジャッキー)・フリーパス(ルイス・クー)、大家(マイケル・ホイ)の泥棒三人組。大家が持つて来た大仕事のターゲットは、訳アリの赤ん坊(マシュー・メドヴェデフ)だつた。大家がパクられてしまひ、サンダルとフリーパスはダメ男二人で赤ん坊の育児に悪戦苦闘する羽目になる。
 大名作「WHO AM I?」(1998)、超名作「香港国際警察」(2004)に続いてジャッキー映画三作目(1999年の『ジェネックス・コップ』にもチョイ役出演)となるベニー・チャンは、今作に於いても敢然とラインを超えてみせる。「ダサい?クドい?それどういふこと?」とでもいはんばかりに、ベニー・チャンは観客の涙を絞り取ることに、純粋なエモーションの結晶に全てを懸ける。アクション・パートが霞んですら見える、諸々の“絆”、をテーマとしたガッチガチの号泣映画である。とはいへその轟音エモーションこそが、ジャッキーの真のリーサル・ウェポンでもあるのだが。ジャッキーの豊かな喜怒哀楽の表現は、判り易く最短距離で観客の心に飛び込んで来る。ただそれも、俳優としての純粋な技術論の範疇に止(とど)まるものではない。そこに至る幾多のアクション・パートで実際に骨を折り、汗を掻き血を流して来たジャッキーのこぼれる笑み、迸る怒り、流す涙、漏らす穏やかな表情だからこそ、単なる演技術を超えた重みを持ち得るのであらう。助演陣最強は、蔑ろにされ放しのフリーパスの妻・バッインを演じるシャーリーン・チョイ。もういぢらしくていぢらしくて、ドラマをさて措き出て来た時の表情だけで泣かせる。

 笑つて泣かせて燃えさせて、エンド・ロールのNG集で最後にもう一度大笑させスカッと小屋を後にさせる、超一級の娯楽映画。悪いことはいはない、まづは今作を観てからだ


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 「ブラック・ブック」(2006/蘭・独・英・白合作/監督・脚本:ポール・バーホーベン/原案・共同脚本:ジェラルド・ソエトマン/撮影監督:カール・ウォルター・リンデンローブ/音楽:アン・ダドリー/出演:カリス・ファン・ハウテン、トム・ホフマン、セバスチャン・コッホ、ハリナ・ライン、他)。自身が見切りをつけたのかもうハリウッドで撮れなくなつたのかは知らないが、ポール・バーホーベンが母国オランダに戻つて撮り上げた戦争文芸映画の大作である。
 舞台は1944年、第二次世界大戦時のオランダ。当時オランダは、ナチス・ドイツの占領下にあつた。ユダヤ人歌手・ラヘル(カリス・ファン・ハウテン)はレジスタンスの手引きで家族と共に、連合軍に解放された南部への脱出を図る。ところが船はナチスの待ち伏せを受け、家族と残りのユダヤ人は全員虐殺。所持してゐた金品は強奪される。何者かが、裕福なユダヤ人をナチスに売つたのだ。
 ただ一人辛くも難を逃れたラヘルは、レジスタンスに合流。赤毛をブロンドに染め、エリスと名前も偽り美貌と歌声とを武器に、レジスタンスのスパイとしてナチス・ドイツの情報将校・ムンツェ(セバスチャン・コッホ)に接近する。ところが、ナチス・ドイツの敗戦を悟り無益な流血を厭ふムンツェ自身も、家族を戦火で喪つた心の傷を負つてゐた。ムンツェの実は穏やかな心の襞に触れたエリスは、何時しか憎むべき敵である筈のムンツェを愛してしまふやうになる。
 幼少期に、自宅が連合軍機の誤爆によつて失はれたことが自らの原体験である、と語るバーホーベンの視点は明確である。「戦争に、善玉も悪玉もあるものか」。敵方である筈の男を愛してしまふことに加へ、レジスタンスに身を投じた後も、度重なる裏切りがエリスを襲ふ。さうでなくても、キリスト教徒と共産主義者とが同居するレジスタンス組織自体がそもそも一枚岩ではない。無神論者でもあるコミュニストは皆で食前の祈りを捧げることに抵抗を覚え、銃を撃つことを躊躇ふ敬虔なクリスチャンは、相手が“地獄”の言葉を発したことに激昂、逆上して相手が既に死んでしまつてすら、死体に向かつて弾倉が空になるまで撃ち尽くす。
 「ロボコップ」、「トータルリコール」、「氷の微笑」、「スターシップ・トゥルーパーズ」、そして「ショーガール」(火暴・・・何故笑ふ)。A級バジェットのB級大作群で我々を楽しませ続けて呉れた、あくまでも“映画館”や“劇場”ではなく、“小屋”といふ言葉の似合ふ男ポール・バーホーベンは、今回一見メインストリームの文芸大作をモノにして日和つてしまつたやうにも見えて、実はさうではない。平時は日常性といふ抑制の枠内にある人間といふ生き物の本質が、解放にも似た大胆な発露を遂げるのが、たとへばSF的設定の中であるか戦争といふ巨大な非常時下にあるのかといふだけで、奥深いところではバーホーベンの刻む重低音のビート、冷徹を通り越して冷酷ですらあるシニカルなリアリズムは、欠片も揺らぐことなく不変である。柄にもないやうなお上品な文法を採用してゐるやうにも見えて、「観客とコミュニケートの取れる映画が撮りたい」といふバーホーベンは、女の裸と暴力描写といふ観客が最も見たがるものをふんだんに織り込むことも決して忘れはしない。サスペンス演出も冴え渡り、2時間24分といふ長尺を些かもダレさせない、娯楽映画としても文句の無い力作である。

 歴史の荒波に翻弄されるヒロイン・エリス自体が、決して100パーセントの善玉、100パーセントの被害者ではない。オープニングから繋がるイスラエルでのラスト・シーンに、最早悪意すら感じられると言つてしまつては言ひ過ぎであらうかと問ふたならば、バーホーベンはかう答へて呉れるかも知れない。「歴史といふものはそんな甘いものではないんだよ、坊や」。


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 スティーブン・セガールの映画を、小屋で観ることがすつかり難くなつてしまつた。私が住む、関門海峡も西に渡つた地方都市で最後に小屋に掛かつたのは、「イントゥ・ザ・サン」(2005)であつたか。正直箸にも棒にも掛からぬ映画であつたので、感想も書いてゐない。「沈黙の傭兵」(2006)は色んな意味で、といふか別の意味で評判になつてもゐたが、もう私の住む街までは劇場公開が辿り着かなかつた。元々が、近作はアメリカではビデオストレートばかりのセガール(以下セガ)でもあるので、それも仕方のない話であるのかも知れない。以下は、そんなセガの最大にして最強の最狂の問題作、「沈黙の標的」(2003/米/監督:マイケル・オブロウィッツ/脚本:デニス・ディムスター、ダニー・ラーナー、セガ/原題:『OUT FOR A KILL』/出演:セガ他)を三年前の日本公開当時に観に行つた折に書いたものを、全面的に加筆修正したものである。長くなつてしまふので結論を先に述べておく。セガの映画が小屋に掛からなくなつてしまつた、と冒頭で嘆いた。こんな映画を作つてゐては、それも又仕方がない。

 我等が、もとい私は大好きセガの珍、もとい新作「沈黙の標的」を、公開初日に早速観に行つて来た。
 基本的に映画好きの間でもバカにされることの多いセガではあるが、今回の沈黙は半端ぢやなく相当酷いとの評判であつたので、それもそれとして覚悟の上で(一部期待も含む)観に行つたものである。したところが、確かに。感動的に酷い映画であつた。最早素晴らしくすらある程に酷い映画であつた。いくらセガといふ(一応は)金看板があるとはいへ、よくぞ21世紀にこんな映画が海を越えて日本の劇場にまで辿り着いて来たものだと思ふと、一種爽やかな感動すら覚えた。
 象徴を超え伝説となつたのが、もう随分とお手軽な作業にもなつてしまつたのであらうか、発射された弾丸がゆつくりゆつくりと回転しながら飛んで来るCG。弾丸はじんわりじんわりと飛んで来るのに、走行中の車等背景の実写部分のスピードは普通のまま。要は単に異様に遅い弾丸である(火暴)。「マトリックス」がひとつの映像革命であるとするならば、反革命的映像である。
 もう、別にそこまでクズに徹することもないのに、広告からクズである。公開前日のスポーツ新聞にて目にしたものであるが、順不同、敬称略として各(プロレス)団体のトップ・レスラーの皆さんからの絶賛の声が寄せられてある。それがあんまりにも面白いので、以下に仮名遣ひを改めるのみで全文(無断)引用する。一応断つておくと、括弧内はその発言主のレスラーの名前である。

 「いま、セガールを超えるヤツはゐないぜ!」(蝶野)
 「これを見なきや今年のアクション映画は語れないぜ!」(橋本)
 「気がつけば、右手の拳に力が入つてゐました。」(小橋)
 「コイツあ、絶対ホンモノだ!オレもすつかり『セガールLOVE』だぜ!」(武藤)
 「本物は違ふな!お前ら、絶対見ろよ!」(天山)

 恐らく、彼等はこの映画を観てはゐないであらう。この映画、一応配給はギャガである。別に単に詰まらないといふ意味での、プアな広告を打つ分には驚くには当たらないが、かういふ馬鹿のキングス・ロードを驀進する広告を打つとは少々意外である。最早ヤケクソなのであらうか。私も。気が付くと、全身の力が抜けてゐた。腰が砕け、開いた口が塞がらなくなる効能を持つた映画である。
 はつきり言つて、脚本と編集とが完全に狂つてゐる、といふか脚本に関しては未完成のまま撮影してゐたのではなからうか、との説も出て来てしまふくらゐに、本来ならシンプル・イズ・ベストな映画の筈であるのに、無駄に錯綜してゐる映画である。仕方が無いので想像力を全力で駆使して、以下に足りないところや余計なところを足したり引いたりしながらストーリーを掻い摘む。 詰まるところは足りないところや余計なところばかりの映画でもあるので、ざつと全篇をトレースしてしまふ羽目になるのだが。

 初めに入る製作・配給会社のロゴ・マークが、一応はアメリカ資本のアメリカ映画の筈なのに、「一体これは何処の国の会社なんだ !?」といつた風な見たこともないショボくれたマークが出て来るところから、別の意味での期待はいやが上にも高まる。以下本篇内容。
 セガはかつてはゴーストと呼ばれた大泥棒。今はその時の知識、経験を生かして(いいのか、それで)大学の老古学の教授として活躍してゐる。ここで、転身するに当たり劇中では「新しいIDで」、などと言つてゐるので、要は経歴を詐称してゐるのであらう。
 今作の悪役はチャイニーズ・マフィア。在パリの大ボスが、世界各地に散らばる中ボスを統合してひとつの巨大組織に纏め上げようとしてゐる。その内の支那にゐる中ボスが、セガが盗掘、もとい発掘中の遺跡の出土品に紛れ込ませてドラッグを密輸しようとしてゐたところから、セガは事件に巻き込まれることになる。
 その過程で恩師の娘でもある助手の女も殺されてしまひつつ、ドラッグ密輸の濡れ衣を着せられて投獄されてしまふセガ。支那でクスリなんぞでブチ込まれてしまつた日には、濡れ衣であらうとなからうと出て来れない。
 が、支那と合同捜査中のアメリカの麻取(麻薬取締局)は、釈放したセガを泳がせ、麻薬組織の囮にすることを思ひつく。ストーカーに殺されてしまふまで何もして呉れない、日本のネガティブな警察にも見倣はせたい、強力にポジティブな人権無視の捜査方針によつて釈放されることになるセガ。
 獄中でセガは、一人の黒人と仲良くなる。如何にも思はせ振りなアップなんぞもあり、「ひよつとしてこの黒人は組織のスパイか?それとも後でセガの危機を助けにでも来るんぢやらうか」なんてうつかり観客に思はせておいて、その黒人はその後一切出て来やしない。この映画、そんなことばかりである。凡そ平素我々が馴染んでゐる、映画文法といふものが殆ど機能しない。
 結局アメリカの麻取の思惑通り、セガはチャイニーズ・マフィアの標的となつてしまふ。仲良く寝てゐたところを、カミさんは爆殺(その時セガは異変を感じ、起きて家の周囲を懐中電灯で調べてゐた)。セガの眼前で家はカミさんもろとも、凄く大味なCGで木端微塵。さうしたことからセガは、世界各地に散らばる中ボスを血祭りに上げながらの、大ボスに辿り着くまでのキリング・ロードをスタートさせる。

 恩人の娘でもある助手と、最愛の妻の命を奪つた麻薬組織への復讐を決意したセガ。とりあへずどこから手を着けるのかといふと、冒頭(支那)で飛行機に乗せて貰つた時のパイロットのところに行く。と、いつて支那まで又わざわざ行く訳ではない。そのパイロット、支那で運び屋をやつてゐたかと思へば、普段はニューヨークで飛行機学校の教官をやつてゐるとのこと。時には支那で運び屋をやりつつも、本職はニューヨークの飛行機学校の教官。その人物設定だけでも相当に奇天烈ではあるが、冒頭でキチンと「何かあつたら又声を掛けて呉れよ」、とセガに名刺を渡してゐたりもする分、この映画の中ではまだまだ良心的な内である。その飛行機野郎が案の定組織の一味であつたりする超御都合に比べれば。
 そんなこんなで、セガはまづ一人目の中ボスの所在を掴む。殺戮行脚のスタートである。
 一方超法規的措置により、一民間人を犯罪組織の標的にするといふ、豪快な積極性を見せたアメリカ(と支那の一応合同捜査)の麻取ではあるが、そこから先は清々しい無能振りを大発揮。概ねセガのキリング・ロードを、のこのこ事後にトレースするに終始留まる。

 ここから先がよく判らない。これまでも十二分に不可解な映画ではあるのだが。とりあへずセガがあちらこちらに出向いては中ボスを一人一人始末して行くのは、アクション・シーン自体には普通に見応へがあることも含めていいとして。一人の中ボスを倒して次の中ボスの居場所を掴むところの段取りの説明が、不明確であつたり時には平気で全く無かつたりする。正直本来なら馬鹿みたいに単純である筈の映画、といふか馬鹿相手に作られた馬鹿でも理解出来るべき映画の内容が、よく判らなくなつて来る。尤も、あるべき馬鹿の姿としては、変にちやんと筋を追はうなんて殊勝なことは考へず、常時ものセガ映画の、圧倒的に強いセガが大して強くもない悪者を片端から虐殺して行く、愉快なショー・タイムを楽しんでさへゐればいいのであらうが。
 物語が徒に錯綜して行く、といふか観客を無駄に困惑させるところの所以ははつきりしてゐる。殺されて行くチャイニーズ・マフィアの腕には、一々思はせ振りな入墨がある。これがどうやら一つの暗号になつてゐるらしく、セガはいつの間にか手に入れてゐた(頼むから説明してて呉れ)乱数票で暗号を解読し、更にラストでは驚愕、といふか観客をガクッとさせる真相が明かされる。後々触れる。
 物凄く思はせ振りに支那の獄中で仲良くなつた黒人が、その後に全く一切サッパリ出てきやしない。といつたシーンが序盤にあつた。同様のシーンは、その後も後を絶たない。だから頼むから絶つて呉れ。
 とある中ボスの居場所に出張つた折、プロレスラーみたいに強さうな白人の用心棒(基本的に相手はチャイニーズ・マフィアなので、構成員も東洋人主体)が出て来る。これは後でセガと凄い肉弾戦を見せて呉れるに違ひない、と思つて楽しみに観てゐると、いざアクション・シーンともなると0.5秒であつといふ間に(セガに)拳銃で撃ち殺されて終はり。何だよそりや。
  冒頭で、チャイニーズ・マフィアの襲撃を受けて(理由は不明)客も踊り子も皆殺しにされてしまふストリップ小屋が出て来る。そのストリップ小屋も、数日後には全くそのまま、普通に営業してゐたりする。矢張り本当にホンが出来てゐないまま撮影してゐたのかも知れない。それ以前に、ストリップ小屋そのものも秀逸。その他のシーンでは無駄に脱ぐ女が居るにも関はらず、ストリップ小屋のシーンには乳を見せる女が一人しか居なかつたりする。挙句にそれでも踊り子はそれなりにセクシーな衣装で踊つてゐたりもするのだが、中に一人、最早人数分のセクシー衣装を揃へることすら叶はなかつたのか、ジーパンにタートルネックで踊つてゐる女が居る始末である。その女はお調子者の客といふことなのか?
 そのストリップ小屋の近所に、組織絡みのタトゥー屋があり、珍しく能動的に麻取の支那人の方の女が様子見に行くシーンも、思はせ振りなばかりで全く意味がない。まづとりあへず、ストリップ小屋に乳を見せる女が一人しか居ないにも関はらず、タトゥー屋の女は何故だか二人とも気前良く乳を出してゐるところから、既に映画のバランスを欠いてゐる。店に入つて行く麻取の女。そこで何でだか妙に怖気づいたやうな変な芝居で、尚且つ意味のよく判らないヨーロッパ映画風な会話を(その喩へも我ながらどうかと思ふが)店員の女と交はし、一旦は店を後にする。で、結局は又その直後にヤクを買ふ風を装ひ、その店を再び訪れる。更に今度こそそこで何事かが行はれる訳ですらなく、店の女に別の場所に居る男の所へと連れて行かれるだけなのである。タトゥー屋丸々必要無し。加へて、麻取の女が案内だとかされてゐる内に、支那人の麻取の女とコンビを組む白人の男はザコキャラにボコられて、女が連れて行かれたその建物に監禁されてゐる。結局マフィアを始末してグダグダな展開に白黒をつけるのは、後からやつて来て一味を皆殺しにして去つて行くセガ。ところでセガがどうやつて、その場所を掴んだのかに関しては全く説明されない。
 一番ストレンジなのは、大ボス前、最後の中ボスをセガが片付けた、後にのこのこ麻取が後を辿つてやつて来るシーン。建物から、特に何をした訳でもないのに一仕事終へたやうな顔をして麻取が出て行く場面で、急にアメリカの麻取役の白人が歩いてゐる画が、如何にも思はせ振りなスロー・モーションに。表情は腹に一物持つてゐさうな歪んだニヤケ顔。「あれ、ひよつとしてこいつが全部の黒幕 !?」、整合性は全く成り立ちはしないが、まあないこともない展開でもあらう。するとその白人男は、建物を出た直後にマフィアの残党に撃たれて死亡。その残党を倒すのは、フレームの外から(笑)スタスタと歩いて戻つて来たセガ。意味が無いにも程がある。脳がとろけてしまひさうだ。実は不条理でも描いた映画なのであらうか。

 兎にも角にも、セガは麻薬組織の大ボスの元にまで辿り着く。兎にも角にも、としか最早言ひやうもない。ここで、驚天動地の真相が明かされる。ここで、サスペンス映画でよく使用される、これまでの場景がフラッシュ・バックでパッ、パッと挟み込まれて主人公が事件の真相に思ひ至る、といつた表現手法が用ゐられるのであるが、そのシーンの編集が又完全に狂つてゐる。といふかただ編集のみの問題なのか?決してさうでもないやうな気もする。事ここに至るに及び、殆ど思考を満足に纏めることすら最早覚束ない。さういふ映画である。よく言ふならば、観る者を酔はせる映画、とでもいふことになるのであらうか。無論、悪酔ひである。ひとつひとつのエピソードはバラバラ。推論過程は無茶苦茶。止めに辿り着いた着地点も荒唐無稽。普通に観てゐるだけで、段々と頭がクラクラして来る。ここで明かされる大ボスの魂胆とは、何とセガに中ボスを全部始末させて、組織を全部独り占めしてしまはうといふのである!えええつ !!!!!!!! 何ぢやそりや !? プロットが破綻するにも程がある。神経回路のネットワークが正常な繋がり方をしてゐる人間には、絶対に書けない脚本であらう。壊れてゐるとか何だとかいふ以前に、とてもこんなもの思ひ付けない。
 隠し扉から抜け出し、部屋に火を放ちセガを焼き殺さうとする大ボス。表に停めてあつたリムジンに乗り込まうとしたところを、窓からセガに部屋の壁に掛けてあつた青龍刀を投げ付けられて首チョンパ(その最期もどうなのか)。バッタリと倒れる大ボスの首レス死体。何事もなかつたかのやうに、ドアが自動でバタンと閉まり走り行くリムジン。言葉では全く伝はらないかとも思ふが、このシーンはアメリカのバカ映画といふよりは、ヨーロッパのアート映画のテイストとリズムに近い。
 そんなこんなでリベンジ終了。セガはゴーストといふよりは、正にデス神である。尤もゴーストといふ名称も、マフィアの謀議の中で一度きり使はれるだけなのではあるが。二、三日しか経つてゐない筈なのに、爆殺されたカミさんのことなんてすつかり忘れてしまつたのか、セガは麻取の支那人の女と仲良くなつて終はり。めでたしめでたし、といふよりは寧ろジャンジャン!!とでもいつた趣である。 大体がこれもセガ映画のひとつの目立つた特徴でもあるのだが、カミさん、あるいは恋人が殺されてその復讐がテーマの筈なのに(セガ映画は女房殺害率異様に高し)、その癖行きずりで出会つた女と常時もコロつと懇ろになつてしまふところである。ハッキリ言つてしまふが、セガの性向あるいは性行が色濃く反映されてゐる、と見るものである。

 長々と書き連ねて来たが、これでこの映画の尺は90分。要はそこだけはそこそこ普通に撮つてあるアクション・シーンを除いては、全篇強力に思はせ振りな割りには全く意味の無いシーンと、説明が足らないかもしくは堂々と全く欠如してゐるシーン。何処の国の映画だかよく判らなくなつて来るシーンに、見たことも無いやうなヘッポコ映像と完全に狂つた編集。要はエピソードも展開も全てツッコミ所。逆の意味でなら隙が無い。ある意味奇跡のやうな映画である。折に触れての繰り返しにもなるが、かつて映画に関して語られて来た全ての発言の中で私が最も好きなのは、故淀川長治さんの以下の言葉である。「どんな映画にも必ずどこかひとつ、チャーミングなところがある」。今作は、映画一本丸ごとチャーミングである。

 最後に、これまで採り上げて来たのとは全く異なる意味での、といふかそれ以前のレベルのツッコミをひとつ。セガがカミさんとニューヨークのレストランで飯を食つてゐるシーンがあるのだが、背景に、煙草を吸つてゐる女が居る。女だらうと男だらうとそれ以外だらうと、今時ニューヨークのレストランで煙草は吸へまい。実際にはまづあり得ない光景であらう。その店でセガのカミさん含めて他の客は全員正装をしてゐるのに、セガだけアクティブな普通の格好をしてゐたのも変ではあつたが。


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 今朝ラジオで聴いた名曲、ちゃんちゃこ(これがグループ名)の「空飛ぶ鯨」(昭和49/作詞・作曲:みなみらんぼう)。

 私の不確かな記憶では、二十年ばかり前、確か大槻ケンヂだつたやうな気がするが、別のパーソナリティであつたやも知れない。兎も角オールナイトニッポンで、パーソナリティの選曲だつたのかリクエストであつたのかも忘れたが、名曲として紹介され一度だけ聴いたことがあつた。確かに一聴で心を撃ち抜かれながら、その際曲名もグループ名も記憶することないままに、再び耳にする機会にも恵まれなかつたものである。
 ある朝ある町で、鯨が空を飛んでゐるのが目撃されるところから始まる、詞の世界が凄まじいばかりに素晴らしい。以下要約する。昔は森の中に、鯨は暮らしてゐた。森には幸せの花が咲き、鯨は楽しく暮らしてゐた。だが何時の日か、鯨は時の流れに押し流されて海に沈む。更に時は流れ現在、海の中にすら暮らせなくなつた鯨は、翼を持ち、海よりも広い大空に飛び出したのだ。二番の歌詞には感動を通り越し軽い戦慄すら覚える。近未来、空は鯨で一杯になり、日光は遮られ地上は荒廃する。人間は終に、大砲で全ての鯨を撃ち落とす。鯨の魂は、宇宙へと飛んで行つた。
 まるでボブ・ディランのやうな歌詞である。音楽的にはざつと聴いた感じニュー・ミュージックに片足突つ込みかけたフォーク・グループ、といつたところで、切なく儚くも力強いエモーションを惹起するメロディとコーラスは、今でも些かも古びることもなく、正しく必殺の威力を誇る。

 翻つて考へてみるならば、何時かピンク映画も時の流れに押し流されて。その時果たして、ピンクは何処に行くのか。ピンクスである私は、何処へと行けばいいのか。いかんいかんいかん。縁起でもないことをいふものではない。いかんいかんいかん。疲れてるかな?まあ、疲れ果ててゐることは、誰にも隠せはしないのだが。さういふ時には、いい台詞がある。さういふ時には、かういふものだ。

 まだだ、まだ終らんよ!


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 「マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝」(2006/製作統括:倉田保昭/配給:日活株式会社/監督・動作設計:谷垣健治/脚本:谷垣健治・青木万央/特技監督:小田一生/音楽:特撮・吉川晃司/出演:倉田保昭木下あゆ美・芳賀優里亜・椿隆之・永田杏奈・小松彩夏、アドゴニー・ロロ、平中功治・松村雄基・杉原勇武・中村浩二・竹財輝之助・岡田秀樹・長谷部瞳・秋山莉奈、他/特別出演:J.J Sonny Chiba《千葉真一》)。
 古来平安の昔より桔梗院にて封印され続ける、黄泉の国にも通じた魔人・小野篁(松村)。十二年に一度の鬼封じの秘儀に、桔梗院住職・三徳和尚(倉田)の一番弟子・イサム(杉原)が数百の僧兵を率ゐて向かふも、小野篁配下の悪鬼(中村)の前に、無惨全滅の憂き目に遭ふ。
 三徳和尚の遠縁に当たり、桔梗院に身を寄せる少女・アユミ(木下)は、鬼封じを成し遂げる為に、かつて小野篁を封じた“青龍の七人衆”の縁者を探し集めることを決意する。
 日本が世界に誇るアクション二大巨頭・倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!それと、イマドキの特撮ジャリタレアイドル大集合♪といふ、水と油だとか、両立させるに難いなどとは必ずしもいはないが、何れにせよ、その二本の柱を並立せしめんとした感覚には正直首を傾げざるを得ない、のつけから基本コンセプトの混濁した作品ではある。果せるかな、倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!シーンを純粋にそれのみを掻い摘めば兎も角、アイドル映画としては全く木端微塵。結果的に、所々を通り越して穴だらけの脚本も相俟て、結局何をしたかつたのかまるで判らない、どういふ観客を想定して撮つたつもりなのだかサッパリ窺へぬ、惨憺たる残念作となつてしまつた。
 いいところがひとつも無いので何処から手を着けるべきなのか却つて途方に暮れもするが、矢張りいの一番に。そもそもがアイドル映画ともいふと、実力の伴はないジャリタレ相手に、どうにかかうにか映画を形作つて行かなければならない。さういふただでさへ海千山千の頑丈な演出力が要求されもするところに、何で又監督が、ここに来て専門はあくまでアクションでしかない谷垣健治なのか。出来損なひのステレオタイプのキャラクター造型と、最大限に評価したとして類型的で工夫に欠けるシークエンスとが羅列されるばかりで、全く以て、パーフェクトに見所に欠ける。アクション野郎としての本領を発揮して、小娘小僧に血反吐を吐かせたエクストリームのひとつでもモノにしてすらゐる訳でもない。何の為に谷垣健治を連れて来たのか。“日本アクション映画活性化計画 始動!!”だなどとフライヤーには謳はれてゐるが、一体何の冗談だ。笑へもしない。
 倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!に関しては。確かにそれなりに見応へがありはしたが、ハッキリ書いてしまふが、少々実力差があり過ぎた。それは互ひの全盛期から、ガチのアクションの実力に関してはさうであつたのかも知れないが、倉田保昭の方が断然強い。ネームバリューと総合的な役者としての色気、といつた面に於いては千葉ちやんの方が勿論優位に立つてゐるのかも知れないが、少なくとも現時点、パワー・スピード・テクニック、全ての面に於いて、倉田保昭は千葉真一を完全に凌駕してゐる。それぞれ何かしらの得物を手にしたバトルに終始、個人的にはステゴロを観たかつたと物足りなさを感じもしたのだが、そもそも、ステゴロ(素手喧嘩)では均衡が取れずシークエンスが成立し得なかつた、といふことなのかも知れない。因みにソニーは、三徳以外では、“青龍の七人衆”唯一の生き残り・源流和尚。
 といふか更に根源的にそもそも、今作は、ビデオ撮りである。だ、か、ら、

 フィルムで撮れ。

 何をやつとるかバカ者。倉田保昭と千葉真一との歴史的初激突!だといふのに、嘗めとんのか。伝説への敬意が足りぬ。
 最早正直一々億劫でもあるが、穴だらけの脚本に関しても一応叩いて、もとい触れておく。ガリ勉、ヤンキー、コスプレイヤー、そしてキモオタ。一体それが鬼封じに何の役に立つといふのかも勿論、仕方がないのでひとまづはさて措くとして、一応は(表面的に)個性的な“青龍の七人衆”第二世代の面々に比して、アユミは自らの無個性を悩む。そんなアユミに対して、レディース暴走族・アンナ(永田)は、アユミの気配を巧みに察知する能力を指摘する。この気配を巧みに察知する能力だか何だかが、後々で活きて来ることは一切ない。桔梗院を奇襲し、三徳和尚を拉致する小野篁。去り際にアユミを見、「あの娘は使へる」。この台詞も、後々にはまるで絡んで来ない。掠りもしない。一度張つた伏線は、どのやうな形であれ一応は回収する。観客に身銭を切らせ小屋にまで足を運ばせようといふのであれば、商業映画として最低限の良心は見せて欲しい。
 音楽の特撮(本篇クレジットでは、NARASAKI《from特撮》)と吉川晃司といふのは、要は在りモノのオケ(主にイントロ)を、その所々のシークエンスに合はせて適当に使用する(だけ)といふ代物で、ファンながらに流石にもう少しヤル気を見せて呉れよ、と情けなくもなつて来てしまふ。ただ地底に潜つて行く(といふか落ちて行く)シーンで使用したのが「オム・ライズ」といふのと、クライマックスでの「ケテルビー」の使ひ方は上手く行つてゐたやうに見受けられた。
 イマドキの特撮ジャリタレアイドル大集合♪ぶりについても一応纏めておくと。主演の木下あゆ美が「特捜戦隊デカレンジャー」から、はいふまでもないとして。“青龍の七人衆”第二世代の一人・ガリ勉メガネつ子のミカ(芳賀)が、「仮面ライダー555」から。同じくナンパ師・トオル(椿)と、青年期の三徳(竹財)が「仮面ライダー剣」から。アンナ役の永田杏奈は「仮面ライダーカブト」。“青龍の七人衆”第二世代の一人・コスプレ美少女カオリ(小松)は、実写版「セーラームーン」のセーラーヴィーナス。更に、青年期の源流(岡田)が「超星神グランセイザー」から。三徳の妻で、源流からは異父兄弟に当たる美央、と全ての因縁の源たる、小野篁が道ならぬ恋に落ちる妹で尼僧の二役(長谷部)は、「ウルトラマンマックス」から。加へて殊更に隙間を突き、カオリがアルバイトするメイド喫茶の他のメイド・マミ(秋山)は「仮面ライダーアギト」から。無駄にくたびれた。

 最後に、今作のスタッフの中、意図的に省いておいたがスチールは加藤義一。この人のことであらうかとは思ふが、要はこの加藤義一と、こちらの御存知我らが加藤義一、との関係や果たして如何に?単なる、純然たる同姓同名に過ぎないのであらうか。
 ところで、アンナは結局悪鬼を倒したつけ?悪鬼にベア・ハッグで締め上げられたアユミがゲロを漏らすシーンに、谷垣健治の持つて来た香港映画のエッセンスが辛うじて垣間見える。


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 「ブラック・ダリア」(2006/米/監督:ブライアン・デ・パルマ/脚本:ジョシュ・フリードマン/原作:ジェイムズ・エルロイ/撮影:ヴィルモス・ジグモンド/出演:ジョシュ・ハートネット、スカーレット・ヨハンソン、アーロン・エッカート、ヒラリー・スワンク、他)。
 正直概ね退屈気味に観てゐながらも、ラスト・シーンには目を見開かされた。常にも増して穴が開きがちでもあつた心が、柄にもなく一発で元気になつてしまつた。予めお断りする。どうにもネタバレせずにはゐられない為、感想は概ね伏字にて処理する。

 “世界一有名な死体”を巡る謎解きや、社会の裏側、といふ半ば物理的なものを越えて人の心に巣くふ闇自身をも鮮やかに描き出したドラマ自体は、出来が良いのは判つたが、正直なところ少々退屈に観てもゐたのは私的な事実である。正味二時間の尺が、思ひのほか長く感じた。
 ただ、ラスト・シーンのフラッシュ・バックには本当に震へた。映画を観てゐて、思はず全身が熱くなつてしまふのを感じた。(ここから伏字)<深夜、ブロンド・ダリア(ヒラリー・スワンク)を始末してケイ(スカーレット・ヨハンソン)の下へと戻るバッキー(ジョシュ・ハートネット)。玄関の扉を開けバッキーを迎へ入れるケイ。そのケイのショットが、どうにも不相応に明るい。明る過ぎる。過剰に照明を当てられた年増女優のやうに、ヨハンソンの顔も室内も、真つ白になつてしまつてゐる。あれ、光量のバランスを間違へてねえか?なんて観てゐると、バッキーは庭の芝生に、腰から切断され口は耳まで切り裂かれたブラック・ダリアの死体が、カラスについばまれてゐる幻影を見る。幻影は一瞬で、心配さうに室内からバッキーを覗き込むケイの画は、通常の、妥当なレベルの光量に戻つてゐる。
 即ち、シーン冒頭の明らかに光量バランスを間違へてゐるかに見えたカットも、初めから計算済みであつたのだ。社会の闇の部分を潜り抜け、人の心の深淵に触れ、あまつさへ自らも手を汚し、からがら真夜中にケイの下へと戻つて来たバッキー。ケイの維持する生活の、温かい光に一瞬目が眩み、幻影を見る。さういふ物理的な生理現象をトレースしてゐるに留まらず、このラストは、一見ショッキングな、何程か後味の悪いバッド・エンドであるやうにも見えてしまへるのかも知れないが、実はハッピー・エンドである。ブラック・ダリアの幻影から覚めたバッキーの眼は、再び、正しい明るさでケイを捉へてゐる。そのことは即ち、バッキーが闇に堕ち、光を受け容れられなくなつてしまふのではなく、再び裏の世界から表の世界へ、光の下へと戻つて来れたことを意味する。
 物理的な生理現象のトレースに留まらず、と先に書いたが、それだけにせよ、並大抵の技法ではないのだ。加へて、あまりにも変格的なハッピー・エンドの、あまりにも変格的な独創性。光と闇の魔術。これぞデ・パルマ。これぞ映画。かういふ映画を劇場で観ることが出来たことを、私は心からの幸福と感じる。柄にもなく、興奮して前向きになつてしまつた。


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 「マイアミ・バイス」(2006/米/監督・脚本・製作:マイケル・マン/撮影:ディオン・ビーブ/出演:コリン・ファレル、ジェイミー・フォックス、コン・リー、ナオミ・ハリス、ジョン・オーティス、バリー・シャバカ・ヘンリー、ルイス・トサル、エリザベス・ロドリゲス、他)。
 南米の巨大麻薬コネクションへの危険極まりない潜入捜査に挑む、マイアミ警察特捜課(が、“マイアミ”の“バイス”)の二人の刑事を描く。80年代後半の伝説的TVシリーズは殆ど未見なので、今回は「マイアミ・バイス」の映画版リメイクといふことではなく、潔く新作アクション映画の一本として臨んだ。因みに、TV版「マイアミ・バイス」に於いてはマイケル・マンは製作だけで実は未監督。今作が、マンの「マイアミ・バイス」初監督作品である。
 TV版の「マイアミ・バイス」を一切考慮に入れずに観てみたところ、シリアス目の「バッド・ボーイズ」とでも思へば、まあ普通に観てゐられもするのではなからうか。ドラマは中盤、猛烈に中弛むが。ジェイミー・フォックスと危険な潜入捜査に挑むコリン・ファレルと、組織のトップの懐刀のコン・リーとの絡みは、丸々不要。ラストのドンパチ・シーンでのエモーションにも、恐らくはマイケル・マンが狙つてゐたであらう程には全く寄与してゐない。この部分を削ると、丸々二十分は切れる。
 「トラフィック」にでも向かうを張つたつもりなのか、それとも何某か大人の事情でもあるのかも知れないが、物語にリアリティーを与へるだとかの名目で、ウルグアイ、パラグアイ、ドミニカ、その他。矢鱈と中南米のあちこちでロケを張り過ぎ。プロダクションの無駄遣ひだ。ここも全部端折つて、浮かせた時間と予算とをドンパチに注ぎ込む。さうした方が、世間的な体裁や評論家連中のどうでもいい評価は兎も角、絶対に映画は面白くなる。コリン・ファレルが、コン・リーのあるかなきかの微妙な色香に何故か惑はされ、ミイラ取りがミイラになりかけるやうな物語は、どうしたところで大して高尚なものになる訳でもなからう。それならば、そこだけは本当に見応へがある、観てゐて恐怖すら覚えてしまふくらゐ迫力があるドンパチに特化した方が、潔い正解であるやうに思はれる。
 とはいへ、今作の最凶のウイーク・ポイントは、どうやらマイケル・マンは。殆ど全く映画をフィルムで撮る気が無いらしい。この期に改めていふやうなことでもないのかも知れないが。当人は観客に臨場感を与へられるつもりでゐるやうだが、HD(高解像度)ビデオ・カメラによる映像は、特に夜の実景が酷い。「コラテラル」(2004)の時にはそれ程気にはならなかつたから、技術的には後退してゐないか?今「コラテラル」を同じ劇場で再見してみた訳ではないので、ハッキリしたことは言へないが。コリン・ファレルが、コン・リーを乗せてパワーボートをマイアミからキューバにまで、昼間の海を走らせるシーンも木端微塵。ボートを上から撮ると、白いボートが太陽光を反射して、ピントを合はせようにもどうにも合はせられない。勿論、カメラマンがファインダーを覗いてゐる時点では合つてゐるのであらうが、出来上がつた映像からは、色が割れてピントが合つてゐないやうにしか見えない。
 雷にでも打たれない限り、マイケル・マンが考へを改めることもなからう。そろそろこの人の次の映画といふのは、パスする潮時なのかも知れない。

 後「マイアミ・バイス」。クールでスタイリッシュなアクション映画、としてプロモートするつもりのフライヤーの文面のダサさは、最早ギャグなのかと思へてしまふ程に必見である。


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 「グエムル 漢江の怪物」(2006/韓/監督・原案:ポン・ジュノ/脚本:ポン・ジュノ、ハ・ジョンウォン/グエムル開発:ニュージーランドとアメリカに外注/出演:ソン・ガンホ、ピョン・ヒボン、パク・ヘイル、ペ・ドゥナ、コ・アソン、他)。ポン・ジュノに関しては「ほえる犬は噛まない」(2000)も、「殺人の追憶」(2003)も共に未見。それならお前は、一体何の映画を観て来たのだと同時代の映画ファンからは難詰されてしまふかも知れないが、それならば、あなた方からさへも打ち棄てられた映画を観てゐる。とくらゐしか最早言ひやうもない。

 父・ヒボン(ピョン・ヒボン)と漢江の河川敷で売店を営むカンドゥ(ソン・ガンホ)。暇さへあれば居眠りしてばかりで、店番すらままならない。愛娘のヒョンソ(コ・アソン)は一家の希望の星で、皆から愛されてはゐたが、ヒョンソの母、即ちカンドゥの妻には、ヒョンソが生まれて間もなく逃げられてしまつてゐた。
 ヒョンソが帰宅。カンドゥの妹、ヒョンソからは叔母に当たるナムジュ(ペ・ドゥナ)のアーチェリーの試合を、テレビでカンドゥと固唾を呑みながら観戦する。カンドゥがヒボンから言ひ付けられて渋々客への配達に出たところ、それは現れた。
 魚のやうでもあり、獣のやうでもある異形。長大な尻尾の先まで含めると、体長は2~30mはあらうか。突如漢江に姿を現した怪物は、やがて陸に上がると猛然と駆け回り、人々を襲ひ始めた。長閑な行楽地が一転、阿鼻叫喚の地獄と化す。周囲の異変に気付いたヒョンソが、家から外へ出てしまつた。何も出来ないでゐるカンドゥの目前で、怪物にさらはれ、漢江に消えるヒョンソ。
 悲しみに暮れる遺族。合同慰霊祭の斎場に駆け付けた、反政府運動に参加した経歴が災ひしてか、大卒であるも未だ定職に就けずにゐるカンドゥの弟、ナミル(パク・ヘイル)は、(ヒョンソがさらはれたのは)お前の所為だと、カンドゥに怒りと悲しみとをぶつける。ところが彼等は纏めて、怪物からウイルスに感染した疑ひがある、と病院に収容され、とりわけ怪物の体液を浴びたカンドゥは、厳重に隔離されてしまふ。
 そんな中、カンドゥの携帯に電話が入る。ノイズさへも消え入りさうな中、微かに聞こえて来るのは、ヒョンソの声だ。「お父さん、助けて!」。誰からも信じては貰へないが、ヒョンソは生きてゐる。生きて、助けを求めてゐる。一家は病院を脱出し、ヒョンソ救出の為に悪魔の棲む河に向かふ。
 ある者は途中で命を落とし、又ある者は再び捕らはれる。ある者は愛する姪の居場所を掴みかけるも逃避行の最中力尽き、又ある者は怪物の反撃に遭ふ。それでも、命ある限り家族はヒョンソの生存を信じ、再び逃亡を図り、もう一度再起しては怪物の姿を追ふ。
 終に起動する、米軍の最終殲滅兵器。全てを死に至らしめる死の霧が世界に白く立ち込める中、遺された家族は、喪はれた命と新たに見出された命との為に、人の造りし悪魔と最後の聖戦を決すべく対峙する。

 四~五割水増しして纏めてみたが(上げ底かよ!)、個人的にはストレートに感動した。怪獣映画としては怪物の比重が物語の中でさほど大きくはないが、それはそもそも、私の早とちりでもあつたのであらう。奪還もの、より底が浅くなる分、判り易くもなるであらうか個人的用語としての、ゲット・バックものとしては普通によく出来てゐた。一言で切つて捨ててしまふと、“怪物”グエムルのデザインと設定とが「WXⅢ 機動警察パトレイバー」(2002)をパクつてゐようとゐまいと、そんな枝葉は殆どどうでもよい。
 ただ、ここでひとつ難しいのは、個人的にはストレートに、普通に感動したものではあるが、監督のポン・ジュノは、恐らくはストレートな映画としては撮つてゐないであらう点。展開の中に於いてしばしば、ポン・ジュノは意図的にリズムを遮断する。これが私の大嫌ひな(スティーブン・)ソダーバーグの映画であるならば、そのまま自ら流れを遮断してしまつたまま、映画は途絶されたまま終つてしまふ。にも拘らず、今作が最終的にはエモーションへの結実を果たすのは、ゲット・バックものの持つエモーションの普遍性とでもいふべきものが、ポン・ジュノの瑣末な作家性を凌駕した、とでもいふことなのであらうか。
 作中のあちらこちらに、現代(韓国)社会の持つ様々な問題点に向けられた、文明批評じみた描写も挟み込まれる。そのいづれもがよくいへば判り易いが、そのままいつてしまへば底が浅く、芸が無い。一体ポン・ジュノといふ人は、頭のいい人なのかさうでもない人なのか、初めてその映画を観る私には全く判らない。頭のいい人が撮つた頭のいい映画は、観てもお前には判らんぢやろ?さういはれてしまふならば、最早返す言葉は片言も持ち合はせないが。
 ともあれ最終的には。木戸銭さへ払つてしまへばこつちのものとでも言はんばかりに、ポン・ジュノがどういふつもりでこの映画を撮つてゐようとも、感じたままにストレートなエモーションに震へてゐるのもアリだ。と、知性と節度といふ単語を辞書に持たぬドロップアウトとしては開き直るものである。

 潔くアメリカに丸投げしたグエムルのCGは総じて見事な出来栄えではあるが、クライマックスの<グエムルが炎上する>シーンに於いて、若干力尽きる。


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 「ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT」(2006/米/監督:ジャスティン・リン/脚本:クリス・モーガン、カリオ・セイラム、アルフレッド・ボテーロ/撮影:スティーヴン・F・ウィンドン/出演:ルーカス・ブラック、ナタリー・ケリー、ブライアン・ティー、サン・カン、BOW WOW、JJサニー千葉、北川景子、他/カメオ出演:妻夫木聡、中川翔子、柴田理恵、KONISHIKI、土屋圭市、他)。一本目(2001年)も第二作:X2(2003年)も共に、劇場で観てゐる割に中身はサッパリ覚えてはゐないが(X2が第一作よりも更に中身が無く、詰まらなかつたことだけは覚えてゐる)、それでもアクション映画といふとどうしてもさて措けなくて、X3も性懲りも忘れたふりをして観に行つてしまつた。どうでもいいが、ピエール瀧なんて何処に出てた?出てゐるらしいが、それは全く判らんかつた。
 それと、かういふ映画を観てゐてよく思ふのは、何でこんな映画の脚本を三人がかりで書かにやならんのだらう?といふことである。ハリウッドがしばしばさういふシステムを採用する、といふことであるのかも知れないが。日本でかういふ脚本の共作システムを、多く採用するのが関根和美である。何でこんな映画に?といふ面に於いては、ニトロで加速してゐる。

 ショーン(ルーカス・ブラック)は車絡みの非行行動を数々起こした末終に母親に匙を投げられ、職業軍人の父親を頼り、東京に流れて来る。ショーンはそこで、これまで知らなかつた車とこれまで知らなかつたレースとに出会ひ、ドリフト・レースにのめり込んで行く。と同時に、危険な裏社会の揉め事に巻き込まれても行く。
 カスタム・カーがビュンビュン爆走し、ビッチな姉ちやんが尻をプリンプリンと振り、矢鱈と沸点の低いマッチョなDQNがボコスカ殴り合ふ。要はそれだけで、それだけであるが故に世界中で大ヒットしたシリーズの第三作である。今回の新機軸は、舞台が日本であることと、日本発祥の独自走法、ドリフト走行を主眼に置いたドリフト・レースが、カー・アクションの目玉になつてゐるところである。
 アメリカに居場所を無くしたショーンが、日本に流れ着くシーン。いきなり空港だか駅だかに、M.C.ハマーの馬鹿デカいパブが飾られてゐる。・・・・・これは何のギャグだ?日本人は未だにM.C.ハマーとか聴いてやがんだらう?とかいふ挑戦的な危険球なのか?そのシーンの破壊力が、個人的には今作に於いて極大であつた。ハリウッド映画でM.C.ハマーの姿を拝むのは、「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル」(2003)以来である、因みに。
 他に日本絡みの小ネタとしては、ショーンが高校の屋上でボコられてゐる友人を助けに行く、生身アクションとしての見所がある訳でもない以前に、後のストーリーにもさして重要な意味は全く持たない為、切らうと思へば丸々切れてしまふシーン。屋上へと至る扉に貼られた注意書きが、“間けたら閉めませう”(原文は勿論珍かな)。“間けたら”つて何だよ“間けたら”つて !?大きな金使つて作つてゐるんだから、そのくらゐのことちやんとしろよ。
 別の意味で最も感動したシーンは、信号待ちで停まつてゐる、ビッチ二人組が乗る車。そこに通りがかる助手席にショーンを乗せた、ショーンの日本での兄貴分・ハン(サン・カン)の運転するカスタム・カー。いきなりハンは車をビッチの車の周囲で猛然とドリフト!十数回女の車の周りをドリフトで回転した上に停車。さうすると女の方からメモを車越しに渡して呉れ、携帯の番号をゲット♪普段小川欽也や珠瑠美や新田栄や十本中八、九本の何時もの関根和美の映画や・・・(以下略)ばかり観てもゐる日常ではあるが、これ程頭の悪いシーンには、久方振りにお目にかかつた。
 ヤクザ親分役の我等が千葉ちやんは、まともに体を動かすアクション的な見せ場は全く皆無なものの、流石の貫禄を披露。見るからにゴッドファーザーな洋装で登場するも、ここはいつそのこと、判り易い着流しといふのも見てみたかつたやうな気もする。
 何処に出て来たのか本当に判らない中川翔子は兎も角、カメオ勢の中で最も健闘したのは、深夜の立体駐車場を占拠して繰り広げられるドリフト・レースの、スターター役として登場の妻夫木聡。煙草を咥へて悠然と登場すると、左右の「レディ」役と「セット♪」役のビッチをそれぞれ指先を回しながら示し、自身の台詞は「GO!」の完全なる一言のみ。予告でもさんざ使はれ倒したシーンである。出番は全くそのカットのみ。妻夫木聡の役者人生の中で、今後一切越えられないベスト・アクトであらう。少し声を荒げると途端に声の割れてしまふ、発声の全くちやんとしてゐない役者といふ奴を、個人的には全く評価しないものである。

 一作毎に車とレースの種類とを変へてみせる、といふシリーズ・コンセプトに三作目にして最大の特化をしてみせた点は非常に高く評価出来るが、逆に、もしも再び作るならば次回作はどうするのか、といふ点は非常に足りない頭を悩ませるところであるのかも知れない。F1に進化でもしてみるか?監督はレニー・ハーリンで。


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 関根和美の2001年の旧作「痴漢電車 ぐつしより下唇」(脚本:関根和美・小松公典/撮影:柳田友貴大先生)を観に行つた。既に感想も書いてある。感想を書いた際の時点で、故福岡オークラで数度観てゐる映画である。今回で、人生通算では四~五度目にならうかとは思ふ。いきなり実も蓋も無い結論を述べてしまふと、ハッキリいつて、さうさうといふかそもそも、何度と観る映画では全くない。一切ない。些かもない。一度途中で寝てしまはずに最後まで観通すことが出来たならば、それきりにしてしまつて完全に構はない映画である。寧ろ、寝落ちたままにしたとて、何程か喪ふものも、得損なふものがある訳でもない。既に述べてあるやうに、十本中八、九本の何時もの関根和美の中でも、底の方に位置する一本である。ルーチンワークの極みにある一本である。
 さうはいひつつも、そんな「ぐつしより下唇」をスルーしようとは、欠片も思はなかつた。のんべんだらりとしかしてゐない関根の旧作を、私は普通に観たくなつてゐた。いとほしくすら感じ、いとほしく観に行き、いとほしく観て来た。
 幾度繰り返し観ようと、新たに得るところのものなど無いことは、勿論とつくに初めから判つてゐる。“ラブキング”章吾(中村拓)の奸計に陥れられ、美咲(小泉未貴)と結ばれる筈が痴漢の汚名を着せられた植草教授、もとい聖二(山崎岳人)が、拡声器片手に章吾と美咲とがセックスするホテルの部屋に突入するクライマックス。そのシーンに、既に遥か彼方に通り過ぎられてしまつた昔のこととはいへ、未だ祭りの季節忘れじ、な関根和美の頑強な活動屋魂が発露、してゐよう筈もない。私はそこまでアクティブな映画の観方をしはしないし、又するべきでもないと思つてゐる。
 詰まるところ、初めから詰まらないと判つてゐるピンクをノコノコ観に行つて、勿論詰まらないままに、それでもいとほしく観て来たのである。それは福岡オークラを喪つてしまつたことによる、だらしのないセンチメンタリズムであるのかも知れないが、なほのことそれでも構はないと思ふ。ルーチンワークであらうと何時もの関根和美であらうと、ゴミ映画クズ映画Z級以下のカス映画であらうと、今は一本一本のピンクが、それでもいとほしくて仕方がない。といふか、逆からいへばそれでも荒木太郎は観る気がしないのか?
 詰まらない映画は詰まらない。出来の悪い映画は出来の悪い。ヤル気が全く感じられない映画には、矢張り全くヤル気が感じられない。全くヤル気が感じられないとまでいふのは、流石に今作に関しても言ひ過ぎか。少なくとも脚本には、起承転結を手際よく纏めた、娯楽映画の正統への誠実な志向が感じられる。それも些か褒め過ぎかも(爽)。全篇を通してボーン・トゥ・ビー・ルーズな演出と、全く蛇足としか思へない大オチとが一切を台無しにしてしまひはするが。とはいへ、加藤義一に撮らせてみたならば、もつと幾らでも面白くなつたやうな気もしないではない。
 話を戻すと、私は決して、もしくは私とて、今作に何程かの価値を見出さうとしてゐる訳ではない。今作を、ストレートな凡作といふ謗りから救ひ出さうとしてゐる訳でもないことだけは、ここに声を大にして言明しておく。私が感じたいとほしさは、所詮私の気の迷ひに過ぎないことは、最初から、そして最も判つてゐるつもりである。その上でなほ、それでもいいのではないか。それはそれで、それでもいいのではないか。
 久々に繰り返すが、当サイトが推奨するピンク映画の観方とは。つべこべいはず、番組が変る毎自動的に、兎に角黙つて百本観るべし。話はそれからだ、といふものである。映画会社や監督の名前で映画を掻い摘んで、それはそれとして巨大なピラミッドの一角のみを、それなりに広大な大海の上澄みだけを掠め取るやうな真似は詰まらん。ミニシアターで一般公開もされるやうな映画や、レイトショーで特集上映を組まれるやうな映画だけを観て、それがピンクか。何をかいはんや。冗談ではない。冗談ではない。冗談ではない。
 どうやら映画の撮り方を根本から忘れてしまつたらしい瀬々敬久の、全盛期の文字通りの圧倒の凄まじさに関しては、ここで出遅れるにも甚だしい私如きの論を俟つまでもなからう。それはひとつの頂点であり、絶対である。当サイト絶賛の、山邦紀の最強。観客の全てを翻弄して狂ひ咲く変幻怪奇と、実は的確にそれを統べる冷徹な論理。超絶のデビュー作から四年、未だVシネに下野したままの城定秀夫の必殺。当たり前を当たり前のやうに撮る。表面的には見えにくいけれども、実は最も確かな技術が要求されるフィールドにプロフェッショナルとしての良心を賭ける、古くは伊藤正治や中村和愛らの、忘れ去られるにはあまりに惜しいエクセスの沈黙する宝石達。最近では再び登場、オーピーの若きエース格・加藤義一。燦然と輝く巨星、超新星、キラ星達。それらは勿論素晴らしい。それはそれで勿論いい。その上でなほ。
 「ぐつしより下唇」。今作のやうな純然たるやつつけ仕事に対してさへ。時にいとほしくていとほしくて仕方のない時もある。仕方のない者もゐる。ハチャメチャな自己紹介をするが、私のハンドルは、(近代)ドロップアウトカウボーイズである。何故に単身一個人であるにも関らず、“ドロップアウトカウボーイ”ではなくして、あくまで複数形なのか。もしも仮に万が一、この世界、即ち近代の中で、ただ独り私のみが近代的個人になり損ねた不完全な存在であるならば、元より欠片の値打ちも無いこの命、何時でも強制終了させて呉れる。晴れ晴れと、些かも自慢にならない手柄として、この命と引き換へに不完全な世界を完成させて呉れる。が幸か不幸か、私はそれ程特別な人間ではない。残念ながら、私の不完全さは完全であり、何事か特殊なものですらない。平々凡々たる不完全さである。それ故の、あくまで複数形の“ドロップアウトカウボーイズ”なのである。
 かつて中原昌也は、ティム・バートンを評してかう言つた。「ティム・バートンは、心のさもしい人間のための映画を撮り続ける」。当該書籍が、引越しをしたきり(越したのは二年半前以上前であるが)何処に箱詰めしたのか判らなくなつてしまひ出て来ないので、正確には細部に差異があるやも知れぬ。ともあれ。くどいやうだが、今作のやうな、純然たるやつつけ仕事。あくまでひたすらに、それでも番線を支へ続けて来たこと以外にも、心の貧しい者の為の貧しい映画。さういふものも、時にあつてもよいのではないか。埒の明かぬいとほしさの果てに、戯れにさういふ一層埒の明かぬ結論に達してしまつた。心の貧しい者の為の貧しい映画。さういふ映画ばかりでも、困つてしまふが。


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